記憶 4

 アスファルトが、月光を反射して闇を裂いていた。

 はっ、はっ、という息遣いが他人のもののように聞こえる。死闘を繰り広げた森は背後に遠ざかり、有里の足でもあと二時間も走れば町に着くはずだった。

 発見されやすくなるという危険はあったが、彼らはあえてそれを冒して普通の道を逃走路に選んだ。追う者と追われる者、両者にとってもっとも重要なのが時間であったからだ。

 ともかくも、町に出て一般人の群れに紛れてしまえば、A.D.A.の追っ手の目をくらませるのも容易になるし、たとえ見つかっても向こうはうかつな手出しが出来ない。穐田たちにすれば、町に着く前になんとしても二人を捕獲あるいは処分したいところだろうが、山や森に潜んでやりすごそうとするのは愚の骨頂だ。もとよりA.D.A.中央研究所からの逃走経路は限られている。隠れて動かずにいれば、それだけ追っ手に時間を与えることになる。つまり、逃げ道を塞ぐ戦力を整える余裕だ。何より、取るものもとりあえず研究所をあとにしてきた二人には、長く一箇所に留まるのに必要な食料がなかった。

「急がないと」

 破れた白衣は捨て、有里は黒のYシャツにスラックスという格好だった。これもやはり、保坂の持ち物を借りて着ている。

「大丈夫か?」

 保坂が心配そうに訊ねた。

 背中に密着する彼から伝わってくる体温、それに鼓動。肉を持ち、血が流れている。彼女が文字通り背負っている、他者の命だ。

 保坂は男性としてはかなり細身だが、それでも縦横ともに有里よりずっと大きい。保坂が最初、有里に背負われることに抵抗を示したのは、自分よりはるかに体格の劣る彼女を気遣ってのことかもしれないと、今頃になって思った。こうして五分と置かずに声をかけ続けているのは、その気持をぬぐいきれないからなのだろうか。大丈夫、といちいち返すのにも疲れたので黙っていると、彼はしつこく同じ言葉を繰り返した。

「舌を噛むわよ」

 苛立ちを伝えるために吐き捨てるように言うと、保坂はしゅんとして大人しくなった。

 ずぶ濡れになった彼の服は、シャツだけはきつく絞っておいたのでほとんど乾いていたが、生地の厚いズボンはそのままだったので、不快な感触が腰から腕にかけて張り付くはめになった。この苛々が収まらない理由の一つはそれだろうと、有里は自分を納得させた。保坂を川に突き落としたのは彼女なのだから、自業自得と言えばそうなのだが……

 もう一つの理由は、これからさしかかる、ある地点ポイントだった。

 彼らが向かう町は、研究所から直線距離にして二十キロほど南下したところにあるが、その途中に二本の道路が交差する場所がある。町へ出るには避けては通れないポイントであり、逆に言えば、そこさえ突破すれば脱走は半ば完遂される。その後も逃げ続けられるかどうかはまた別の問題にしても。

 伊達を倒し、土田の糸も排除して、いったんは追跡を振り切ったものの、そこで待ち伏せされれば一戦交えるのは避けられない。前の戦いで受けた傷はあらかた塞がっていたが、疲労はたまっていたし、何より失った血液の問題が深刻だった。

 人間は、体内を流れる血液の半分を失えば死に至る。小柄な有里の場合、全血量は多く見積もっても三五〇〇ミリグラムといったところだ。あとは単純な算数の問題である――

伊達との戦闘でどの程度の血を流したか、正確なところはわからないが、あれと同じ量の血液を今度の戦闘でも失えば、間違いなく命の危険に晒される。Mの強靭な生命力を考慮に入れるにしても、失血に対して自分の身体がどの程度もつものなのか、正直試したことがないのでなんとも言えない。

 相手がただの人間だけならば、それでも勝機は十分なのだが、あそこにはまず間違いなく土田がいる。彼はおそらく――これは有里のまったくの勘だったが――伊達よりも強い。

「見えたわ」

 短く言って、有里は足を止めた。

 遠目に見える光は穐田たちのものだろう。十字路から外に照明を向けているので人数は判らないが、殺気立った空気は嗅ぎ取ることが出来る。

 そこからは道を外れ、木立に身を隠しながら移動した。

 さて、どうする?

