記憶 7

「な――っ!」

 最上階の窓から外を見ていた保坂は、土田の突然の凶行に絶句した。

 なぜ味方を攻撃するのかと訊ねようとした有里は、彼のようすからしてそれも無駄だろうと判断した。

「ともかく彼が、この場にいる全員を殺すつもりなのは確からしいわね」

 早く来るよう保坂を促して、有里は穴だらけの廊下を歩いていった。つきあたりの用具入れと思われるドアを開けると、埃とカビが舞った。毛先が乾いて固まったモップや錆だらけになったバケツを押しのけると、人ひとりが十分に収まる空間ができた。

 ためらい顔の保坂を無理やりそこに押し込むと、彼は踏まれたカエルのように呻いた。

「頼む、もっとやさしく……」

「がまんして」

 なおも抗議の声をあげる保坂に、自分が開けるまで絶対にここから出ないよう言い置いて、鼻先でドアを閉めた。保坂からすれば、さっき、一瞬でも心が通じあったような気がしたのは錯覚かと思えるほどの冷たい態度だったが、頭の中を戦闘モードに切り替えている有里には、保坂の泣き言などよくて雑音――色々な事を割り切って動かなければならない状況では邪魔でしかなかった。

 謝罪も礼も、後でまとめてすればよい。

 歩きながら、顔にかかった髪を払う。エメラルドの瞳の中で、瞳孔が広がる。肩の辺りから、甘い芳香が立ち昇る。神経が研ぎ澄まされ、心が静かになってゆくのが感じられた。

 両足が少し重い。疲労が貯まっているのだ、と自らの状態を客観的に分析する。あまり長くは戦えそうにない。

 土田が一階の入口に立つのが判った。相手の感知能力がどれほどのものかは知らないが、いちおう、隠密行動の訓練を思い出して足音を消した。標的に気づかれないように近づければ、事は一瞬で済む。

 有里の能力は、純粋な力と力のぶつかり合いよりも奇襲や暗殺に適している。むしろ、その方面に特化していると言ってもよい。慎重な足取りで階段を降り、途中で拾った鏡の破片を使ってロビーのようすを伺う。ロビーの中央あたりから、黒い影が長く伸びていた。入口から差し込む、白みはじめた空の光を背にして土田が立っていた。逆光のせいで表情は判らない。

 土田は、最初からあった両手をポケットに突っ込んだまま微動だにしなかった。向こうもこちらを待ち伏せているのだろうか。ならば、引き返して別の――例えば、二階の床にあいた穴から降りて奇襲をしかけるのが良いか。

 そう考え、一歩下がった。その際に、うっかり崩れた壁の破片を踏みつけ、有里はわずかによろけた。

(しまった)

 音はたてずに済んだものの、手許がちかりと光った。有里は舌打ちしたい衝動に駆られた。鏡に朝日を反射させてしまったのだ。

「そこですか」

 気づかれたのなら、もはやこれまでと、有里はロビーに飛び出した。が、そこには土田の姿はなかった。

(どこにっ?)

 左右を見回し、上を見る。やはりいない。

「そこ!」

 振り返って、斜め上、天井めがけて鏡の破片を投げつける。

 ざあっ、と影のようなものが、ガラスを避けて天井から壁、金具がむき出しになったベンチの後ろへと移動し、また現れて、壁の上で停止した。

 冗談のような光景だった。

 屋内などで見かけるハエトリグモの縮尺を何十倍にも引き伸ばしたような生き物が、壁にへばりついている。しかも、手足の数を除けば基本的に人間の姿をしているのだ。ただ、先刻とくらべると若干手足が長くなり、膝と股関節が逆向きに曲がって、よりクモに近い体型になっていた。

 坊主頭がゆっくりと回転する。一八〇度うしろを向いた顔がニタリと笑った。

(挑発のつもり? 余裕なら――利用させてもらう)

 有里は前に踏み出した。指をそろえ、肘を引き、狙いを定めてまっすぐに突き出す。重要なのは速度だ。速度が威力を生み、命中率を高める。

 しかし、音速の抜き手が貫いたのは、コンクリートの壁面のみだった。

(速い!)

