黙劇 3
研究棟の二階は研究員の生活の場である。
各員には個室が割り当てられ、共同の給湯室や浴場、トイレなど、人間らしい生活をするための設備はおおよそ揃っており、食材や雑貨などそのつど必要になるものは専用の業者によって届けられるしくみになっている。
新人である保坂の部屋は、カステラの箱を横にしたような直方体で、奥行きは十分でも幅は極端に狭い。ベッドと本棚を対角に、ロッカーと箪笥をもう一つの角に並べて配置し、あとはパソコンを一台置いたらもうほとんどスペースは残らない。食事は、作りつけの小さなキッチンと壁に埋め込まれた冷蔵庫があるので、材料さえあらかじめそろっていれば外に出る必要もあまりない。
窓は一つ。夕方になると西日がきついが、基本的にこの部屋には深夜にしかもどらないので問題はない。
秒針が時を刻む音が、この場でもっとも大きな音だった。疲れ果てて戻ってきた住人が思考する力を失っていても、壁の時計は勤勉に己の役割をまっとうし続けている。
デスクの上では、パソコンの画面に光が流れていた。
暗闇を旅する大小の星屑が、大きな渦を描いて一点に収束し、ぶつかりあってより大きな光を作る。新たな、星の誕生。
来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
応答を待つ空白があり、また、チャイムが鳴る。身体をろくに曲げることもできない狭いベッドの上で、枕に顔をうずめていた保坂が身じろぎした。
ふぁい、だか、ほぅい、と聞こえる生返事をして、彼は起き上がった。まだ半分閉じている目の下には隈があらわれ、あごには無精ひげがのびていた。
放っておけば延々と繰り返される星の乱舞に気づき、保坂は顔をしかめた。実験の現場から外されて以来、言い渡される仕事といえば雑用ばかりで、日々不満や焦燥を募らせていた。気晴らしにネットに繋いで方々のサイトを巡っていたのだがそれにも疲れ、ぼうっとスクリーンセーバーを眺めているうちに眠ってしまったらしい。保坂は謝罪の言葉を叫びながら簡単に身なりを整え、ドアを開けた。
男が一人立っていた。
坊主頭に黒丸メガネをかけた長身の男。白衣の胸にはA.D.A.の関係者であることを示すIDカードがある。研究員か……
見たことのない顔だったが、さほど不審には思わなかった。保坂は新人であるし、何よりここでは、同じ研究棟以外の人間と顔を合わせる機会はめったにない。
「あなたは……?」
「土田と申します。中央塔のスタッフです」
「ということは、所長の」
土壌に雨水が染み入るように、保坂の全身は緊張感で満たされた。長田所長の下で働く人間が、自分に何の用だ?
土田と名乗った研究員は頬の筋肉を
「はい。ですが今日は、保坂所長秘書の要請で」
「姉の?」
心臓を氷の手で掴まれる心地がした。
このような立場に置かれている状況で耳にしたい名ではなった。他の大抵の場合でも、それは同様ではあったろうが。
第一研究棟にある君嶋の自室は、彼の友人である長田の部屋とは対照的に、装飾や趣味の品は少なく、その代わりに研究に使う端末や資料、書物の類がうず高く積まれている。
これらの山は、一見して雑然とただ積み重ねられているように思えるが、何年も助手を勤めていると、そこに一定の法則や関連性があることや、部屋の主にとって使い勝手が良いように計算された配置などが見えてくる。一つ覚えるたびに、君嶋に近づいている気がして嬉しかった。今ではここにある物のほぼすべてが、彼女の頭にも収まっている。
そういえば、保坂が初めてこの部屋に足を踏み入れた時、君嶋が指示するあれこれの資料を迷うことなく見つけては彼に手渡す彼女を見てひどく感心していた。
保坂を思い出した瀬田は、一つため息をついた。
まったく、どうしてあんな事になってしまったのか。
保坂が事件を起こした直後――あの時もこの部屋を訪ね、情状酌量を訴えたが君嶋の意思は揺らがなかった。
(彼の指導を任されていたのは私です。責任を問うならば、私にも――)
そう言ってかきくどきもしたが無駄だった。
(あれは彼個人の問題だ)
