第四章 悪意(マリス)

悪意 1

 暗い――静脈血がこごったかのような闇だった。

 快も、痛みも、想いも、かつえも、いまだそこには存在せず、ただ、濃密な生温かさのみに包まれていた。

 眠っているのか、覚めているのか。永遠とも思える沈黙の世界で、時すらも意味を失いかけていた。

 だが、そこにもやがて変化が訪れた。

 それが現れたのは、いつからだったろう?

 気づいたときには、それは、はるか高みにぽつりと浮かんでいた。

 いや、高みというのは正確ではない。彼女がいるここは、上下の別も定かならぬ、天地の分かたれる以前の混沌のごとき場所であったからだ。

 闇を穿つまばゆい光に顔を上げると、それのある場所から妙なる調べが響いてきた。

 歌? だが、誰が?

 折りたたんでいた腕を伸ばし、力いっぱい掻いたように思う。

 ――何のために?

 それに、近づくために。

 ――何ゆえに?

 それが、あまりに眩しかったから。

 その美しい歌をうたう者に会ってみたいと思ったから。

 彼女は掻いた。何度も。何度も何度も。

 だが、いっこうに光に手の届くところまでたどりつけない。それどころか、ひと掻きごとに光から遠ざかっているような気さえする。それでも彼女は掻き続けた。まるで、天女がその羽衣で大岩を撫でて削るのにも似た、途方もない行為を、ただひたすらに。

 ふいに。

 全身を浸す生温かい液体に、熱いものが混ざりこんだ。

 ふた筋の――

 振り返り、彼女は悟る。

 光を追い求めてむなしく泳ぎ続けている間に、何か、彼女にとってもっとも大切なものが消え失せてしまっていた。

 彼女は両手で顔を覆い、声にならない声で哭いた。許しを請い、祈るように身体を折った。しかし、彼女の想いは果てしなく広がる闇に呑み込まれ、あとには恐ろしいまでの静寂があるばかりだった。


   ◇


 第一研究棟は揺れていた。

 その日の実験を全面的に中止せよとの指示が各研究員の許に通知されたのが朝の五時。たまたま徹夜をしていたり、こういう場所で働く人間としては奇跡的に朝の早い人間がまずこれに気づき、それがほぼ全員に伝わるまでが約二時間。実験中止を指示した君嶋が、昨夜中央塔に行ったまま戻っていないことが判明し、何人かの研究員が中央塔に問い合わせてみたものの、結局はかばかしい回答は得られずに終わったのがそれと同じ頃だった。

 中止の理由について何の説明もないこと、加えて君嶋がいつまでたっても姿を見せないことに、皆が不安を覚えた。そのうちに、本当にあの指示は君嶋が出したものなのかと言い出す者が現れた。というのも、指示は電子メールによって君嶋研の研究員のパソコンに届けられ、それと同時にA.D.A.関係者全員が閲覧可能な予定表――これは、パソコンと、所内各所に設置されている端末から見ることが出来る――が更新されたのだが、肝心の君嶋本人の姿を見たものは誰一人いなかったからだ。

「あり得ることだ」

 誰かが言った。

「だが、どうしてそんなことをする?」

「中央塔で何か起きたのかもしれない」

「何かとはなんだ?」

「それは――わからん」

 疑心が波紋のようにひろがってゆく。彼らは、何の情報もないこの状況に不安をかきたてられ、すがるべき答えを求めて躍起になった。

「憶測でものを言うな!」

 一喝し、場を静まりかえらせたのは水原だった。

「たしかに妙ではあるが、メールの差出人はたしかに君嶋先生だったのだ。我々としては、ひとまずこれを信じる他ない。待っていれば、いずれ所長なり君嶋先生ご自身なりからきちんとした説明がなされるはずだ」

 日頃サディスティックな言動ばかりが目立つ水原であったが、こういった状況に置かれても動じない胆の太さも持ち合わせているらしかった。集団がある感情のベクトルに流されそうになっていても、こうして手綱をにぎりなおすことの出来る、冷静さを保った人間がまじっていれば、人は簡単には軽挙妄動に走ったりはしないものである。ましてや、君嶋研はメンバー一人ひとりが極めて理知的な頭脳集団でもある。

 ただ今回は、何の予告もなしに君嶋という精神的支柱が姿を消していたために、意外な脆さを露呈することになってしまった。もとより彼らの多くは、優れた科学者ではあっても、何がしかバランスを欠いた人格の持主だった。服装が奇抜だったり極端な偏食だったりするのはまだ可愛い。中には生活能力が皆無である者、一般的な倫理をまったく解さない者までいる。水原のようなあまりたちのよくない性癖の持主も、この集団の中にいればあまり目立たないというのも正直な話だった。

 つまるところ、彼らをまとめるには君嶋のような豪腕が必要なのだった。強い意志でまず自らを律し、良くいえば個性的な連中を力ずくで従わせることの出来る人物――そういうリーダーがいさえすれば、彼らは共通の目的に向けて各々の能力を存分に発揮し、偉大な仕事を成し遂げることが出来るのだ。

 同僚の狼狽ぶりをながめながら、保坂はそのことに思い至った。異形の生命を生み出す集団は、それ自体が異形である。

 昨夜、最後に君嶋と言葉を交わした保坂には、中央塔からのメッセージが嘘であると当然わかっていた。しかし、君嶋の身に何かあったのだとしても、具体的な証拠はない。ここは水原の言うとおり、静観するのが得策だろう。

