終章 3

「死が、解き放たれた」

 長田光は湯気の立ち上るカップをソーサーに戻した。えもいわれぬ紅茶の香気がふわりと所長室に広がった。

 げっ歯類じみた造型の顔に笑みを絶やさない長田の表情は、余人にはかえって感情を読み取りにくい。長年そばで働いている智慧は、彼の表情を読もうとすれば惑わされると知っていた。彼女は、長田の考えを知ろうとする時、その声に注意するようにしている。今の長田の声には、芸を仕込んだペットに期待以上のものを見せられた飼い主のような興奮した響きがあった。

「伊達に続いて土田まで。けれど、これはまだ始まりにすぎない。彼女はまだ目覚めたばかり、どこまでその黒い翼を拡げてゆくか――それはまさに神のみぞ知る、と言ったところかな」

「末恐ろしいことです」

 智慧は長田とは対照的な無感動な声で言った。

「きみの弟は、彼女を咲ききっていない花に譬えたそうだね」

 吊りあがった口許が、さらに皺を深くした。

「彼女がこの先、何を見せてくれるか、楽しみなことだ」

「……これから忙しくなりますね」

 君嶋の反乱に加え、職員一名と開発中のMの脱走。人的、物的に被った被害の後処理もさることながら、今回の不祥事に対する上からの詰問は避けられない。むろん、これらを逆手にとってA.D.A.に有利な状況を作り出す算段はあるが、当分は対応に追われる日々が続くだろう。

 彼女の弟と《ベラドンナ》の動向も気がかりだ。彼らに出来ることなどは限られているが、彼らを利用したがる連中の数は予測がつかない。

(バカな子)

 智慧は胸中で一人ごちた。

「きみにも苦労をかけるね」

「いえ。もう慣れましたから」

 笑いが止まらぬといった体の上司に、智慧は肩をすくめて応じた。

言祝ことほごう!」

 長田は立ち上がって窓に向かい、差してくる光の中でカップを持つ手を掲げた。

「死は有史以来人類の敵であった。いや、生命が誕生して以来というべきか。寿命のないシアノバクテリアでさえ、環境が激変すれば死滅するしかない。我々の歴史とは、一面では死の不安との戦いであったとも言える。宿敵たるきみを、皆がおそれよう。あるいはきみ自身がおのれのさだめを呪うこともあろう。だが、ぼくは祝福する。来るべき未来のため、生命の新たな段階ステージのために、世界中の誰よりもきみの誕生を祝福する。さあ! 行くがいい! そして存分に撒き散らすがいい! アトロパ・ベラドンナ――ぼくの、死の女神よ!」

 そう叫ぶやいなや、長田はカップの中身を一息に飲み干した。

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