おやすみ、ブランヴィリエ

葦原青

第一章 乙女(メイデン)

乙女


 白磁めいた肌がなだらかに天へのびていた。

息を吸い込むと、芳しい香りが胸に広がる心地がする。

 網膜を灼くような陽光を背に、昂然ともたげた頭部には両手をそろえて指をいっぱいにひらいたような形状の冠が輝き、ゆるやかに広げた両腕の先にはかるくにぎった拳のように丸い建物が付属していた。

 周囲を山と森に囲まれ、外界から隔離されたこの地に、唯一無二の支配者として鎮座する、誇り高き白亜の女王――

 彼女の名は、A.D.A.アダー中央研究所といった。

「こちらへ」

 案内役の女性研究員の声に、保坂は我に返った。たまっていた息を吐き出すと、たっぷり四秒間は続いた。

 公的にして非公式――それが、保坂が本日よりその一員となる、非偶発的遺伝子改善A.D.A.機関の社会的な位置づけであり、この研究所は、その中枢にして機関そのものともいえる施設であった。

 A.D.A.の存在が一般に秘匿されているのは、ミッシュヴェーゼンと呼ばれる、いわゆるヒトと他の生物との合成生物キメラを生み出すことにまつわるいくつかの問題がいまだ解決を見ないからだ。いわく、神への冒瀆である。いわく、人間の尊厳を踏みにじるものである。いわく、所詮は人殺しの道具である――

 良識派を自認する人々の意見など聞き飽きていた。苛立ちを通り越して哀れみすら覚える。何故彼らには、A.D.A.が研究・開発しているMの技術が、人類の新たな地平を切り拓くものだと理解わからないのか。

「聞く耳を持たなければ、同じ言語を用いて対話したとしても無駄ですから」

 案内役の女性がおどけたように言った。首から下げたIDカードが、白衣の間で揺れている。そこには彼女の顔写真と、『瀬田まゆ子』という名前が記されていた。

「それに、我が国ばかりがこの分野で先行するのも、よその国にとっては面白くありません。だから、政治的な圧力も、それは、いろいろと」

 保坂より四つ年上だそうだから二十六歳だろう。赤く染めた髪を無造作にうしろで束ね、白衣のポケットに両手をつっこんでいる。昨日まではここで一番若い研究員だったんですよ、と会うなり言われた。そのとき彼女は皮肉っぽくくちびるを歪めていたが、嫌な印象は受けなかった。

「それにしても、新人の研究員に所長が直接会いたがるなんて、驚きました」

泥臭くなりかけていた話題を、彼女は修正した。

「珍しいことなんですか?」

「異例も異例」

「そ、そうですか」

「よほど期待されているんですね。羨ましい」

 やはりお姉さんが……という科白が続くのではと身構えていた保坂は内心ほっとした。彼の姉、保坂智慧ともえは、この研究所で所長の秘書として働いている。そのコネで入ったとは言われるのは気持いいものではない。

 目的の建物は研究所の中央塔だった。地上十二階、一階はエントランスホールと食堂、二階から九階部分までを実験室が占め、十階にセキュリティ統括部の管制室、十一階にメインコンピュータールームが置かれている。そして最上階には、この施設の最高責任者である研究所所長の部屋がある。二人が向かう先はその所長室だ。

