黙劇 2
嫌なことがあったときは、好きなものを食べてストレスを発散させるといい――
「とは、よく言うけどさ……」
瀬田が呆れ顔で保坂を見た。
「なんで、そこで選ぶのがカップめんなわけ?」
「いや、好きなんですよ。それにこれ、生麺使用ですよ? いつもよりちょっと贅沢してみました」
「“してみました”じゃないっつーの」
なぜか憤然として瀬田は席についた。
ほっといてくれ、と保坂は思う。自分を気遣うことに対してではなく、この選択についてだが。
実際、瀬田の言うように、カップめんを食べればストレスが発散できるのだからそれでいいのだ。フタを取った瞬間立ち昇るかぐわしい香り、麺と具とスープの絶妙な配色、ズルズルという音、麺を噛み切るときのあの歯ざわり舌ざわり――
カップめんを食するとき、保坂は五感をフルに活用してその一瞬一瞬を楽しんでいる。それは、「食」という生物の三大欲望の一つを満たす行為でありながら、「食」を超えた一大エンターテインメントでもあった。
もっとも、こうした思い入れを他人に語っても引かれるとわかっているので、誰かといるときは何を言われても黙っていようと決めている。
「
とんかつセットをもりもりたいらげながら瀬田が言った。
「……聞こえてたんですか」
保坂は箸を止めた。あの男の顔と声を思い浮かべながらでは、せっかくの食事が台無しになってしまう。
「まあ、他に無駄口きいてる奴もいなかったからね。アイツはうちの研究室でもきわめつけの下衆ヤローだからさ、まともな人間は相手してないよ」
「下衆野郎って、瀬田さん……」
保坂は苦笑しつつも、瀬田の明るさに救われる気がした。自分が一人で思い悩んでいるときでも、彼女は必ずそれに気づいてくれる。
「この世界にはああいう奴が時々いるのよね。イヤな話だけどさ」
「でも、仕方ないのかも知れませんね。僕らのやっていることは、やはりまともとは言い難い……」
「弱気ねえ。弱気はイクないぞぉ」
瀬田は、とんかつの最後の一切れを口に放り込み、ご飯をかきこんだ。
「どうひふぁっていうのよ、いふものあんふぁらら――」
「ちゃんと飲み込んでから喋ってください。待ってますから」
「ぷはぁっ。……だからね」
コップの水で豪快に口の中のものを胃に流し込んでから、瀬田は保坂に向き直った。
「原因は何? まさか、本当に有里を……」
「そ、そうじゃありません! 僕は――」
自分でも奇妙に思うくらいに、保坂はムキになった。
「冗談よ。あんなことがあった後だもの。有里に関してナーバスになるのはわかるわ」
「……そういうのとは少し、違います」
瀬田の冷静な声に、多少落ち着きを取り戻して保坂は言った。
「じゃあ何?」
「妙だ、と感じるんです。色々なことに。まず訊きたいのは、Mっていうのはみんなああなのかってことで……」
「保坂くん。科学者なんだから、抽象的な表現はしないの」
「すみません。この間、有里と二人きりで話したでしょう? その時、本当はすごく怖かったんです」
それはそうだろう、というように瀬田はうなずいた。
「でも、それだけじゃなかったんです。なんというか、全部が全部というわけじゃないんですが、僕の言ったことに対する反応とか、初めてリンゴを食べた時の表情なんかが、あまりに普通――というか、自然な感じで」
初めてリンゴを、のくだりで瀬田は眉をぴくりとさせたが黙っていた。
「あまり、Mという人工の生命と話している気がしませんでした」
「つまりそれは、有里がとても人間らしかったということ?」
「そうですね……端的に言えば」
事実、保坂は有里と話している間、彼女がMであることを一瞬忘れた。それほど彼女の言動が人間的だったということだ。だからこそ、時折見せる非人間的な行動が際立つ。
「喜怒哀楽や恐怖程度の感情なら動物にもあるし、それらの感情を表現する方法は訓練次第でいくらでも身につけることは出来る。外に現れた行動や表情をもってMが人間と同じ思考をしていると考えるのは短絡的というものよ」
「それはそうです。でも……」
「Mを人間らしく見せる――時には人間以上に」
詩の一節を口ずさむように瀬田は言った。
「これは、A.D.A.がずっと目指してきた、そしてこれからも目指し続ける理想でもあるわ。Mの存在が公に認められていようがいまいが、人間社会にMがとけこんで任務をこなし、生きていくためにはそれは必要不可欠な要素なの。有里は現段階における、それらの技術の集大成とも呼べるMなのよ。人間らしく見えて当然じゃない」
「なら、僕の感じかたが間違っているわけじゃないんですね」
「ええ」
――だからといって、内面まで人間に似せる必要がはたしてあるの?