 こうしていったん騒ぎは落ち着いたものの、平穏は長く続かなかった。

 実験が中止になっても、育成中である十体のミッシュヴェエーゼンの調整と管理は引き続き行わなければならない。そのために各員が持ち場に散って行ってからほどなくして、中央塔から数名の男たちがやって来た。

 彼らは、長田所長の署名のある命令書を片手に、制止する君嶋研の研究員たちを押しのけるように進んだ。説明を求める声、必死の懇願――それらすべてを彼らは無視した。

 とうとう男たちは、研究員にとっては聖域にもひとしいアトリエにまで侵入した。そこで作業をしていた者と、彼らを押しとどめようと必死に食い下がった結果アトリエまで来てしまった者たちの、あるいは呆然と、あるいは真っ赤になった顔に向かって、彼らの先頭にいた男が信じられない命令を告げた。

「形式番号壱KB-一七、コードネーム《ベラドンナ》……当該Mの機能に重大な問題があるという疑いが、開発責任者君嶋博士により報告された。よって、A.D.A.中央研究所所長の権限においてこれを隔離し、検査を行う」

「つまり、《ベラドンナ》は中央塔――長田研究室の預かりとなるわけですか?」

 瀬田がリーダー格らしきその男に訊ねた。男たちはほとんどが白衣姿だったが、彼だけはがっしりした肉体を濃緑色のスーツで覆っていた。肌は浅黒く精悍な顔立ちで、髪はぴっちりと後ろになでつけている。

「そういうことです。搬送は我々で行います。あなたがたの手は煩わせませんので、通常作業に戻っていただいて結構です」

 騒ぎのどさくさにまぎれて保坂がアトリエに入ったのは、ちょうどそんなやり取りがなされている最中だった。

「失礼ですが、あなたは?」

「申し遅れました。穐田あきた慎也、セキュリティ統括部の主任を務めております」

 硬質で張りのある声音だった。保坂が初めて見る顔だったが、セキュリティ統括部といえば各研究室の人間にとって、中央塔の所員以上になじみは薄い。慇懃だが、感情を完全に殺したその表情から、職務におそろしく忠実そうな印象を受けた。それから保坂は、穐田の後方に居並ぶ男たちの中に見覚えのある顔を見つけた。

「あ、あの時の――」

 思わず声をあげてしまって、慌てて口をつぐむ。穐田が鋭い視線を保坂に送った。

「君は?」

「ほ、保坂と申します」

「そうか。なるほど」

 穐田は微妙に表情を歪めた。保坂の名が所長秘書に結びついたのだとすぐに判ったが、それ以上穐田が何を思ったかに興味はない。それよりも――

(たしか、土田と)

 そんな名前だったはずだ。坊主頭に黒丸メガネの男は、一瞬だけ顔をこちらに向け、虫のような笑みを浮かべた。

 ――この男は、姉が自分にもちかけた話を知っている。

 恐らくは、その話が決裂に終わったことまで。そして、昨夜見送った、君嶋の悲壮な決意をにじませた背中――保坂は己の属するA.D.A.という機関が急に恐ろしくなった。

 身体が震えそうになるのがわかった保坂は、右手で左の肘をおさえるようにしながら穐田に向き直った。

「有里を連れて行くのですか?」

「有里? ああ、《ベラドンナ》のことですか。そうです」

「それは、君嶋先生のご意思なのですか?」

「君嶋博士と長田所長、お二方の合意された判断と申し上げておきましょう」

「先生は中央塔におられるのですか? なぜこちらに戻られないのでしょう」

「答えかねます」

 食い下がっても無駄であると言下に告げる、きっぱりとした口調だった。

「保坂君。穐田主任がお困りだぞ」

 水原が咎めるように言った。

「ですが――」

「水原さんの言うとおりよ」

瀬田が保坂と水原の間に入った。

 ――何故止める?

保坂がにらむと、瀬田は落ち着けというように目で応じた。

「正式な命令書があるならば、私たちに異存はありません。しかしせめて、開発チームの者数名を同行させていただくわけにはいきませんか?」

 ふむ、と穐田はあごを撫でた。

「《ベラドンナ》は私たちが開発したMです。当然の義務と思いますが」

「いや、ごもっとも。ですが、件の問題というものがまだはっきりしておりませんので。万一の事態を考えれば、申し訳ないが、諦めて頂くしかない」

 そう言われては瀬田も引き下がるしかない。

 けれども、このまま有里を連れて行かせていいものか?

 有里の眠るカプセルに穐田らが近づいた時、彼女はやすらかな顔で眠っていた。その首には、銀の鎖がかかっていた。穐田と一緒にやってきた白衣の男たちは、蓋が開くと同時にすばやく彼女に拘束衣をつけた。目を覚ました有里はすこし暴れたが、すぐに押さえつけられた。

 有里を押さえつけたのは土田ともう一人の研究員だったが、この男も妙だった。

 筋肉隆々とした巨漢で、頬までのびたもみあげのある魁偉な容貌はとても科学者には見えない。仮に悪役のプロレスラーとだ言われれば、ただちに納得できただろうが。

 横を向くと、顔をしかめた瀬田と目が合った。彼女もこの成り行きを不審に思っているのだ。

「あとで、ちょっと」

 保坂はそっと耳打ちした。有里を搬送機ストレッチャーにくくりつけて、穐田たちはすでに動き始めていた。

「それでは失礼を」

 ご協力感謝します、と穐田は皮肉っぽくつけくわえた。

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