 彼らまでの距離はおよそ百メートル。セキュリティ統括部の装備は軍隊並である。うかつに近づけば機銃掃射を浴びかねない。

「ホサカ、あなたはここに――」

 そう言いかけたところで、有里は頭上に動くものの気配を感じた。

 横に跳ぶ。耳許で空気が裂け、細くて長いものが地面を穿った。振り向いた先には誰もいない。上? 身体をのけぞらせると、鼻先を何かがかすめた。保坂の重みで後方にひっぱられる。たたらを踏んで、片膝をついた。

「ちっ。勘がよろしい」

 聞き覚えのある声がした。見上げると、淡く白い光を背にして、彼がいた。

「土田……!」

 保坂が、食いしばった歯の間からその名を搾り出した。穐田隊のもう一体のMは、いったいどんな方法を使ってか、空中に身体を固定させていた。夜だというのに相変わらず丸いサングラスをかけ、表情から何を考えているのか読み取るのは困難だった。

 危なかった。前方に待ち構える穐田たちに意識を集中しているところを、背後から襲われた。保坂に話しかけるために注意を後ろに向けなかったら、土田の接近に気づかなかったかもしれない。

「どうやって私たちが来たことに気づいたの?」

「そんなもの、一キロ先から判っていましたよ。ここら一帯に張り巡らせた、わたしの感知の網によってね」

「網――?」

「あなたにつけた糸と同様のモノですよ。わたしのコードネームは《バードイーター》……こう言えば、おわかりになりますか?」

「……鳥を捕食できるほどの巨大さからそう呼ばれる、タランチュラの大型種か」

 有里の代わりに保坂が答えた。

「さすがはドクター保坂。博識でいらっしゃる」

 なるほど、クモのMであれば、糸を使うのも道理である。空中に浮いているように見えるのも、糸で身体を吊っているのだろう。感知の網というのは、樹々の間に糸を張り巡らし、それに触れると土田に伝わるという仕掛けか。いわゆるクモの巣状でないのは、タランチュラが巣を張らず、走り回って獲物を捕らえるタイプのクモだからか、それとも単に、発見を恐れてという至極もっともな理由からか――たぶん、両方だろうが。

「鳥どころか、あなたなら人間でも食べられそうね」

 有里がそう言うと、土田の赤いくちびるがきゅっと上がった。

「とんでもないこと。わたしに、名前以上の能力はありはしません」

 ――ただし、

「わたしが食するのは、鳥は鳥でも、A.D.A.という籠から逃げ出そうと足掻く、哀れな小鳥ですがねえ」

 言い終えるや、姿勢をまったく変えぬまま土田が降下し、腕をこちらに向かって振った。

白衣の袖から伸びたのは人間の腕ではなく、黒褐色で剛毛の生えたクモのそれであった。人差し指から小指までが融合して長さ二十センチほどの一本の鋭い鉤爪へと変じ、親指も硬質化して、おぞましい異形の手となっていた。

 胸元をえぐられる寸前に有里は身体をひらいてかわした。「シャアッ」という奇声とともにもう一方の腕が横合いから肉薄したが、それも有里の身体には届かず、数本の金髪を宙に散らした。

 土田の攻撃に迷いがないことに有里は気づいた。敵は、有里もろとも、彼女が背負っている保坂までその爪で刺し貫いてしまっても構わないと思っているようだ。長田所長の秘書の弟――伊達は多少なりとも、その命を尊重するけぶりがあったが、この男にはそれがない。

 彼女の脳裏に、泡となって消えた伊達の姿が蘇った。背筋を冷たいものが走る。

 目の前では、土田がさらなる変貌を遂げていた。

 戦闘用スーツを突き破ってさらに二対の腕が脇腹から生え、より本来のクモに近い姿となる。しかも、各々の腕の長さは普通の人間の倍はあった。

 リーチを活かすため、土田は跳び上がって木に張り付き、有里の手の届かない高さから攻撃してきた。腕の数が三倍になったことで、攻撃は凄まじさを増していた。

有里は踵を返し、道路を目指して走った。土田が追う。バードイーターは樹上性のクモだ。枝から枝へとびうつるその速度は、全力疾走する有里にまったく劣らない。

散弾銃にも似た鉤爪の雨が頭上から降り注いだ。有里は左右にステップしてそれをかわす。

「あうっ」

 保坂が声を上げた。見ると、彼の肩から血がにじんでいた。

「もうちょっとだから――!」

 道路のような平坦な場所に出れば、土田のような立体的な攻撃をしかけてくる相手とは戦いやすくなる。あとは、保坂をどこかに降ろして――

「くぅ」

 鞭で打たれるような音がして、右のアキレス腱――よりやや上に、熱い感触が広がった。あと数歩。たったそれだけの距離なのに、恐ろしく遠く感じる。

 有里は息を飲み込み、痛みをこらえてその数歩を一気に駆け抜けた。

「ホサカ、降りて!」

 返事を待たずに放り出したので、保坂は道路に仰向けにひっくり返って呻いた。腰だか背中だかを打ったらしいが、そんなことに構ってはいられない。

 土田は――? 振り返る。視界いっぱいを影が覆った。状況を把握する前に、アスファルトの上に押し倒される。有里にのしかかった土田が両手を振り上げた。咽喉に――本能的に手をのばし、素手で鉤爪をつかんで止めた。

 押し込もうとする力と押し返す力が拮抗し、一瞬の膠着が生まれる。だが、土田にはさらに四本の腕と鉤爪があった。スポーツカーが翼に似た左右のドアを開くように、それらの腕が振り上げられた。爪の先は、有里の脇腹を指している。