瀬田は、保坂には聞こえない声でつぶやいた。あるいは、彼女自身にもそうと意識されずに発された言葉であったのかもしれない。
「どうかしたんですか、瀬田さん」
浮かないようすの彼女に向かって保坂が訊ねた。
「な、なんでもないわ。それより、他にもあるんでしょ、妙だと感じることが」
(こう……注射器を持って近づくと――)
保坂は水原の言葉を思い出していた。
彼の言う通りだった。有里は悲鳴をあげない代わりに、脅えた目を保坂たちに向けてきた。けれども本当は、水原に言われるまでもなく保坂は気づいていた。あの事故があった日の、有里の反応。また、彼女自身の口から、はっきり実験は苦痛だと聞かされてもいた。
午前の実験データでは、細胞の自己修復速度に大幅な低下が見られた。連日の過酷な実験で心神がすり減っているのだ。有里の体調がもどるまで実験を延期すべきという意見もあがったが、君嶋は首を縦に振らなかった。
「体調がもどるまで? それは
非情な声音に、保坂は耳を疑った。
君嶋は、有里を破壊するつもりなのか?
有里の状態は、傍目にもそれとわかるほど悪化していた。簡易ベッドに横たわるや、彼女は眠りに落ちたが、昏睡状態と言っても差し支えないほど深い眠りだった。ぴくりとも動かない彼女の身体に何本ものチューブを繋いで栄養剤を流し込み、午後の実験の開始時間になると頭から水を浴びせて無理やり目覚めさせた。金髪から雫をしたたらせた有里は、座ることも横になることも、誰かに支えてもらうことも許可されず、歯をかちかち鳴らしながら、不安そうに君嶋や保坂や他の研究員を見つめた。
「始めよう」
君嶋の血走った目は明らかに異常だった。
保坂が妙だと感じていたもう一つのこと――それは、君嶋の態度だった。
何故だかわからないが、彼は有里を一刻も早く完成させようと躍起になっているように映るのだ。まるで何かに追い立てられて焦っているような……
保坂がそう言うと、瀬田も深くうなずいた。彼女もそれは感じていたらしい。
有里は予想以上の成長を見せているのだから、普通に考えれば焦る必要などどこにもない。ならば、君嶋しか知らない特別な理由があるのか。それこそ、悪化した有里の状態を無視してまでも実験を強行せねばならないほどの――
「先生、やはり、これ以上は……」
三種類目の薬品を投与した後、保坂は言った。
幾度となく名を呼んでも、有里は返事をしない。溶けた皮膚はなかなか元に戻らず、出血もいまだ止まらない。体力の消耗により、損傷した肉体の再生がうまくいかないのだ。そんな状態になっていてもなお、彼女は意識を失っておらず、瞳の中にかすかに残った光が、保坂に彼女の脅えを伝えてきていた。
「続けろ」
君嶋が命じた。
何故、そこまでせねばならない?
過酷な実験が行過ぎて有里が再起不能になるような事態は、君嶋も望んではいまい。それとも、そうではないのか……?
