第六章 記憶(メモリーズ)

記憶 1

 その瞬間、痛みは感じなかった。

 これは、無用の苦しみを与えないための配慮か?

 先刻見たと思った慈愛の表情は、あるいは本物だったのではないかと考える自分に、伊達は苦笑を禁じ得なかった。

(そんなわけ、あるはずねェ……)

 首筋から全身へと痺れが広がってゆく。がくんと視界が下がったが、膝が地についているという感覚はなかった。続いて、ゆっくりと身体が仰向けに傾いでゆく。表情を消し、彼を凝視している有里が見えた。

 どうやってこちらの位置を知ったのかという問いを、伊達は呑み下した。闇夜に燐光のように浮かび上がる一対の瞳を見れば、答えは明白だったからだ。彼の目も、有里と同様――いや、たぶんもっと強い光を放っているはずだ。なまじ夜目が利くものだから、彼女の目の光にも気づかなかった。そんな己の迂闊さに、伊達はもう一度苦笑した。

 足音が耳許に近づいてくる。有里が顔の横に膝をおろした。白い貌が覗き込んでくる。

(ヘッ……ほんとに、きれいなツラァしてやがる)

 彼の顔を覗き込んだ白い貌を、伊達は焦点がぶれつつある目でながめた。多少汚れてはいたが、染みも皺もない、整いすぎるほどに整った顔は、どこか作り物めいて見えた。さっきまで浮かべていた微笑を消し、完全な無表情になっているせいかもしれない――そう思っていると、有里はかすかにくちびるの端を持ち上げた。

 彼女の背に黒い翼が見えた気がして、伊達はぞくりとした。

「苦しくはない?」

 澄んだ声が耳朶を打った。

 まだ乾いていない右頬の傷を、しなやかな指がなぞった。つい、と指が横に振られ、鼻梁を越えて左の頬に至る。冷えかけた体液の感触が、指が動いた線の上に感じられた。

「まだ、あまり上手く毒を使える自信がないの。喋るのに支障はないようにしたつもりだけれど……」

「実戦は初めてだもんなァ」

 精一杯の虚勢を張って口許を歪めて見せると、有里はほっとしたように息をついた。伊達の胸に戸惑いが広がっていた。いまや、彼の生殺与奪権を完全に掌握しているこの存在のときおり見せるこうした表情が、まるで、本当に彼女がどこにでもいる当たり前の少女にすぎないような錯覚を起こさせる。自らが置かれている立場や、あるいは自らが作り出した状況を果たして理解しているのかと疑いたくなるが、それでいて、実験動物を見るような目で見下ろされると、背筋が凍るような本物の恐怖を味わうのだ。

(なんなんだ、こいつは……)

 伊達が黙っていると、有里は彼の頬にかるく爪をたてた。

「それじゃあ、教えて貰おうかしら」

「そういや、訊きたいことがあるって言ってたな」

 有里は首を縦に振った。

「嫌だと言ったら?」

「あなたの意思は関係ないわ。ベラドンナ・アルカロイド――私がもっとも扱いに長けた物質の中には、“真実の血清”の材料も含まれているの」

 かつて存在した独裁国家が用いたとされる自白剤の名が、抵抗の気力を萎えさせた。

「わ、わかったよ。だけど、なるべく当たり障りのない質問にしてくれよ」

 伊達の軽口に有里は応えず、「まずは」と前置きした。

「……川辺で何を探していたの? あなたは匂いを頼りに私たちを追ってきたはずだけど、ひょっとして他にも何かが?」

「ああ、糸だ」

「糸――?」

「そうだ。土田ってヤロウの分泌物質から作られた、目を凝らしてやっと見えるような細くて丈夫な糸なんだが、川に入ったのなら、濡れて光ってるのが見えると思ったんでな」

「ツチダ――あの、坊主頭にサングラスの人ね」

 有里はうなずいた。

「どこについてるか、わかる?」

「髪の先とか言ってた気がするけど、たぶんもう切れちまってると思うぜ。いくら丈夫ったって、けっこう派手に立ち回ったからな」

 髪の毛をまとめて言われた辺りを調べながら、「嘘じゃないわね?」と有里は訊ねた。

「ああ……請け合うぜ」

「糸を使うということは、虫のMなのかしら?」

「悪いが、そこまでは知らん。ヤツと組むのは初めてだからな」

 半分は嘘だった。本当は、伊達は土田の正体を知っている。だが、それを明かすということは、味方の戦力――ひいては弱点までも敵に漏らすことにもなりかねない。さすがにそこまで自発的になるのは、彼の矜持が許さなかった。

「まあいいわ」

 もっと追求されるかと思っていたので、伊達は拍子抜けした。敵の能力に関する情報は、彼女の立場からすればかなり重要なはずだが。

「……博士は……本当に亡くなられたの? アキタの部下なら、あの現場にいたのでしょう?」

 予備知識なしで土田を倒す自信があるのかとも思ったが、なるほどそういう事か。ついさっきまで殺し合いをしていた相手に、なんと真摯な目を向ける。

「くく……はは……どうしようもねえ、ガキだな。テメェは」

「何がおかしいの?」

 有里の眉間に険がこもる。

「そんなに君嶋が恋しいか? アイツにとっちゃ、テメェなんか道具にすぎなかったってのによ」

「あなたには関係ないわ!」

 伊達の咽喉に有里の手がのびた。

「やめるんだ、有里!」

 有里の背後で保坂が叫んだ。彼は木から降りた後、すこし離れた場所からようすを見守っていたらしい。彼の声を聞いた瞬間、咽喉をつかんでいた手がびくりと震え、指から力が消えた。

「悪かったよ。そこまで怒るたァな」

「ううん。それで?」

「君嶋は死んだよ。それは間違いねえ」

「……どんなふうに?」

 消え入りそうな声で彼女は言った。

「聞いてどうする。あんたには、どうしたって不愉快な内容だろうが」

「どんなことでもいいの」

 ――まただ。

 無力そうに見える表情が、またしても伊達の虚を突いた。訊問されているのは彼のほうなのに、まるで自分が少女を責めているような気分にさせられる。

「博士の最期のようすを……どんな些細なことでも、わたしにとって不快なことでも構わない。お願い、教えて……博士は何か言い残さなかった? 苦しまずに逝かれたのかしら?」

「わからん。俺が所長室に入った時には、もう君嶋は死体になってた。ただ、苦しみは一瞬だったと思うぜ。というか、ありゃあ痛みを感じるヒマもなかったかもな。……何しろ、物凄い力で捻じ切られたか吹っ飛ばされたかしたみたいに、首がなくなってたからな」

「なに――それ?」

 有里の目がいっぱいに見開かれた。

「どういうこと……? 博士は――博士は、射殺……されたって――」

「ああそうか。そういや、あんたの博士は穐田主任がやったことになってたっけな」

 伊達は低く笑った。

「いいさ。この世への置き土産だ。教えてやるぜ。君嶋は――」

 言いかけた刹那、伊達の脳髄奥深くで、何かが音をたてた。

 とても小さな生き物が、固い卵の殻を食いやぶったかのような――そう認識するのとほぼ同時に、焦熱にも似た痛みが脳天から爪先まで一気に駆け抜けた。全身がおこりにかかったように痙攣し、一度大きくえび反った後、がばっと上体を跳ね上げる。頭蓋の内側を食い荒らされるような感覚に頭を掻きむしり、血を吐くような咆哮をほとばしらせた。

 ――この時にはもう、伊達の意識はどこかに消し飛んでいた。

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