「有里!」

 保坂の絶叫がこだました。

 有里は、押し倒される瞬間に土田との間にねじ込んでいた膝をのばし、土田の腹を蹴り上げた。間一髪、四本の爪は何もない空間で交差した。

「やりますね」

 腹をさすりながら土田が言った。

「さすがは君嶋博士の遺作にして最高傑作と言われるだけのことはある」

 有里は心臓が跳ね上がるのを感じた。嫌いな相手の口からその名を聞くのは、なんとも言えず不快だった。

「おお、怖い目ですね。さすがにここからは、わたしも本気でやらないとまずいかもしれませんね」

 土田は、もったいぶった仕草でサングラスに指をかけた。

 有里と保坂は思わずのけぞった。サングラスの下から、同じような黒くて丸いレンズが現れたからだ。よく見るとそれは、本物のクモとそっくりの、まぶたのない複眼だった。さらに、土田が気合を入れるように一声発すると、頭の両側に三つずつ、黒一色の目が開き、口からは剛毛におおわれた太い牙が二本、伸びた。

 それはもう、人と呼べる姿ではなかった。

 八本の手足、八つの目――蛇蝎と並んで人々の嫌悪の対象に挙げられる、節足動物の怪物がそこにいた。

 保坂が悲鳴を飲み込む音が聞こえた。

 互いに出方をうかがい、有里と土田がにらみ合っていると、まばゆい光が横あいから射した。張りつめた空気が瞬間ゆるみ、土田が対決の邪魔をされたことへの不満を舌打ちで表した。有里は油断なく構えたまま、視線のみを動かしてそちらのようすをうかがった。やって来たのは数台の車輌で、うち二台は有里たちの間を抜けた先で、残りはその手前で停止し、武装した男たちを吐き出した。

 期待していたわけではないが、味方でないのは明らかだった。彼らは、異形と化した土田には、あまり好意的ではないとはいえ、一瞥をくれただけで何も言わず、有里と保坂には銃口を向けて左右から取り囲む陣形を敷いた。最後に車から降りてきた男の顔を見て、有里はまたどきりとした。

「死地ですぞ。わざわざおいでにならずともよろしいのに」

「現場に立たんで何の指揮官か」

 むっつりと答えた穐田は、一度も土田と目を合わせようとせず、有里だけに視線を送っていた。鼓動が高まり、我知らず有里はこぶしを固めた。

「やれやれ。お好きですな」

「ほざくな、化物」

 その声の響きには、嫌悪というだけでは説明しきれない何かがあった。

「これは人のしでかした不始末だ。人の手で収めるのがけじめというものだろう」

 穐田は人差し指を立てた右手を持ち上げた。彼の部下たちが、一斉に銃を構える。

 考えるより先に有里は動いた。保坂を引きずるようにして、ガードレールの向こうに飛び出す。そこはほとんど崖と言ってもいい急な坂だった。

 背後で銃声が響いた。踏みしめるべき地面はなく、二人はもつれ合うように坂から転がり落ちた。

 坂を転がる間、保坂が頭を打たぬよう胸に押しつけるように抱えていたが、身体のサイズが違うので、有里が保坂の顔にしがみついているような格好になっていた。保坂のほうでも有里を庇おうとしているのか、彼女の背中にしっかり腕をまわして放さなかった。

 下に着き、顔を上げると、矢継ぎ早に指示を出す穐田の声が聞こえた。斜面に生えた木から木へと飛び移ってこちらに向かってくる土田の姿も見えた。

「ホサカ、生きてる?」

「……なんとか」

 有里は一つうなずいてから保坂を背負った。

「怪我はない?」

「あちこち痛いけど、たぶん平気だ」

「なら、遠慮なく走るわよ」

 隠れる場所か、戦うのに有利な場所――とにかくそのどちらかを探そうと、有里は決めた。最悪でも距離を稼ぎ、先行して追ってくるであろう土田に不意打ちを食らわせられるような……

 そう考えながら足を動かしていると、前方に大きな建物が見えた。六階建ての鉄筋コンクリート。窓は三分の二が破れ、外装のピンク色のペンキがところどころ剥げている。屋上にあるボロボロの看板を見て、保坂が「ホテル……だったのか」と呟いた。

 ドライブ客をあてこんで建てられたが、他にもっと便利な宿泊施設が出来たか何かして廃れてしまったのだろう、と保坂が推測を語った。

 有里は別に建物の来歴に興味はなかった。重要なのは、屋内ならば隠れる場所に事欠かないということだった。保坂の安全を確保し、自分は物陰に潜んで侵入してきた敵を始末する。デメリットは、敵からすれば二人がここに逃げ込んだと容易に想像できることだ。彼らが中に入ろうとせず、建物ごと爆破しようとすれば厄介だが、それなら爆弾を仕掛けている間に脱出すればよい。後のことはそれから考えよう。

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