黙劇 4
ああ、この顔だ――と、保坂は思った。
くちびるの両端をほんのすこしずつ持ち上げ、眼鏡の奥でかすかに目をほそめる。やわらかで、なだらかで、どこにも皺が刻まれたり歪んだりもしない。
そして、ひたとこちらを見据える。そのまなざしにぶつかった瞬間、彼は動けなくなってしまう。いつからそうだったのだろう? 五歳の夏、蝉の声がうるさいくらい響いていた別荘で、初めて彼女に対面した時からだろうか?
「そうやって……」
声が震えないようにするだけでやっとだった。逃げるように視線を床に落とし、敗北感を味わいながら、ようやく続きを口にする。
「笑うために僕を呼んだんですか?」
「滑稽だもの」
その声は、まるで保坂に向けられたものではないように響いた。
彼女――保坂智慧の白皙は、弟が部屋に入ってきてからまったく表情を変えずにそこにあった。
「答えたくなかったら答えなくてもいいけれど」
その前置きは、つまりはお前の心などすべて見透かしているのだぞ――と。
そう言いたいのだ。そのように、保坂は半ば反射的に思ってしまう。
「なぜ、あんな馬鹿な真似を?」
声音はまるで、慈母のそれのようだった。パブリック・イメージでしか智慧を知らない人間は、彼女がこんな話し方をするとは夢にも思わないだろう。ごく近しい人間にしか見せぬその顔は、しかし、それを知る者にとってはこの上もなく恐ろしいものでもあった。
保坂はすぐにでもこの場から立ち去りたいと思った。ぶざまに這いずりながらでもよいから、とにかくここから逃げてしまいたい……だが、智慧の目がそれを許さなかった。膝から下が二本の氷柱になってしまったかのように、床に張りついて動かなかった。
智慧は右手を机に置いて、立ったまま保坂を見つめていた。はたから見ればおかしな光景だろう。姉と弟が部屋に二人きり、向き合ったまま微動だにしない。
先に動いたのは智慧だった。
滑るような動作で彼女は机の上に腰かけ、長い脚を組んだ。
「有里というのね、彼女は」
「………」
「完成前のMに名前をつけるのは、君嶋博士の悪い癖だわ」
保坂は同意も否定もしなかった。黙り込んでいる彼の顔を、智慧はちらりとうかがったが、それが表情から何かを読み取ろうとしてのことなのかどうかは判らなかった。
そういえば、と智慧はこころもちあごを上に向けた。
「ユキは、Mを見たのはここが初めてだったのではない? 写真や映像以外では」
その通りだが、それがどうしたと保坂は思った。この女のことだ、まったくの無駄話を振っているとは考えられない。何かある。うかうかと答えたら、狡猾な罠に絡め取られてしまうのではないか? だが、答えたからといってどうなるというのだという思いもある。
どうということもない質問なのに、すこし神経質すぎるか? 仮に本当に罠だったとしても、肉親をそうひどい目に合わせはすまい。
(そうだ。いくら姉さんでも……)
「ねえ、ユキ」
保坂は、自分の思考が相手に丸聞こえだったのかと思い、ドキリとした。むろん、それは錯覚だったが、智慧のせりふは、それほど見事に彼の思考の一瞬の間隙をぬって発せられたのだ。
「どうか気を悪くしないで。これは、あなたより少しだけ長くこの世界にいた者としての忠告」
そう言って、彼女は憂えるような目つきで保坂を見つめた。かすかに落とされた声は、忍び入るように彼の胸に響いた。
「Mは、恐ろしいモノよ。その魅力――あるいは魔力とか魔性の根源とでも言うべき最大の要因は、人ならざるモノでありながら人のかたちを留めているということ。人の規格を外れたモノは、美しいかおぞましいか、どちらかしかないわ。中庸はない。振り切った針のようにね。……ねえ。美しいでしょう、彼女は。あなたがここに来たときには、まだほんの子供だったはずだけど。でも。固いつぼみが徐々に色づき、花ひらくように、日を追うごとにその輝きを増していったのでしょうね。作り手も驚嘆を禁じ得ぬほどの速度で成長し、それは見事な大輪の花を――」
