悪意 5

「信じられない……」

 保坂の話を聞き終えた瀬田は、困惑がありありと浮かんだ顔を横に振った。

「正直、全部キミの妄想だったらどんなにすっきりするかと思うわよ」

「僕だってそう思いますよ。でなければ、先生がA.D.A.を裏切ったなんてのはまったくの誤解で、それを解くために中央塔に行ったんだと思いたい……でも、それじゃあ有里が連れて行かれた理由も、先生が姿を現さない理由も説明がつかない」

 保坂は水のたっぷり入ったやかんを火にかけた。部屋にやってきた瀬田に、買い置きのカップめんを振舞おうとしたが断られたので、とりあえずコーヒーを淹れることにしたのだ。

「先生……無事だといいんだけど」

 君嶋を案じる瀬田には悪いが、甘い期待は出来ないだろうと保坂は思っている。瀬田には、君嶋の最後の台詞を伝えなかった。あの言葉は明らかに彼の死への覚悟を示していた。

(そうだ。有里はどうしてるんだろう)

 君嶋がどうなったかを知らされれば、きっとショックを受けるだろう。そして胸の傷から血を流したまま、ひどい取調べを受けているのだろうか。それとも、暗い部屋にでも閉じ込められているのだろうか。

 考えれば考えるほど苦しくなる。君嶋がいなくなれば、彼女は独りぼっちになってしまうというのに……

「でも、所長のやり方が危険って、どういう意味なのかしら? ひょっとして、有里が何か知っていたとか……?」「やっぱり、有里を連れて行かせるべきじゃなかったんでしょうか」

「でも、あの状況じゃ止めようがなかったわ。無理に食い下がれば、もっと悪いことになってたかもしれないし」

「結局、僕らは黙って事態の推移を見守ることしかできないんですね……」

 保坂は膝の間で両手をにぎりしめた。

「うん……悔しいけど、水原の言うとおりなのよね――ん、まてよ」

 瀬田は天井をにらむようにしながら立ち上がった。

「アイツ、なんであの時、あんなに落ち着いてたの? もしかして、アイツ……」

「まさか」

「だって、考えてもみてよ。智慧さんは、保坂くんが一回断っただけで、それっきり先生の周囲を探ってくれって話はしてこなかったわけでしょ? それって、保坂くんがやらなくても、他の誰かがやってたってことなんじゃないかな」

 あり得る話だ。智慧は、君嶋がA.D.A.の情報をどこかに流していると密告した人間がいるとも言っていたではないか。つまりは、第一研究棟内部に中央塔と通じている者が少なくとも一人以上いるということで――

「瀬田さん」

「ん、何?」

「水原さんを締め上げようなんて、考えてませんよね?」

「ま、まさかァ。証拠もないのにそんな無茶なこと、私がするとでも?」

「あっ、一瞬動揺しましたね! やっぱり考えてたんだ!」

「考えてないわよ! ちらっと思っただけで」

 図星だったらしく、瀬田は声を荒げた。

「同じことですよ! いいですか、くれぐれも軽挙妄動は慎んで下さい」

「うっさいわね。なんで保坂君にそんなこと言われなくちゃいけないの? 立場が逆でしょうが」

 頭ごなしに言われて、保坂はムッとした。

「そんな言い方ないですよ。人がせっかく心配して言ってあげてるのに」

「なによ、その恩着せがましい言い方は!」

「わからないなら何度でも言ってあげますよ」

「ええ、言ってもらおうじゃない!」

 お互いに噛みつかんばかりに顔が近づけ合ったその時、台所で笛を力いっぱい吹き鳴らしたような音が鳴り響いた。

「……お湯、沸いたみたいよ」

「そ、そうですね」

 なんとなく白けた気分を抱えながらコーヒーを淹れて戻ると、瀬田は居心地悪そうに首をあちこちに動かしていた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 カップを受け取る時も、瀬田は気恥ずかしそうにそっぽを向いて、保坂の目を見ようとしなかった。

「ごめん」

 コーヒーを一口すすってから、彼女は小声で言った。

「つい、ムキになっちゃって」

「僕の方こそすいません。話を聞いてもらってる立場なのに、生意気でしたね」

 保坂は素直に詫びた。尊敬する君嶋が事実上行方不明であるこの状況では、心配のあまりつい感情的になってしまうのも当然というものだ。

「でも、ちょっと意外でした」

「あんまり言わないでよ。恥ずかしいから」

「そんなことないです。おかげでちょっとは気が楽になりました。僕一人で抱え込んでたら、きっと落ち込んでどうしようもなくなってたと思いますから」

 ありがとうございます、と保坂は改めて頭を下げた。

 君嶋のこと、有里のこと――いずれも希望があるとは言い難い。それでも、瀬田がいるおかげでどれだけ救われたことか。

 瀬田は驚いたように目を丸くしていたが、やがてにこりと笑った。

「こっちこそ、ありがとう。よく話してくれたわ」

 それは本心からの言葉ではあったろう。けれども、瀬田とて辛くないはずがあるまい。

 彼女に重荷の半分を預けてしまったという思いがある保坂には、その心遣いが胸にしみた。

「大丈夫よ。きっと、大丈夫」

 何が、とは瀬田は言わなかった。彼女は、保坂も自分と同じ相手を案じていると思っているのだろうか。だとすれば少し寂しくもあり、申し訳なくもある。

 あくまでも明るく笑う彼女に対し、保坂は黙ってうなずいた。

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