怪物 8
「あん?」
その声は、当然伊達の耳にも届いていた。
彼は声のした辺りを見上げながら、わずかの時間黙考した。自分が追っていたもう一人の人物の顔が浮かんで、伊達は「ああ」と手を打った。
匂いの先には枝ぶりのよい一本の木があった。しばらく大人しくしていてもらうために、足許で呻いている有里の脇腹を軽くひと蹴り――と言っても、人間なら内臓破裂で即死する程度の強さで――してから木に近づく。跳躍して枝をつかみ、あとはするするとよじ登っていくと、てっぺん近くに男がロープで縛られていた。
「すまねえな。戦いに夢中ですっかり忘れちまってた」
保坂は涙を浮かべた目で伊達を見つめた。口にはしっかりとさるぐつわが噛まされているので、もがもがとしか声が出せない。
瀬田とかいう研究員の、保坂勇気は無理やり有里に同行させられているようだという話については正直半信半疑だったのだが、このようすからするとどうやら本当らしい。
伊達は内心でほっとしていた。保坂がもしA.D.A.を裏切っていたら、あるいはこの場で始末しなければならなかったかもしれない。この青びょうたんの命がどうなろうと知った事ではないが、それで彼の姉の恨みを買うのは面白くない。
(もっとも――)
あの女が、そんな人間らしい感情を持ち合わせていればの話だが――と、人ならぬ身の虎男はひそかに考えた。
さるぐつわを外してやると、叫びすぎて咽喉をどこかおかしくしたのか、保坂は大きく咳き込んだ。
「おいおい。大丈夫かよ」
苦笑して、伊達が手をのばしかけた時、保坂を縛っていたロープははらりと落ちた。
背中に回されていた両手が、唐突に取り戻した自由に戸惑うようすもなく、伊達の目の前に突き出される。
そこに握られている物を確認するいとまもなく、閃光が視界を覆った。
「うおっ!」
顔面を舐める熱気に、伊達は思わず身体をのけぞらせた。幹に食い込ませていた爪が外れ、まっさかさまに落下する。猫科の動物の本能がとっさに着地に最適な姿勢をとらせ、伊達は両手両足で地面をつかんだ。
「ヤロォ……」
上唇をまくれ上がらせて頭上をにらむと、保坂は興奮した面持で伊達の背後の闇を見つめていた。その手にはヘアスプレーと思われる円筒状の缶と、ジッポのライターがあった。なるほど。ライターの炎に向かってスプレーを噴射させれば、簡易火炎放射器の出来上がりというわけだ。
「今だ、有里!」
保坂のその科白に、伊達は思わず振り向いた。が、有里は彼が蹴りを食らわせたあとの姿勢のまま、ぴくりとも動かない。
「どうしたんだ、有里! せっかくのチャンスじゃないか――あ、あれ?」
「バカが。あの小娘は俺にブチのめされて夢ン中さ。まあ、そっからじゃ戦ってるようすは見えなかったんだろうけどな」
保坂の顔が目に見えてひきつった。おそるおそる、視線をこちらに下ろしてくる。伊達は、満面の笑顔を彼に向けた。
「よくもやってくれたな、この野郎。おかげで自慢のヒゲが燃えちまったじゃないか」
「はは……。す、すみません……悪気はなかったんですよ?」
「そっかあ。悪気はなかったってか。という事は、これは不幸な事故ってこったな。なるほどねえ――って、ンなわけあるか、このガキがぁッ!」
怒声が森を震わせ、保坂は落ちかけて木にしがみついた。
「裏切ってたってえなら話は早い。その首へし折ってやるから覚悟しやがれ!」
「ひいっ」
保坂は悲鳴を上げたが逃げ場はない。死ぬ気になれば飛び降りることも出来るだろうが、まず骨折は確実だし、どの道人間の足では伊達から逃れられるはずもない。
首を折るというのは脅しだが、暴れられても鬱陶しいので、大人しくなるまで適当に痛めつけてやるつもりではいた。そうして、所長の前に引きずって行ってやる。処分は彼らが決めるだろう。
再度の登攀のために木肌に爪をたてたところで、保坂があっと妙な声を上げた。
「なんだ? また俺をハメようって魂胆か?」
「ち、ちがっ――違わないけど、ちが――」
「ああン?」
振り返った伊達は、あんぐりと口をあけた。
まさか――
彼の攻撃をまともに食らったのだ。立てるはずがない。だが――
長くまっすぐな金髪を踊らせ、己の血でまだらに染まった白衣の裾を翻し、こちらに迫ってくるのは、紛れもなく彼女だ。
(やば……!)