「いえ……花はまだ咲ききってはいません」
「そう。そうね」
笑みが、わずかな時間をおいて、智慧の顔に広がった。
保坂は、自分でも何故そんなことを口にしたのかわからなかった。有里が未完成かどうかなど、この際どうでもよいではないか。
「見てみたいのね」
何を――
「彼女の完成した姿を」
――
「当然じゃないですか! 何を言ってるんです、姉さん。それが僕の仕事なんですよ!」
叫んでから、保坂ははっと息を飲んだ。
――違う。
喋らされてしまったのだ。
舌は、持主の意思から解き放たれたかのように踊り、気づいた時にはすでに遅かった。
「けれども一方で、実験で彼女を苦しめたくはないと思っている」
保坂は口をつぐんだが、それで姉に本心を隠せるとは思えなかった。
「やっぱり……」
智慧は得心したようにうなずいた。
「あなたは魅せられてしまっている。しらずしらずのうちに、君嶋博士の、あのMに」
「有里に……僕が……?」
「そう。もう一度言うけれど、あれは恐ろしいモノよ。正直、君嶋研にあなたを入れるのは不安だったの。Mを初めて目にする人間に、あそこは危険すぎる」
「からかわないで下さい。そんなこと、あるわけ……」
有里は美しい。それは認めよう。だが、自分は科学者だ。理性に拠って立つ人間だ。彼女がいくら美しくとも、それは造られたモノ。人類が利用するために創造した道具にすぎない。
(先生に逆らったのだって、ただ彼女に同情したからで……)
しかしそれは、有里が人間と同じ心を持っていると思ったからで……
(私が怖いの?)
ふいに目の前に浮かんだのは、彼を正面からのぞきこむ緑色のガラス玉だった。
――ありがとう――ごめんなさい……
医務室で感じたあの寒気が、震えが、足許から頭へと這い登ってゆく。だが、あの時感じていたのは本当に恐怖だけだったのか。
――人間ではない……人間ではないのだ……
(ユキ……ユキ……ユウリと似てる)
手のひらに蘇った感触は、A.D.A.にやってきた日――彼女に初めて彼女に会った時のもの。
(似ているのはだめ。まちがえるわ……おまえはホサカ。いい?)
保坂の手をにぎりながら、少女はそう言ったのだった。
ひんやりとして柔らかい、小さな手だった。それから彼女は、保坂を見上げて可愛らしく顔をしかめた。
「証明できる?」
智慧の声に心臓が踊った。ひどく咽喉が渇いていた。
――証明?
唾を飲み込むために何度も咽喉を鳴らしながら、しびれた頭でその言葉の意味を考える。姉の真意を。過去の記憶が、警告音を発していた。
「……僕にどうしろと?」
「難しいことではないわ」
そうは言いながらも、なぜか躊躇うような口ぶりであった。
「君嶋博士の身辺を探って欲しいの」
「――――!」
絶句する保坂のようすを見て見ぬふりをしてか、智慧はため息まじりに肩をすくめた。なるほどたしかに、弟でしかも君嶋の部下でもある人間には話しにくいことではあろう。だが――
「実はね。よくない噂というか……はっきり言ってしまえば、密告があったのよ。まだ確証は得られていないけれど、A.D.A.の技術を外部に漏らしたとか」
「まさか……いったい誰がそんなことを」
「それは言えないわ。だから密告と言うのよ。もちろん、長田所長はこんな話を信じてはいらっしゃらない。でも、私は立場上無視できないの。わかるでしょう?」
いつになく気弱な口調だった。
「調査はごく内密に。もちろん所長にも、まだ、ね。きれいな仕事じゃないし、あなたには申し訳ないと思うわ。でも、お願い。こんなことを頼めるのはあなただけなのよ……」