「どうして研究棟を別に建てなかったんですか?」

 瀬田と並んで歩きながら、保坂は訊ねる。

「Mの研究開発には危険が付き物、ましてや実験場とあっては……所長の身に何かあったらどうするんです?」

「所長は言い出したらきかない方で」

 肩をすくめて瀬田は笑う。

「研究の成果を、誰よりも早く、誰よりも近くで見たいとだだをこねたそうですよ。もちろん、個々のMの開発責任者は別として」

 ――所長に祭り上げられたからといって、椅子の上でふんぞり返っているだけなぞまっぴら御免、ぼくは生涯一研究者を貫くのだ。

「そう嘯(うそぶ)いたのは、私たちの間で半ば伝説と化しています」

 演出過剰な気もするが、その姿勢には共感できる。そういえば、所長が研究所の外に出たという話もほとんど聞かない。よほどここでの仕事に心血を注いでいるということか。

「もっとも、本当に危険な実験は地下で行いますから。地下実験場は、研究所の設立以来増築を繰り返して、いまではなんと二十階を超えてるんですよ」

「地下の方が地上部分より階数が多いのですか」

「はい。フロアごとだけでなく、一つのフロアをさらに幾つかの区画ブロックに分割し、各ブロックは厚さ十から二十センチの隔壁で遮断できるようになっています。隔壁をすべて降ろした状態というのは、いわば一つひとつのブロックが核シェルターになっているようなものですから、よほどのことがあっても安全というわけです」

「なるほど……」

 エントランスホールに入った二人を、一本の巨大な柱が出迎えた。

三階までがふきぬけになったホールを貫くように伸びた柱は、透明なガラスのパイプを二本、横に並べたような造りで、中にはそれぞれ鉄骨で補強された管が通っている。保坂たちが入ってきた通路を向いて金属製の扉が左右に並び、その間の壁に二つのボタンがあった。ボタンには対照方向を向いた三角形が一つずつ表記され、上と下とを示していた。

「まるで背骨ですね」

「あながち間違いではないですよ」

 瀬田が上のボタンを押すと、左の扉の上部にあるデジタル式表示板の数字が、『08』から徐々に少なくなっていった。

 4・3・2――……1。

 管の中を、やはり透明な素材でできたカプセル型の乗り物が降りてきて、チン、という音と同時に停止した。扉がひらく。

 瀬田に続いてエレベーターに乗り込もうとした保坂は、ふと足を止めた。

右側のエレベーターが動いている。やはり表示板の数字を減らしながら――地下から地上へと、近づいてきている。

「保坂さん?」

 瀬田が怪訝そうな顔をのぞかせた。

「あ、すいません」

 チン。

 エレベーターの停止を告げる音。

(一階で?)

振り返った保坂の目の前で扉が閉まった。ず……と、周囲に見える一階の床が沈んだ。

 どんな人物が隣のエレベーターに乗っていたのか確認できなかったのが少し残念だった。別にそうしなければならない理由などないが、気になったものを宙吊りのままにしておくのは気分が良くない。

未練がましく、保坂は足許に視線を落としていた。すると、一階のようすが完全に見えなくなる寸前のほんの一瞬、彼の目は思いがけないものをとらえた。

とっさには、それが何なのか判らなかった。ただ、はっと胸をつかれるほどに鮮やかで、どこか、心の奥深い部分をえぐられるような感触があった。

(子供?)

小走りに駆け寄ってきた小さな影。その、細い肩の上で揺れていた金色の髪と、こちらを見上げる深い緑の双眸と――

その、二つの色彩が、何故か目に焼きついてはなれなかった。



 部屋の入口に掲げられたプレートには、『A.D.A.中央研究所所長室』とあった。

 瀬田がオーク材の扉を叩き、来訪を告げる。保坂はスラックスで何度も手のひらをぬぐった。緊張の高まりが身体機能に及ぼす影響は、まさにピークに達していた。

 扉が内側から開き、「どうぞ」という澄んだ声がした。

「失礼いたします」

毛足の長い真っ赤な絨毯を踏むと、スーツ姿の女性が会釈をよこした。栗色のショートヘアの、いかにもやり手といった雰囲気の美人だ。メタルフレームの眼鏡の奥で、切れ長の目が冷ややかに細められている。自分が成長を観察されるアサガオにでもなったような気分を味わいながら、保坂はなるべく彼女のほうを見ないように、正面にいる男に意識を集中させた。

 そちら側は壁全体が窓になっていた。窓からは、研究所を取り囲む森が見下ろせる。男はその景色を、革張りの肘掛け椅子に座って眺めていた。男としてはかなり細い脚を組み、宙に浮いたほうの足首をぶらぶらと動かしている。