 土田はすでに、有里の頭上を這って天井の穴に逃げ込んでいる。有里は後を追い、跳躍して穴の縁に手をかけ、身体を一回転させて二階に上がった。

 空気を切り裂く音がして、二本の爪が槍のように突き出された。左右、どちらに避けても間に合わない。有里は身体を横にして腕の間にすべり込んだ。そこを狙って、さらにもうひと突き!

 眼前に迫る爪を、掌で下に押し込むようにして受け、反動で身体を浮かす。もう一方の手を三本目の腕にあてて、側転の要領で敵のいる方向へと跳んだ。つま先の延長線上で、驚き顔の土田が真っ黒な目で彼女を見上げていた。

 有里は重力に身を委ねながら、両手を攻撃のために振り上げた。毒腺のある棘が二本、手刀に生まれる。残りの腕で防御されても、この棘が刺されば毒を注入できる。見たところ、土田には分厚い殻や装甲はない。

 ――もらった!

 そう言いかけてひらいた有里のくちびるは、その形のまま固まった。たった今まで彼女の下にあった土田の姿が、忽然と消え失せたからだ。

 否――消えたのではなく、移動したのだ。その瞬間も判ったし、どちらへ動いたのかも見えていた。しかし、彼女はそれに反応することが出来なかった。

 土田は、攻撃に使わなかった腕の一つを持ち上げ、その姿勢のまま真上に飛び上がったのだ。土田はそのまま有里の背後をすり抜け、交錯の瞬間に彼女の背中から肩まで袈裟懸けに引き裂いていった。体勢を崩した有里は、叫び声すらあげられずに床に叩きつけられた。

 仰臥した有里の視線の先に、空中に静止した土田の不快きわまる笑みがあった。その部屋の天井は完全に抜け落ちており、有里の位置からは三階の天井が見えていた。そこに、土田は手からのばした糸をつけ、身体を支えているのだ。

 どっ、と左肩の付け根を衝撃が貫いた。

「くあっ」

 爪が引き抜かれる瞬間、電撃に似た痛みが全身を駆け巡った。だが、痛みに呻いている暇はなかった。次々に突き出される土田の爪を、床を転がってかわさねばならなかったからだ。

 なんとか体勢を立て直した有里は、肩を上下させて荒い息をついた。

 厄介な敵であった。クモという生物の特性からして、壁や天井をものともしない戦い方をしてくるであろうとは予想できたが、それ以上に、この相手は動きが読みづらい。

 糸を利用した変則的な動きだけではない。土田の身体を覆うクモの外骨格は、動作に移る直前の筋肉の動きを隠してしまう。加えて、瞳のない真っ黒な複眼――目の動きを観察していれば、相手が次にどうするかある程度はわかるものだが、構造上まったく動かないような目ではそれも不可能だ。

 だから、どうしても反応が半歩遅れる。ただでさえスピードでは分が悪いというのに。

「――!」

 壁から壁へ、ジグザグに動いて降下してきた土田が、有里の右大腿部を駆け抜けざまに一撃した。スラックスがじわりと重くなり、有里は膝をつきたくなるのを懸命にこらえた。

「どうしました? マドモアゼル・ユーリ。もっと良い声で鳴いて下さらないと、つまらないではありませんか」

「うるさい!」

「おお、怖い」

 ひきつるような声で笑いながら、土田はまた有里の頭上に回り込んだ。真上からの攻撃が防ぎづらいというのは戦闘の常識である。圧倒的優位にありながら、この慎重さ……

(余裕はあっても油断はないってことね)

 土田から隠した一方のこぶしを、有里はそっと握りしめた。この建物に逃げ込む前、土田に追い詰められて危うく命を落としかけた時に、閃いたものがあった。だが、その使い所は慎重に見極める必要がある。そう何度もチャンスをくれるほど、この相手は甘くない。

「まだ諦めていないという目ですね。秘策でもおありですか?」

「なぜ、そう思うの?」

 有里は鼓動が早まるのを感じたが、努めて冷静に問い返した。

「あなたの能力に関しては、まだわからないことが多い。君嶋博士が隠していたからです。それに、あなたはここまで追い詰められながらも戦闘形態になろうとしない。もしかして、伊達との戦いでも変身しなかったのですか?」

