悪意 4

 思考が完全に吹き飛んでいた。

 目の前のやせた男が興奮したようすで喋り続けていたが、内容はまったく頭に入ってこなかった。

 響いているのはたった一言――

 彼は死んだよ。

 彼は死んだ――

 彼は――

 死んだ。

 まるで、フィルムに焼きついた像のようにそれは彼女の脳裏に刻まれ、熱を持ち、痛みさえ伴っていた。

 彼とは? 君嶋博士。死とは? 生命活動の停止。消えて、なくなってしまうこと。消える? 誰が? 君嶋博士が。嘘だ。嘘ではない。嘘だ。だって証拠が。こいつが言った。私は見ていない。お前も感じたはずだ。何を? 不安を。恐怖を。闇を。喪失を――

 ――嘘だ。

「うそ……」

「本当だ。君嶋クンはぼくに銃を向け、駆けつけた警備員に射殺された。ほら、そこの穐田クンたちだよ」

 長田の変わらぬ口調が、有里の心を特別観察室に引き戻した。彼は、親指で一人の男を指差していた。有里をここまで連れてきた濃緑のスーツの男だ。

 有里は視線を動かしたが、穐田と呼ばれたその男はまったく表情を変えなかった。彼は有里を見さえしなかった。何故、そんなことを。自分にとってすべてに等しい存在を。

 君嶋が射殺された理由さえ、今の彼女にはどうでもよかった。ただ、胸にあいた空白が重く、彼女の理性に蓋をしてしまっていた。

「どういう理由で君嶋クンがそんな凶行に及んだのかは調査中だ。復讐――いや、本当はもっと別の理由があったのかもわからないが、それも謎のまま終わるかも知れない。天才の考えることは常人とまるで違うからね。まあ、ぼくも天才だが、彼とは違うタイプだし。結局、人の考えは本人にしか理解できないということなのかも知れないねえ……」

 埒もない長田のお喋りはまだまだ続きそうだったが、有里はすぐに耳を傾ける気を失った――というより、とてもそんな気分にはなれなかった。

(君島博士……)

 有里は胸中で、彼女を生み出した男の名を呼んだ。

(博士……!)

 ぎゅっと目をつぶる。

(うそ……嘘ですよね? これは、たちの悪い冗談……私、わかっています、博士。どこかに隠れてこのようすをご覧になっているのですよね? すぐに姿を現して、この男の言っていることはでたらめなのだと、どうか、博士……そう、おっしゃってください……)

 有里は――彼女は、君嶋を通して世界をり、君嶋の声を聴くことで己の姿を視てきたのであった。彼女の世界は君嶋によって創られたのであり、君嶋のいない世界など考えられなかった。

(お願いです……お願いです……)

 有里はうわごとのように繰り返した。

 耳鳴りがした。嘔吐感がこみあげてきた。

 崩壊したのは存在の根幹だった。君嶋を喪うとはそういう事であった。

 心というものがもしあるならば、それは血肉を持っている。

 傷ついてのたうち、身をよじって叫びもする。脈打つ熱さはただただ痛く、芯のところで冷えている。

(……どうかお姿を……お顔を見せてください。そして“有里”と呼んでください。……もう一度……もう一度だけでも……ふれてくれとは申しませんから……)

 くちびるはわななき震え、その隙間から低い嗚咽が漏れた。

「そうだ」

 いつの間にか喋るのをやめていた長田が、何かを思い出して部下たちを振り返った。

「君嶋クンの持っていたメモリスティックには、めぼしい情報は入っていなかった。ひょっとしたら……」

「や……やめて。さわらないで!」

 つかつかと坊主頭と巨漢が歩み寄ってきた。二人がかりで頭を押さえられ、無理やり下を向かされる。抵抗して首を振ったが、人間ばなれした膂力の前には無駄なあがきだった。頭の後ろに痛みを感じた。髪が上へひっぱられているのだ。手術用の薄いゴム手袋をはめた長田が、首の横を押した。

「あれ? おかしいな」

 長田は首をかしげながら、メモリスティックのスロットのあたりを探り始めた。骨ばった指が生き物のようにうなじを這い回る。総毛立つような感覚に、有里は歯をくいしばって耐えた。