「きみが保坂勇気ゆきクンか」

 唐突に椅子が一八〇度回転し、保坂は男と真っ向から見つめ合う体勢になった。男は腹の上で組んでいた両手をデスクに置き、保坂の緊張をほぐそうとするかのように微笑んだ。

「ぼくが所長の長田だ」

 長田光。

 生物学、遺伝子工学、薬学、免疫学、脳神経学――その他、数々の分野において天才を発揮し続けてきた知の巨人。

 M理論を確立し、A.D.A.創設の原動力ともなった怪物。

 そして現在では、自ら興したA.D.A.の中央研究所に君臨する絶対君主――

 正直なところ、かなり不気味な人物だと思っていたのだが、いま目の前にいる人物はそうした風評にそぐわない。

 痩せぎすな身体を白いスーツできっちりとつつんだ初老の男。

 げっ歯類を思わせる顔立ちは奇妙な愛嬌があり、小さな目が眼鏡の奥で笑みのかたちに細められている。保坂が見たことのある彼の顔写真は十年近く前のもので、それとくらべると頭髪がかなり後退している。

 早鐘を打つようだった鼓動が急速におさまってゆくのを保坂は感じた。

「若輩者ですが、よろしくご鞭撻のほどを」

「そうかしこまらなくてもいいよ。ぼくは単に、ここの管理責任を任されている男にすぎない。一研究者という点では、ぼくもきみも立場は同じだ」

「恐縮です。長田先生のような方にそう言って頂けると――」

「誰にでも言うわけじゃないよ。きみのことは色々と調べさせてもらったからね。学生時代の成績だけでなく、論文も読ませてもらったよ。なかなか興味深い内容だった。それに、何よりM開発などという異端の分野に対する情熱の大きさ」

 人なつこい表情を浮かべながら、長田は眼球をきょろりと動かした。

「お姉さんがなかなか話したがらないから、ぼくが直接調べたんだよ。ねえ、智慧ともえクン?」

 長田の右サイドに移動していたスーツの女性が、無言のまま長田から保坂へと順に顔を向けた。

「それは……恐れ入ります」

「ほら、またかたくなってる」

 身体を前後に揺らせて長田が笑った。つられて保坂の口許もほころぶ。こうなると、長田よりもむしろ、姉からの圧迫感のほうが強く感じられた。

「もっとも、きみの場合はM開発に使われる技術の方に関心があるのかな?」

「はい。M開発はあくまで手段――といってしまっては言い過ぎですが、この優れた技術は、人間に対してこそ用いられるべきものと考えています」

「おいおい。ぼくの前ではいいが、あまり余所で吹聴するのはやめたまえよ」

 長田は両手を広げて、困ったというジェスチャーをした。

「所長。そろそろ配属についてのお話を」

「ああ、そうだったね」

 秘書に耳打ちされて、長田は姿勢をあらためた。

「保坂勇気クン、きみには第一研究棟――君嶋クンの許で働いてもらおうと思う。異存ないかね?」

「それは――願ってもないことです」

 所長の口から発せられた名を聞いて、保坂の胸は興奮に打ち震えた。

 君嶋博士といえば、M開発では長田に匹敵するビッグネームだ。それほどの人物について働けるなど夢のような話だった。

「最初は戸惑うかもしれないが、なあに、すぐに慣れる。瀬田クン、彼を頼むよ」

「わかりました」

「え? 頼むって……」

 保坂は虚をつかれてぽかんとなった。

「なんだ。話していなかったのかね」

 長田はあきれたように眉を上げた。

「彼女の所属は君嶋研究室、つまりきみと同じチームというわけだ。ついでに、当面きみの指導にあたるのも彼女だ」

「そういうこと。ちょっと、エリートなんて呼ばれてる人の驚く顔が見たくて。気を悪くしないで」

瀬田はくだけた口調になり、右手を差し出した。

「あらためてよろしく。お互い頑張りましょう」

 その手を保坂は握り返した。うんうん、と長田がうなずく。

「しっかりやりたまえよ。きみの才能には期待しているからね」



 全部で六つある研究室には独立した研究棟が割り当てられており、三階から伸びる廊下によって実験棟を兼ねる中央塔と繋がれている。廊下の床は動く歩道オートロードで、左右はガラス張り。そこで味わえるつかの間の空中散歩は、高さこそさほどではないとはいえ、ちょっとしたものだった。