「変身――? そういえばそうね」

「コードネーム《ベラドンナ》……この名前と開発記録から考えれば、あなたは植物ベースのMに間違いはない。けれども、あなたは依然ヒト型のままわたしと対峙している。いまやわたしは疑っている……あなたは本当に、我々と同じMなのですか?」

「さあ。どうなのかしら」

 有里は曖昧に答えた。

 はぐらかすつもりではなく、本当に知らなかった。自分の遺伝子に植物のそれが組み込まれていることは知っていたが、それが何という植物なのか、他に何種類の動植物の遺伝子が同じように組み込まれているのか――そういった事はしらされていなかったし、自分が変身後どのような姿になるかも、それどころか、自分が他のMのように変身するものだというその可能性すらも、今の今まで意識したことがなかったのである。

「なるほど」

 土田が嘆息するように言った。

「君嶋博士は、あなたにも色々と内緒にされていたようですね。それとも、何かきっかけがあれば封印された記憶が蘇るようなプログラムでもされている、という事でしょうか」

 カマをかけられているのだとわかったので、有里はじっと考え込むふりをして何も答えなかった。

「では、ひょっとして、あなたは自分が造られた本当の理由もご存じないのですね」

「……どういうこと?」

 ずっと黙っていようかとも考えたが、その言葉にはつい引き込まれてしまった。土田がニタリと笑うのを見て、有里の肌は粟立った。

「やはり! だが、本当はもう、うすうす勘付いてはいるのではないですか? 君嶋博士が企てた、長田所長暗殺計画――その中心に、あなたはいた」

「つまり私は、あの男を殺すために造られたと?」

「その通り。あなたの知らぬところで、あなたの生みの親によって定められた運命です」

「どうして……?」

「復讐です!」

 間髪を入れずに土田は答えた。

 復讐――そういえば、長田もそんなことを言っていたような気がする。

 土田の唇の両端がますますつりあがった。

「A.D.A.の設立には、長田所長と君嶋博士の他に、もう一人の科学者が関わっていました。彼女の名は蓮宮真理子。しかし彼女は史上初となるMの誕生を待たずして、実験中の事故で命を落としてしまう。君嶋博士は、蓮宮女史の死の責任は長田所長にあるとずっと思い込んでいたようですね」

そして博士は、長田を暗殺するための計画を練った。

「しかし計画は露見し、君嶋博士はやむなく自身の手で所長を殺そうとしたが失敗した。結果として、あなたは今ここにこうしているわけですが、本来ならあなたは、彼の復讐の道具として使い捨てられるはずだったのです」

「復讐の……道具?」

 すべてはその女性のため。それが、博士が私を造った理由……

「おや、怒りましたか? 君嶋博士が、自分をそんなことに使うはずがないと? は! 甘い夢です、幻想ですよ、マドモアゼル。我々はMです。暗殺であれ、個人的な欲望の達成であれ、戦争やあるいはもっと崇高な使命であれ、人間がある目的を設定したら、我々はそれをかなえるために働く。主人に奉仕し、手段として立ち回る道具なのです。所詮、その程度でしかない。我々の存在意義などというものは――」

「黙りなさい!」

 土田の言葉が終わるのを待たずに有里は床を蹴った。そこまで聞けば十分だった。もうこの男に用はない。殺す。自分と、保坂の障害になるものは、徹底的に排除する。

 自分でもよくわからない、どす黒い感情に駆り立てられながら、土田の懐にとびこんだ有里は、裂帛の気合いとともに突きを繰り出した。動きが読めないのなら、こちらが先手を取って仕掛ければよい。そうすれば、土田は有里の攻撃への対応を強いられることになる。

「ぬう」

 長い腕があだとなり、土田は反撃もままならない。後退しながら自分の間合いにもっていこうとするが、有里はそれを許さなかった。壁際に追い詰められた土田の表情から余裕が消えた。横に逃れようとするのを膝を蹴りつけて止め、胸元を狙って抜き手を放つ。だが、鞭のようにしなる土田の腕に払われた。さらに突き。これも防がれる。数秒の攻防、そして生まれる一瞬の膠着。

