記憶 2
保坂と有里は、二人とも声を発する方法を忘れたかのように、口をつぐんだまま立ちすくんでいた。
さぞ恐ろしい静寂が訪れるかと思いきや、それまで意識の外に追いやっていた虫の声がいやに高く響き、張りつめた神経をざわつかせた。
有里がわずかに眉をひそめ、無言のまま視線を下に送った。
伊達であったものは、呼吸を止め、物言わぬ骸と化していた。
ふらつく身体を木に寄りかかって支えながら、保坂は呼吸を整えた。どうにか落ち着きを取り戻すと、有里のそばに歩いて行った。
(教えてやるぜ。君嶋は――)
何かを言いかけた伊達は、そこでいきなり苦しみだしたのだった。
まさしく獣そのものといった絶叫が耳をつんざき、振り回された腕が有里の頬に赤い線をつけた。
鼻白んだ表情で立ち上がった有里のそばで、保坂は情けなくも腰を抜かした。それを見て、彼女は口中でかるく舌打ちした。
有里が激しく暴れる伊達に近づくと、くぐもった声がして伊達の動きが止まった。そのままゆっくりと巨体が傾ぎ、音をたてて地に伏した。保坂は思わず目をそむけた。しばらくの間、意味の取れない呻き声が聞こえていたが、それもすぐになくなった。
「何が起きたの?」
伊達の死体を見つめながら、有里が訊ねた。
「――禁忌に、触れたんだと思う」
これから起こることを考えて、保坂は憂鬱な気分になった。
「彼自身には知らされていなかった、おそらくは、A.D.A.の根幹に関わるような秘密……」
「博士の死に関わることが?」
「わからない。でも、喋ろうとしただけで発狂するなんて、尋常とは思えない」
有里はまた口をつぐんだ。そろそろだろうかと保坂が思った時、それははじまった。
ぐず、と音がした。
音は一度に留まらず、連鎖爆発でも起こしたように鳴り続けた。有里は気づいているはずだが、相変わらず伊達の死体から視線を外さない。
何故なら――音は、そこからしていたからだ。
温かさを急速に失いつつある皮膚の下で、何かが蠢いている。外見的な変化が最初に起こったのは、目鼻や口、耳といった感覚器官と、戦闘でついた傷からだった。
それら、いわば肉体に刻まれた穴という穴から、白い泡が溢れ出した。泡は膨らんで弾けるのを繰り返しながら増殖し続け、空気を送り込まれる風船のように大きくなって伊達の身体を覆っていった。泡の湧き出した穴は、縁から溶けていっているものか、見る間に大きく広がってゆき、さらに大量の泡を吐き出す。泡のかさが増えるにしたがって、伊達の身体は逆にしぼんでいった。
やがて、伊達は完全に泡に覆いつくされた。すると今度は、真っ白な泡のかたまりはみるみるうち小さくなっていった。まるで地面に吸い込まれるように、周囲の闇に侵食されるように、純白のかたまりはあっという間に消え失せ、跡には、そこに何か重いものが横たわっていたことをかろうじて知らしめる、折れた草だけが残った。
「へえ」
つぶやくような有里の声に、保坂はどきりとした。
「本当に、消えてなくなるんだ」
それが、以前自分が彼女に伝えた、死というものの説明だと気づくのに数秒を要した。
「……いや。これは、彼がMだからだよ。機密保持のために、活動の停止したMは自動的に消滅するようプログラムされている」
「私も死ぬとこうなるの?」
やや躊躇ってから、保坂はうなずいた。残酷なようだが、こうした現実を一つひとつ受け止めていかなければこの先、生きのびることは出来ないだろうという予感があった。
「そう」とうなずいたきり、また黙り込んでしまった有里の横顔をうかがいながら、保坂は自分が暗澹たる気分に沈んでゆくのが判った。
彼女は生まれたばかりの子供のようなものだ。寄る辺のない、孤独な魂だ。死んだ君嶋の代わりに、自分が面倒を見てやらなければならない。だが――
(僕に出来るだろうか?)
自分は他人より多少科学知識が豊富なだけの、ただの人間にすぎない。戦闘では役立たずだし、社会的地位も経済力もない。はっきり言って、足手まとい以外の何物でもないではないか。
顔をうつむけ、奥歯を噛み締めると、苦い感触が広がった。
「ホサカ、ちょっと来て」
ふいに手を引かれ、保坂は思わず声をあげそうになった。何事かと問い質すのも無視され、混乱する頭をもてあましているうちに、川辺に到着した。
「なんだい、有里?」
「私とダテとの会話は聞いていたでしょう」
ああ、と肯こうとしたところでいきなり肩を押され、保坂は派手な飛沫をあげつつ、背中から水中に落下した。
「ぶあっ――はァッ……! な、何を――ッ!」
ひとしきりもがいてから、その場所の深さが膝程度しかないことに気づく。
「全身濡れたわね。じゃあ、あがって」
「は、はあ?」
保坂はかろうじてそれだけ言った。というより、文句を言おうにも歯の根が合わずうまくいかなかったのだ。
「ホサカにも糸がつけられてるんじゃないかと思って」
保坂を岸にひっぱり上げた後、有里は彼の周りを回りながら上から下まで眺めた。糸――土田という、もう一体のMの能力のことか。
「ふむ。大丈夫みたいね」
なるほど、伊達も言っていたが、ぱっと見ただけではわからないほど細い糸でも、濡れた状態なら簡単に視認できる。しかし、だからといって――
「いきなり川に落とすことないだろ!」
両手で必死に身体をこすりながら、保坂は怒鳴った。
「風邪をひいて、こじらせて肺炎にでもなったらどうするんだ!」
「それは困るわね」
さも、今それに気づいたというような顔で有里は言った。しかも、まったく悪びれたようすがない。
保坂はがっくりと肩を落とし、夜風の冷たさをしみじみと感じた。
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