 君嶋研究室の置かれている第一研究棟は、ちょうど保坂が中央塔に入るときに、左手に見えていた建物だ。そこから角度にして三十六度ごとに、中央塔の北側を取り囲むようにして残りの研究棟が配置されている。研究所を上空から臨むことができれば、広大な原生林の真ん中に、水平線から顔をだした太陽のような図が描かれているのを見て取れるだろう。

「さっきはあなたを羨ましいといったけれど」

 ベルトに乗って運ばれながら、瀬田は保坂を振り返った。

「一緒に仕事をするとなれば、心強いわね。所長がおっしゃった通り、最初は戸惑うことも多いだろうけど」

「すぐ慣れる――ともおっしゃっていましたね」

「そうね。嫌でも慣れるわね」

瀬田は意味ありげに口許を歪めた。

「どういう意味ですか?」

訊ねると、瀬田は「別に」と言って横を向いた。

「なんですか、気になるじゃないですか」

 保坂が抗議の声をあげると、瀬田は目に涙をためながら、はふ、とあくびを噛み殺した。

「ごめん。ちょっと寝不足で。あなたをからかって頭の体操をしてみたの」

「何なんですか、それは」

 そんな理由で振り回されるのは勘弁して欲しい。

「怒った? ごめんって。でも、保坂くんってすぐ顔に出るたちなのね」

「そ、そんなことは――」

「本当のところ、忙しすぎて戸惑っている暇もないかもね」

すっと波が引いたように、瀬田は表情をひきしめた。

「特にあなたは、覚えることがたくさんあるから。むろん、私も出来る限りフォローはするし、君嶋先生も何かと気を使ってくださると思うけど、それに甘えるのはナシよ」

「そんなつもりはありません」

「結構。プライドが高いのは、若いうちは長所よ」

 自分もまだ若いくせに、瀬田はそんなことを言った。また、彼女の表情が柔和になる。

「ところで。お姉さん、美人ね」

「えっ、あ、はい」

 冷静を装うつもりだったがものの見事に失敗し、そんな保坂を見て瀬田はすこし意地悪っぽく笑った。

「あの秘書の人よ」

「ご、ご存知だったんですか?」

「同じ苗字だしね」

気になったので調べるか訊ねるかしたということか。まあ、隠すようなことでもない。

「私もめったに顔を合わせる機会はないんだけど。でも、憧れるわねえ。あんなにきれいで、しかも物凄く優秀で」

「瀬田さんだって似たようなものじゃないですか」

この研究所で働いているくらいなのだから、瀬田の頭脳の明晰さに疑問の余地はないし、容姿だってきちんとお洒落すればなかなかのものになるはずだと保坂は踏んでいた。まあ、陽にあたらないせいかもしれないが肌は白いし、スタイルも悪くない。何より快活な話し方に好感が持てる。人としての情に欠ける智慧などよりはよっぽど魅力的だと保坂などは思うのだが、当の本人はそんな言葉などハナから世辞と決めつけているらしく、まるで本気と取ろうとはしなかった。

「じゃあ、ここで待ってて」

 瀬田は、三階のこぢんまりとした応接室に保坂を案内すると、君嶋博士を呼ぶために出て行った。ソファに腰を降ろし、保坂は大きく息をついた。

その部屋には窓はなく、そのくせ妙に青々とした観葉植物がいくつも置かれている。スチール製のテーブルの上にはガラスの灰皿が一つ。灰皿の底には、壁に架けられた丸い時計が映り込んでいた。

 じっ、じっ、と動く秒針を見つめながら、保坂は腹の奥底でくすぶる火にも似た感覚を味わっていた。長田所長との対面による興奮はいまだ冷めやらぬうちに、敬愛する君嶋博士との初顔合わせも待っている。さらにはこれから始まる日々への期待と不安までが混ざりこみ、混沌とした渦となっていた。

(お互い頑張りましょう)

 そう言って差し出された瀬田の手。

(ああ。やってやるさ)