智慧は机からすべり降り、保坂の手をとってにぎりしめた。すがるような目つきだった。
(おかしい……)
違和感が、保坂の脳裏を渦巻いていた。
こんな姉を、保坂は知らない。彼女はいつでも自信に満ち、力ずくで彼をおさえつける存在だった。それに、彼女は弟だろうが何であろうが、目的のためなら躊躇いなく利用する冷徹さを持った人間のはずだ。
信じられない。これも演技か? 保坂の頭は混乱した。
じり、と、保坂は後退った。智慧に手を握らせたまま――それは無意識の動作だった。
「もちろん、あなたを危険な目には遭わせない。約束するわ」
その言葉を聞いて、ふっと口許がゆるんだ。智慧の眉のあたりに訝る気配が漂った。
「やっぱり、姉さんだ」
実際に言葉にすると、手応えは確信に変わった。
「姉さんが僕に弱味を見せるなんて、ありえないんだ」
「買いかぶりというものよ。本気で言っているのなら、哀しい誤解だわ」
「なら説明してください。僕を危険に遭わせないと言い切れる、その根拠を」
大きく目を見開きながら、今度は智慧が退(さが)退(さが)った。保坂は智慧の手をはずそうとしたが、彼女は逆らわなかった。
答えられるはずがない。答えたら、智慧はやはり保坂の思っている通りの人間だと、自ら証明することになる。
「それに、姉さんに協力することが、どうして有里に魅せられていないということになるのかもわかりません」
「君嶋博士は彼女の開発主任よ。いま、彼がいなくなれば、彼女を完成させる事は出来なくなるわ」
「いなくなる? やっぱり、そういう筋書きなんですか?」
「そういう場合もあり得るというだけ」
「なるほど。でも残念でしたね。万が一、君嶋先生に何かあったとしても、有里は僕らで完成させてみせます」
「出来るつもりなの?」
「関係ありません。いいですか、姉さん。いつまでも僕が子供だと思っているなら、この際はっきり言っておきます。そんなくだらない陰謀ごっこに、僕が加担すると思ったら大間違いですよ」
叩きつけるようにそう言うと、智慧は一瞬、恐ろしい目で保坂を睨んだ。その眼光におののきながらも、保坂の心は昂ぶっていた。追いつめられた姉の姿を、彼は初めて目の当たりにしていた。しかも、そう仕向けたのは自分なのだ。
「あなたは心のどこかで君嶋博士を疎ましく思っている。違う?」
君嶋なしで有里を完成させる自信があるなら、なおさら――
「そんなもの、多かれ少なかれ、上司は部下にとって鬱陶しい存在です。珍しくもない」
智慧の片眉がぴくりと上がった。だめだよ、姉さん。あんたにしてはお粗末な理屈だ。
保坂は、この相手に対して初めて笑みを向けた。勝利の笑みであった。
「それに、僕の君嶋先生に対する尊敬の念は、今も変わってはいませんよ。たとえ、あの人のやり方に疑問があったとしても、あの人を陥れるような真似をしようとは思わない」
だから、姉さんの手には乗らない。
保坂は昂然と顔を上げていとまを告げた。
彼の目には、智慧が悄然とうなだれているように見えていた。彼女はよろけるような足取りで机まで後退り、両手で身体を支えた。踵を返し立ち去る弟の背中を虚ろな目で見送った。音を立ててドアがしまり、静寂が部屋に降りても、彼女は長いこと、うつむいたまま動こうとはしなかった。
弟からの思いがけない拒絶に打ちのめされ、その衝撃から立ち直れずに――否。
彼女の逆鱗にふれることを恐れず、下から顔をのぞきこむものがいたなら、智慧の口許に歪んだ笑みが張り付いているのを発見しただろう。
「本当に……」
智慧は肩を震わせた。
怒りでも、悔恨でも、憐憫でもない。
それは、ぞっとするほど残酷な、声にならぬ笑いであった。
――本当に。
「いい子ね」
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