 毒棘を警戒して、土田は一方につき三本の腕と爪を使って有里の腕を押さえ込んでいた。爪の硬い部分であれば、有里の棘も歯が立たない。

 互いに攻め手を失ったかに見えた次の瞬間、土田がぐいと首を突き出し、牙の生えた口を開いた。

「あ……ぐ……っ!」

 極太のマジックペンほどもある二本の牙が、有里の肩口に食い込んだ。両腕の力が緩んだところを振り払って、土田は天井の穴に逃げ込んだ。

 焼けるような熱さを感じ、かまれた肩を見た有里は、思わず息をのんだ。

 傷口周辺の肉が溶け崩れてえぐれたようになり、血膿が混じり合う汚泥じみた液体が溢れる中に、白いものが覗いていた。

 咽喉の奥からせりあがってくるものをこらえた有里は、手足の痺れを自覚した。土田に注入されたのは、消化性と神経毒性を併せ持つ、典型的なクモ毒であった。

 これまでに有里が体験したことのある毒であれば分解・吸収はたやすいが、事はそう簡単にはいかない。生物毒は単一の成分で構成されていることはまずなく、クモの場合、その毒液は、種類によっては十数種の成分が含まれていることがある。土田の毒液の成分のいくつかは有里も知っているものだったが、不運なことに、彼女の身体に実際に影響を及ぼしている成分は、研究所での実験では投与されたことのない、未体験の毒であった。

 落ちそうになる膝を叱咤し、有里は土田の消えた方を見上げた。気配が壁の向こうを移動している。下か。ならば、出てきたところを――

「!」

 床を突き破って現れた爪が、すねと腿の肉をこそぎ取っていった。よろけて壁に手をつくと、そこからもクモの腕が生え、胸と腹の数箇所をえぐった。

「くそっ」

 思わず漏れた罵声に答えるように、土田の含み笑いが響いた。

 老朽化した建物は、動くたびに軋んで、有里の位置を敵に知らせる。有里の毒を恐れる土田は、正面からの衝突を避け、壁や床ごしに攻撃を仕掛けてくる。音を頼っての攻撃であるために、正確さに欠け、威力もある程度減殺されるとはいえ、反撃手段のない有里は、このままではジリ貧だった。

 有里はアドレナリンを大量放出して痛覚を遮断し、壁面を高速で移動する土田の気配を追うことに集中した。

(そこか!)

 天井の破れ目を土田が通過する瞬間を狙い、崩れた壁の破片を投げつけた。土田の動きがわずかに止まる。今だ――!

 駆け寄ろうとした有里であったが、逃げるとばかり思っていた土田が逆に彼女にとびかかってきたので、思わずたたらを踏んだ。

 すれ違う一瞬に、土田は一度爪を振るったが、それは有里に届かなかった。だが、それはフェント――すぐに跳ねて壁にとりつき、有里との距離を取った土田の爪には、一本の糸がかかっていた。糸は反対側の天井に向かってのび、真ん中あたりで有里の首に巻きついていた。

 ただの糸ではない。土田が命綱として使っている丈夫な糸を何本もより合わせたもので、武器として使えば研ぎ澄まされた刃物のように標的を切り刻むことが出来る。

「落としなさい、その首を! ギロチンにかけられた罪人のように!」

 糸の一端を奥歯で固定した土田は、噛み締めた歯の間から、戦いの熱に浮かされたような叫びを発した。

 そして、勢いよく腕が引かれる。

 太さにしてコンマ一ミリにも満たない糸が、有里の細い首に食い込んだ。ところが、糸は土田の爪の先で一瞬の抵抗を見せたのち、プツリと切れた。

「なっ」

 驚く土田に向かって、有里は俯けていた顔をゆっくりと上げた。彼女の右手は虚空をつかむように持ち上げられており、指の間からは鮮血がしたたっていた。

 土田の糸が首を寸断するよりわずかに早く、有里は糸をつかんだ右手を滑らせ、強酸を血に混ぜて排出――そうして糸を断ち切ったのであった。

「……しぶといですね」

 呆れたように土田が言った。

「あれほど切り刻んであげましたのに、あれほど血を流させてあげましたのに、まだそんな真似が出来るのですか……」

「とっさのことよ」

「いいえ。あなたは普通ならとうに意識を失う――それどころか、十分に死に至るほどの血を流している。我々Mは非常に優れた自己修復能力を持っていますが、それで傷は治せても、失った血液を取り戻すことは出来ない。にもかかわらず、あなたは平気で動いている。何故です?」