 右の拳をもう一方の手のひらに打ちつけ、祈るような格好で目を閉じた。

 しばらくそうしてから、保坂は大きく息をついた。両肩が少し軽くなったような気がした。時計を見上げる。

「遅いな」

 そういえば瀬田が、いま育てているMの実験スケジュールが詰まっていると言っていた。つかまらないのだろうか。

 一服しながら待とうと胸のポケットに手をのばした保坂は、人の気配を感じて部屋の入口を見た。

 ドアがわずかに開いていた。

 丸いノブの下あたりに腕が見えた。細い、小さな、子供の腕だ。

「誰だい?」

 腕がぴくりと震えた。

「怖がらなくてもいい。出ておいで」

 保坂は、相手を脅えさせないよう、極力やわらかい声で呼びかけた。

 ひょこり、と顔が半分のぞいた。

 肩の上で切りそろえた見事な金髪と、特大のエメラルドを思わせる緑色の瞳。保坂はあっと声をあげた。

「きみは、さっきホールで……」

ドアの縁を、下から上に顔が移動した。どうやら立て膝の姿勢で中のようすをうかがっていたらしい。

 ぱたぱたとスリッパの撥ねる音がして、その子供が入ってきた。十歳ぐらいの少女で、薄緑色の検査着を着ている。最初は外国人かと思ったが、よくよく見ると顔立ちは東洋系だ。ただ驚くほど造作が整っていて、肌は雪のように白い。

 保坂の言葉など聞こえぬようすで、少女は彼に近づいてきた。そのとたん、花のような甘い香りが周囲に広がった。この年齢で香水でもつけているのかと思っていると、少女はくっつきそうなくらいに顔を寄せ、くんくんと鼻を動かしながら、保坂の肩やら袖口やら、あちこちの匂いを嗅ぎ始めた。

「お、おい。何のつもりだ?」

 保坂は慌てたが、少女の方は気にも留めない。

 いきなり、右手の端に生暖かい感触が走った。舐められたのだと悟った瞬間、保坂はソファに背中をはりつけたような格好になっていた。

「な、な、な――」

 動揺のあまり言葉が出てこない保坂を、少女はじっと見下ろしていた。その時になってようやく保坂はあることに気づき、ほんの少し、ぞっとした。

さいぜんから、少女は表情をまったく動かしていない。出来の良いマネキンのように、冷たく硬い貌――ただ、緑色の二つの瞳だけが、妙にきらきらと輝いている。

「あっ」

 急に視界がぼやけ、保坂は慌てた。目をしばたかせ、両手を宙に泳がせる。少女を見ると、その手の中に愛用の丸眼鏡の歪んだ輪郭があった。

「か、返してくれ!」

 保坂の伸ばした手を、少女は蝶が舞うような動きでかわした。保坂が立ち上がると、少女はパタパタと向かいのソファの後ろに回りこみ、そこで眼鏡を鼻にあてた。

「こ、この……!」

 少女を追いかけようとした保坂の耳に、がじ、という音が届いた。

「ああっ! かじっちゃ駄目!」

 大声に驚いたのか、少女は勢いよく逃げ出した。そのときドアが開き、濃い髭をたくわえた背の高い男が入ってきた。

 少女は無言で男にかけよると、彼の背後に『避難』した。

「どうした?」

 眼鏡をにぎりしめたまま、顔だけを出して保坂のようすをうかがっている少女の頭に、男のふしくれだった手が置かれた。保坂と少女を見比べ、男は事情を察したようだった。

「博士、どうかなさいましたか?」

「なに。有里が少々いたずらをしたらしい」

 続いて現れた瀬田に男はそう言った。彼は少女の前にかがみこみ、その目をのぞきこみながら、眼鏡をそっと取り上げた。

「ごめんね。何にでも興味を示す年頃で、ちょっと目を離すとどこかへ行っちゃうのよ」

瀬田がすまなそうに言った。

「大丈夫。レンズに傷はついていないようだ」

男はハンカチで眼鏡を拭ってから保坂に返した。

「君が保坂君か?」

「は、はい」

 あの子は何者かと訊ねる前に質問され、保坂は思わずそう答えてしまった。

「君嶋先生――ですか?」

「ああ」

 低い声が腹のあたりに響いた。

科学者というより、登山家か何かを思わせる風貌である。年齢は五十近いはずだが、肌の張りやきびきびした身ごなしを見ているととてもそうは思えない。最初に入ってきた時こそずいぶんと背が高いと思ったが、実際は保坂のほうがやや長身だった。