からだ」

 妙に納得したような顔で長田が言った。ようやく解放された有里は、荒い息をつきながら長田をにらんだ。

「君嶋博士は何も残さなかったのでしょうか?」

「そんなハズはないよ。じゃないと、この子が路頭に迷うだろう」

 有里にはわけのわからないやりとりをしながらも、長田は視線を彼女の上に漂わせ続けていた。

 やがて、ゆらゆらと揺れていた焦点が、ぴたりと有里の胸元で止まった。

「ふむ」

 長田の口許に、ぞっとするような笑みがのぼった。

「これか」

 有里の首には、昨晩君嶋にもらったペンダントがかかっていた。その銀の鎖に、長田はひとさし指をひっかけた。

「やめて! それは――」

 有里は我を忘れて叫んだ。頭をおさえつけている手を振り払い、噛み付いて長田に手を引っ込めさせようとした――が、届かない。どうするか一瞬迷った後、長田の顔面めがけて唾を吐きかけた。

 その瞬間、有里の視線を何かがさえぎった。あっと思って一瞥すると、坊主頭の男が、有里と長田の顔の間に右手を差し入れたのだと判った。

「このアマが!」

 怒号とともに、左頬を重くて硬いかたまりが痛打した。反動で柱に後頭部を打ちつけられ、有里は頭蓋骨が軋む音を聞いた。

「ダメだよ伊達クン、顔は。ほらァ、こんなに腫れて、可哀相に」

 有里を殴りつけた巨漢を、長田はとぼけた口調で咎めた。

「すいません、つい。でも、こっち側を向かせてやれば、きれいなもんですぜ」

 伊達と呼ばれた男は有里の髪をつかみ、顔の右側だけが長田の目に入るよう、強引に向きを変えさせた。

「へへ。こうして見ると、ほんとにマブいっスね」

「そりゃあね。でも、パパの顔に唾を吐くなんて悪い子だなあ」

 誰がパパだ、と怒鳴ってやりたかったが、殴られた痛みでうまく喋れなかった。

「まったくです。これが所長のお目にでも入っていたらと思うとぞっとしますよ」

 唾を受けた坊主頭の男の掌が、爛れたように赤くなっていた。有里が特に無害にしようと意識しない限り、彼女の身体から出る汗や体液は、毒素が含まれた状態で分泌または排出されるのだ。

「大丈夫かね、土田クン」

「この程度、何ほどの事も」

 坊主頭の男は土田というらしかった。彼はハンカチで適当にぬぐっただけで、右手をポケットに収めた。

「しかし、所長。これは――」

「うん。これではっきりしたね」

 彼らの視線がまた有里に集中した。

「彼女のマインドコントロールは解けている。これはゆゆしき問題だ。非常に――非常にゆゆしき……」

 長田の指が、またペンダントの鎖にかかった。有里は声をあげようとしたが、伊達に顔をつかまれたので出来なかった。

 鎖が引かれ、着衣の下に入れていた十字架の部分が胸の上をすべる。

(やめ――……)

 顔の両側にくいこんだ指にさらに力が加わり、有里の声を封じた。

(それは、博士の……博士……!)

 有里はあがいたが、彼女を柱に縛りつけているベルトはMである彼女の力をもってしても引きちぎることは叶わなかった。もっとも、仮に脱出できたとしても、そこからさらに事態を好転させるのは不可能に近かったろう。

(くそっ……! くそぉ……ッ!)

いっぱいに見開いた目の端から、熱い液体があふれ出した。

「この調べものが終わったら、きみには改めて、より強固なマインドコントロールを施してあげよう。悪い子をきちんと教育しつけしなおすというわけだ」

 引き千切られたペンダントを手の中で弄びながら長田は言った。余裕に満ちたその口ぶりに腹を立てるゆとりすら、有里には残っていなかった。

「その上で、ぼく自らきみを完成させる。ぼく好みの素晴らしいMになってくれることを期待しているよ」

 哄笑を響かせながら、長田は有里に背を向けた。

 部屋を立ち去る男たちの靴音――そして、地上へ通じる唯一の扉が閉まる音を、有里は朦朧とする意識の中で聞いていた。

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