 そんなこと、こっちが訊きたいくらいだと有里は思った。彼女はただ、死にたくなくて必死に戦っているだけだ。

「でも、身体は重いわ」

「それは当然でしょう。失血で死なないからといって、平気でいられるかはまた別です。……しかし、それにしても異常なしぶとさですね。もしかしたらあなたは、血液すらも再生できるのかも……」

「しぶといしぶといって、あんまり言わないでほしいわ」

「これは失敬。たしかに、若い女性にふさわしい形容ではありませんね」

 土田はクククと咽喉を鳴らした。

 血液をも新たに作り出すほどの高度な自己修復能力――そんなものを、自分は持っているのというのか? 君嶋博士は有里にも隠していたことがたくさんあると言った。まさか、という思いと、現にこうして立っている事がその証明ではないのかという考えが、有里の脳裏でせめぎあった。

 だが、血液レベルからの再生には膨大なエネルギーを必要とするはずだ。伊達戦で受けた傷を塞ぐだけでも有里はかなりの疲労感を覚えていた。土田の言うような、Mとしても異常な自己修復能力はおよそ現実的ではない。

「さて、いいかげん終わりにしましょうか」

 ひょうげた中にも決然とした響きをにじませた科白が、有里を沈思の底から引き上げた。

 土田の身体が壁と壁の間を物凄い速さで往復する。だが、目で追えないほどではない。手刀の棘をいっぱいに伸ばして、接近してきたところで一閃させる。しかし、寸前で直角に軌道を変えた土田は、空を切った有里の手刀の上で勝利の笑みを浮かべた。

 ひらいた手の指を閉じるような動きで、八本の手足が有里に殺到した。手と肘で二本ずつを弾いたが、残る四本が情け容赦なく有里の華奢な身体を貫いた。痛覚を切ってあるとはいえ、体内を異物が通過する感覚はやはり不快極まりなかった。

 有里がそれでも死なないと見るや、土田は彼女の首筋に牙をつきたてた。わずかに急所をそれたが、肉を溶かす毒液があるので関係ない――そう思っていたに違いない土田の顔が、信じられないものを目の当たりにした驚きに歪んだ。

「なっ、そんな――」

 牙を抜かれたあとの有里の首に、溶け出す気配はまるでなかった。それどころか、たった今負った傷が、みるみるうちに小さくなってゆく。

「わたしの毒が――まさか、もう耐性が――?」

 繰り出された突きをかぎ爪でふせぐことが出来たのは、土田にとって僥倖と言えた。必殺の意図で仕掛けた攻撃をしのがれた衝撃は、それほど大きかったと見える。有里は萎えかけた足を踏みしめ、間髪を入れず抜き手を放った。

「このっ、化物が」

 二発。三発。必死の形相で土田が退がる。

「なめるなア!」

 有里の指が土田の鼻先で止まった。右腕が、左右から爪に貫かれ、あと数センチのところで土田に届かない。だが――

(まだよ)

 有里は、右手の指先がぷくりとふくれる感じをイメージした。爪と指の間にある毒腺が、熱を持ってはちきれんばかりになる。

「これでどう!」

「うぬあっ」

 有里の指先で皮膚が弾けた。

 直感で危険を察したか、土田は首をすくめ、有里の腕を貫いている両手を己の顔から遠ざけた。同時に、頬すれすれを目にもとまらぬ速度で通過した物体が、彼の背後の壁を穿った。

 毒物を合成する要領でたんぱく質の硬いカプセルを作り、筋肉の収縮と空気圧を利用して指先から射出する。カプセルにはもちろん毒が仕込まれており、命中と同時に割れて中身を撒き散らす。これが、有里の閃いた奥の手――“沈黙の小矢フレッシュ・ド・シランス”であった。