「ご、ご高名はかねがね……」

「余計な挨拶は抜きにしよう」

ついてこいというように、君嶋は保坂に向かって手を振った。

「人手が足りないの」

 瀬田がそっと耳打ちした。

「悪いけど、のんびり研修期間を取っている暇はないから」

それはつまり、うまくすればすぐにでも本格的な作業に参加できる可能性もあるということだった。思わぬチャンスに、保坂は身がひきしまる思いだった。

「先生。その前に――」

 踵を返しかけていた君嶋だったが、瀬田の視線をたどって、彼女の言わんとすることを察し、そうか、と呟いた。

「紹介しておこう」

 君嶋は、白衣の腰の辺りにしがみついている少女を保坂の前に押し出した。

「名を有里という。我々のチームで開発しているMの一人だ」

「え? ま、まさか」

 ――M、だって?

 保坂は有里と呼ばれた少女をまじまじと見つめた。

 信じられなかった。彼の知っているMは、特撮番組に登場するような、文字通りヒトと動物のグロテスクな合成品だった。だが、目の前にいるこの少女はどうだ? 髪や目の色などに多少の違和感はあるが、外見上はまったく人間の規格に納まっている。

 もっとも、こんな場所に子供がいることや、それが検査着姿である理由を考えてみれば、妥当な結論は一つしかない。

「今は、先生はほとんどこの子にかかりきりになっていて、それでなかなか他に手が回らないの」

「有里、ご挨拶を」

 君嶋は少女の背中をぽんとたたいた。

 おかしなことをする、と保坂は首を捻った。たったいま彼は、挨拶の時間すら惜しんで仕事に戻ろうとしていたのに、それを、Mの少女――いや、少女の姿をしたMか?――にあらためてやらせようとしている。

「これも訓練でね」

 君嶋の声で、保坂は慌てて表情をひきしめた。不審の念が顔に出ていたのか。

「有里はパーソナリティの形成期間に入っている。他者との接触を含め、外部からのさまざまな刺激を吸収する必要がある――ほら」

「ユウリです」

 もう一度背中をたたかれた有里が、両手をそろえてちょこんとお辞儀をした。また、甘い芳香が鼻腔をくすぐる。Mということを差し引いても十分に愛らしい仕草だった。初めて聞いたその声も、か細く、舌足らずで、保護欲をかきたてられる。

 保坂は片膝をつき、目線の高さを少女に合わせた。真正面からのぞいた瞳は、色鮮やかな宝石とも淡く光を放つ星ともつかない不思議な輝きを帯びていた。その、吸い込まれそうな瞳で、有里もまた保坂を見つめ返している。

「……保坂勇気です。よろしく」

 一瞬声を出すのを忘れていた保坂が片手を差し出すと、少女も腕を持ち上げ、彼の手をにぎった。小さな手は柔らかく、マネキンのそれのように冷たかった。

「ホサカ――ユキ?」

「そう。保坂は姓で、勇気は名。わかるかな?」

「うん……わかる。ユキ……ユキ……ユウリと似てる」

「はは。音の響きがかい?」

 有里はこくりとうなずき、新しくインプットされた人名の感触をたしかめるように、口の中で何度も繰り返した。

「だめ」

「は?」

 唐突な否定の言葉に、保坂は面食らった。

「似ているのはだめ。まちがえるわ……おまえはホサカ。いい?」

 紛らわしいからそう呼ぶ、ということだろうか。

「べ、別に僕はどっちでもいいけど」

 保坂は膝をはらって立ち上がった。何か気に入らないことでもあったのか、有里はしばらく保坂の顔をじっと見上げていた。その可愛らしい眉と眉のすきまに、かすかなしわが寄った。

初めて見る、彼女の表情らしい表情だった。

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