(そんな目で見ないでくれ……)
有里を見て、ずきりとまた保坂の胸は痛んだ。
初めて出会った時、保坂は有里を人間だと思ってしまった。そのために彼は、有里を実験動物、研究素材として認識し直すという作業を必要とした。そうでなければ、彼女を実験台とした研究など出来ようはずもなかった。保坂にとって、科学は人間を幸福にするために存在するものだった。歴史上、科学の発展の裏にあったのはきれい事ばかりではないが、それでも、そのために人間を犠牲とするのは間違っている。
(でも、彼女は――有里は、人間と同じように考え、感じることが出来る。たとえ、今はまだ不完全ではあっても)
瀬田は人間らしく見えるだけだと言ったが、保坂にはどうしてもそうは思えなかった。少なくとも彼女には心がある。それは、紛れもない事実だ。
君嶋もわかっているはず。当然だ。他ならぬ彼自身が、M(有里)をそのように育てているのだから。
その時、有里のくちびるが動いた。
「やって……私は……いいから」
彼女はもう保坂を見てはいなかった。神を崇める信徒のように澄み切った、その視線の先にいる人物に、保坂は初めて怒りを覚えた。
(これも先生の意思だからか。だから受け容れるというのか、きみは。きみの先生に対する感情は、刷り込まれたものにすぎないんだぞ。先生はそんなきみを、Mという作品の――道具の一つとしてしか見ていないんだぞ)
「なんてツラをしてる」
唐突に、笑みを含んだ声が耳にとびこんできた。
「どうした。先生はやれとおっしゃっているんだぞ」
傍らに立っていたのは水原だった。
「でも……水原さん」
「何を遠慮してるんだ? いくら痛めつけても壊れない。こんな
神経がひりつくような、かすれた笑い声が響いた。彼は声を落としていたので、話の内容は他の者に聞こえていないようだ。
「開き直れよ。楽しくなるぜ」
「何の話ですか」
「隠さなくたっていいさ」
なれなれしい仕草で、肩に手を置かれた。
「お前、やっぱり惚れてるんだよ、この化物に。でなきゃ、何で躊躇う。開き直って認めちまえよ。惚れた対象が傷つく姿を見るのは、屈折した甘い痛みがあるもんだ」
「………」
「別におかしいことじゃない。ここで起こる出来事の中じゃあ、どっちかと言えばまともな方なくらいだ」
こいつは本当に下衆だ、と保坂は思った。有里に対する実験に抵抗を感じるようになってはいたものの、A.D.A.は今でも保坂の夢なのだ。水原の存在は、その神聖な夢を汚す。
「ええ、たしかにまともでしょうとも。僕はただ、これ以上は危険だと思うからそう主張しているにすぎない」
「ケッ。つまらん言い訳だぜ」
水原は吐き捨てるように言った。
「つまらない? あなたのそういった勘繰りのほうが、よほどつまらなくて卑しいと思いますが」
「言うじゃねえか、このうらなりのヒヨッコが」
水原の細い目が、危険な色を帯びてさらに細まる。
「何をしているか」
怒気と苛立ちを含んだ声が実験室内に響き渡った。
「先生!」
保坂はきっとなって、声の主を振り返った。
「やはり、危険です。実験の中止を!」
「決めるのは私だ」
頑迷とも思える口調。しかし、保坂にも譲る気はなかった。
(水原もそうだが、あなたも……!)
――有里に心があると気づかせてくれたのはあなただ。有里をそのように育てたのもあなただ。それなのになぜ、あなたは有里を道具として扱うのですか? そんなふうに扱うのなら、なぜ最初から道具として創造しなかったのですか?
有里が、いっそ感情のないただの人形であったなら、自分も彼女も、どれだけ楽であったことか。
「お考え直しいただけませんか?」
「くどい!」
君嶋の答えで保坂の心は決まった。保坂は、手にしていた注射器を床に落とし、靴のかかとで踏みつけた。ガラスが砕け、中の液体と混じり合う音がした。
「保坂……お前……」
水原が唸った。
薬品には予備があるし、注射器一本が壊れたぐらいでは実験は続行不可能になったりはしない。だが、意思は伝わる。保坂の、断固とした抗議の意思は。
ぐっとあごをそらせて君嶋を見ると、彼は憮然とした面持で保坂を睨んでいた。その眼光に一瞬ひるんだが、なんとか姿勢を崩さずにこらえる事が出来た。
「申し訳ありません。僕には……出来ません」
「そうか」
君嶋はおもてを伏せ、保坂の言葉を噛み締めるようにゆっくりと息をついた。そして、再び顔を上げた時、静かだがよく張った声でこう言った。
「ならば、ここから出て行け」
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