「そんな技も持っていたとは」

 土田が上に糸をとばした。頭上をとびこえようとする土田に向けて、再度小矢を放つ。しかし、土田は振り子のように身体を揺らしてそれをかわした。

「毒と飛び道具、たしかに恐ろしい組み合わせではありますが、当たらなければ意味がない!」

 そう。Mの反射神経をもってすれば、来るとわかっている弾丸をかわすのはたやすい。

「その通り。でもね」

 それは、弾が自分を狙っていた場合の話だ。

 有里が片方のくちびるを上げた直後、突然、土田の身体が支えを失ったように落下を始めた。

「なにッ」

 彼は慌てて糸を手繰る仕草をした。そして気づく。

 糸は……切れていた。

 有里が狙ったのは、土田ではなく、彼の糸と天井の接合点。コンクリートに小矢が突き刺さり、その衝撃で割れたたんぱく質の殻から腐食毒が流れ出した。老朽化が進み、あちこちひびの入った天井を崩壊させるにはそれで十分だった。

 糸がなければ自由に動くことは出来ず、ただ落ちるしかない。こうなった土田は、まさに格好の的であった。

 土田は助けを求めるように腕の一本に水平にのばし、糸をとばした。垂直落下していた身体に横向きの力が加わり、広げた扇のような弧を描く。だが、有里も当然、土田がそうするだろうことは予測している。かろうじて目視できる糸が壁に向かってのびた時にはもう、彼女は駆け出していた。

 跳躍した有里の瞳に、振り返った土田の顔が映った。その首筋めがけ、両手を――毒の棘を振り下ろす。しかしそれは、交差した土田の腕に受け止められた。

 もつれあうようにして、二人は壁に叩きつけられた。落ちる時の体勢がよかったのか、土田に馬乗りになった有里であったが、両腕は相変わらず封じられたままであった。目一杯のばした棘を、なんとか土田に届かせようと力を込めるも、相手もそうさせまいと押し返してくる。

「このっ」

 さらに強く腕を押し込もうとした時、脇腹がずしりと重くなった。見るまでもなく、土田が爪を突き立てたのだと判る。たまらず喀血すると、土田は子供がいやいやをするように首を振った。

「ははっ……私の血が怖いの?」

 意地悪く有里は訊ねた。彼女の傷口から流れ出る血は、土田の服にも染みを広げている。有里はその血に、さっき糸を切る時に使ったのと同種の酸を混ぜ込んでいた。こうして火傷を負わせた後に、とどめを刺すための強力な毒を浴びせかける。彼女を引きはがすために攻撃すれば、毒液でもある返り血をさらに浴びるという悪循環。有里自身も相当の苦痛を強いられるが、敵の味わう恐怖とダメージはその比ではない。

 肉を焼く異臭が漂いはじめると、土田ははっきりとした怯えの色を見せて手足をばたつかせた。

「は――離れろォッ! この――ッ!」

「イヤよ」

 有里が真っ赤に濡れたくちびるを歪めるのを見て、土田の中で何かが弾けたらしかった。彼は言葉にならぬ絶叫を発した。有里は胸をそらすようにして上体を前に突き出し、己の顔を土田のそれに近づけた。肩の関節が無理な方向に曲がって悲鳴をあげたが無視する。そして、土田にされたように、彼の首筋に歯を立てた。口腔に、自身のものとは違う血の味が広がった。

 彼女の下で、びくびくと土田が身体を震わせる。その痙攣が完全に収まるのを待って、有里はあごの力を緩めた。

 ゆっくりと息を吐きながら上体を起こす。土田は完全に事切れていた。くちびるから引いた赤い糸をぬぐうと、今度こそ終わったという感慨がゆっくりと胸を満たした。緊張が途切れたせいか、もう、指一本動かす気力もわいてこない。血を浴びせるのではなく、噛み付いて毒液を注入したのは、彼女の身体も限界に近づいていたからだった。

 上の方から、ばたばたという物音と、彼女を呼ぶ声とが聞こえてきた。保坂だ。あれほど用具入れから出るなと言っておいたのに、と思ったが、文句を言うことさえひどく億劫に感じられた。

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