突き放された気がした。不問に処された事で、あの件に関わる権利がお前にはないのだと言われたように思われ、それ以上食い下がれなくなってしまった。
それが、無性に悔しかった。
(なんで……あんたは……)
保坂を殴ってやりたいとも思ったが、そんなことをしても何もならないし、自分がよけい惨めになるだけだとわかっていた。
保坂はあくまで実験の中止を訴えたのは有里の状態を見て危険と判断したからだと言い張っていた。しかし、瀬田の目にはそれだけはないように見えた。
有里に同情心を抱いてしまったというのか。Mを完全に研究対象と見なしていた彼が。
(いや……もしかしたら、そうではなかったのかも……)
保坂は優しい――というより、A.D.A.の研究員としてはあまりにまともでありすぎたのかもしれない。ともすれば情に流されそうになる己を律するためには、非情の仮面を被るしかなかった。そうは考えられないだろうか。
だが、無理をすればいずれほころびが生ずる。そのほころびをつついたのは、君嶋でも有里でもなく、自分だったのかもしれない……
彼に会わなければ。会ってたしかめねばならないと、瀬田は思った。
「先生」
呼びかけても君嶋は顔を上げなかったが、耳に届いてはいるだろう。
「終わったら、保坂くんのところへ行っても――」
「そうだな。ようすを見てきてくれ」
言い終わる前に君嶋の方から頼まれ、瀬田はほっとした。しかしすぐに、どうして彼がそんなことを言い出したのかという疑問が頭をもたげる。
「……先生は、彼がA.D.A.に来た理由をご存知ですか?」
「ああ。人類の進化とやらに貢献したいというのだろう」
青臭い夢だ、と君嶋は資料と睨み合いながら言った。
「そうでしょうか。A.D.A.の研究成果を見れば、あながち突拍子もない話とも言えない気がしますが」
「遺伝子を操作し、新たな生物を造り出すことがか?」
君嶋はいつになく饒舌だった。もっとも、口を動かしながらでも作業の手はまったく休めていない。瀬田も資料の整理を続けながら言う。
「生物の進化とは、身体構造の変化のみによって測るべきではなく、精神の深化、発展をも併せて考えなければならないと、彼は自身の論文の中で述べています。これを人類にあてはめるならば、思想、社会構造、科学技術といったものも進化によって獲得した能力と呼べる……ならば、M開発に使われるような技術を人間にも用いることはある種必然であり、当然の選択肢であるとも」
「瀬田君。君は、それを正しいと思うか?」
「一面では」
そうか、と君嶋はうなずいたようだったが、瀬田からはその表情をうかがう事は出来なかった。
「かつて、それと同様の話をある男から聞いた」
瀬田は思わず手を止めた。君嶋がこれから始める話の中に、ただならぬ内容が含まれている――そんな予感がしたからだった。
「その男は天才だった。彼と保坂の決定的な違いを挙げるとするなら、保坂は、人類の進化は何代にもわたる研究の積み重ねの果てにあると考えているのに対し、その男は自身の頭脳と影響力をもってすれば、一代にして成し遂げられると信じていたところだ。そしてもう一つ――」
瀬田は、自らの意思とは無関係に咽喉が鳴る音を聞いた。
「大義の前にはあらゆる犠牲をいとわぬ点だ。人類の進化――人という種の革新のためならば、彼は己のもっとも大切なものでさえ差し出すだろう」
何か、苦い過去を回想するような口調で君嶋は言った。
「保坂くんは、その人のようにはなれませんか」
「あるいは、と思ったが」
傷ついた有里を見て保坂が躊躇ったことを、君嶋は言っているのだろう。だが、あそこで危険を冒してまで実験を続ける必要があったとは、瀬田とて思えない。納得したくとも、君嶋があまりにも話してくれなさすぎる。
「保坂はあの男とは違う。しかし、それで良いのかもしれん。あの男の目指すものは、あまりに……」
君嶋が話している人物とは誰のことを指しているのか。それは、君嶋にとってどういう存在なのか――その場で訊ねることを躊躇った瀬田に、二度目の機会が訪れることはなかった。
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