嘘だ夢だ幻だと、頭でいくら否定してもしかたがない。現に彼女は立ち、駆けている。そして、伊達にその毒のしたたる爪を突きたてようとしている。避けなければ、命はない……。
退がろうとした踵に硬いものがぶつかった。木だ。
背後を確かめ、視線を戻す。跳んでいる。抜き手が眼前に――
「ひぃっ」
横へ逃げようとした伊達だったが、恐慌をきたしかけた頭から発せられた命令は、正確に両脚へ伝達されなかったらしい。無様にもつれ、よろめいて、なんとか身体を横にずらすことには成功したものの、有里の抜き手を完全にかわすには至らず、浅く右頬の肉を削られた。
「あっ――……」
くらった。
くらっちまった。
コンマ数ミリグラムであらゆる生物を殺す猛毒を。
膝から力が抜け、へなへなとその場にへたり込んだ。一度は抑え込んだはずの恐怖が、むくむくと頭をもたげる。たった一つ、これから彼が手にすることの出来る唯一の現実――“死”という言葉とともに。
「う、嘘だ……テメェは、たしかに全身バキバキにしてやった……動けるはずがねえんだ……!」
自分の声が、まるで空の上で響いているかのように聞こえた。空回りする道化の戯言。手遅れだ、いまさら否定したところで……
「安心しなさい。死にはしないわ」
パニック状態の頭に連動して高鳴っていた心臓が、どくんと一度跳ね上がってから、ほんの少しだけ鎮まった。少女は微笑んでいた。伊達は、地獄の底で菩薩に出会ったような心地でその顔を見上げた。
「あなたには訊きたいことがある。だから、まだ殺さない」
伊達は愕然として悟った。つかの間の幻想は跡形もなく消えた。現実から目をそむけようとしても、裁きの鉄槌はすでに振り下ろされた後だった。
「けっ……やっぱ、そういう事かよ……」
しかし、甘い――と彼は胸の内で彼女を嘲う。
四肢の末端から、蟻が這い登るように痺れが広がってゆくのがわかる。即効性の神経毒――だが、伊達の巨体を完全に無力化するには、あと一分以上はかかるはず。
そう踏んだ彼は、地面についていた膝の片方を有里に気取られぬようにゆっくりと持ち上げ、いつでも動ける体勢を取った。
木の上の保坂を気にして、一瞬彼女の注意が自分からそれた。伊達は足許の砂をつかみ、手首を一閃させた。
目潰しの成否はどうでもよかった。要は、有里の目の届かない距離まで逃げる隙が作れればよい。伊達は後ろを顧みることなく全力で走り、藪に頭から突っ込んだ。
「いいの?」
髪にかかった砂を払い落としながら、有里がどこにいるとも知れない伊達に、よく通る澄んだ声で訊ねた。
「動けば毒の回りがはやくなるわよ」
(ほざいてろ)
木陰から有里のようすを伺いつつ、伊達は吐き捨てた。
こうして隠れてしまえば、向こうにはこちらの位置を知るすべはない。次の一撃で、今度こそ息の根を止める。なに、その気になれば、ものの十秒もかかるまい。
目の端に有里の姿を置いたまま、そろそろと移動し、強襲のポイントを吟味する。彼女の視界の外から仕掛けるのはもちろんだが、攻撃の瞬間を悟らせないのがもっとも肝要だ。目潰しが心理的にこたえたのか、有里は警戒心を強めている。どうする? さっき彼女がやったように、石や枝を投げて注意をひくか?
姿勢を低くし、這うようにして回り込む間も、伊達は有里から視線を外さなかった。もちろん、木の後ろを通過する一瞬には、彼女の姿は視界から消える。だが、それは問題にもならない短い時間――そのはずだった。
そこにあるはずのものが忽然と消える。まるで手品のような光景だが、見せられた伊達にすれば、とてもそんな長閑(のどか)な心境ではいられなかった。
色を失った彼の脳裏からは、隠密行動を取っていたことも、無駄に動いて毒の回りを早めるべきではないことも、何もかもが吹き飛んでいた。
どこだ? ヤツはどこだ?
突風に弄ばれる風見鶏のように、伊達はこうべをあらゆる方向に巡らせた。最後に、再び少女のいた場所に視線を戻した時、背後に人の気配が立った。
首筋に、冷たい指の感触があたった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます