怪物 2
消灯時間の過ぎた廊下に靴音がこだましていた。
一つは大またで走る成人男性のものとはっきり判るが、もう一方は、サンダルを履いた、恐らくは女性のそれとあたりはつけられるものの、正確にすぎるリズムといい、床を蹴るにしては軽すぎる音といい、普通の人間のものとしてはやや不自然だった。むしろ、長距離を駆ける獣と言われたほうがよほどしっくりくる。疾く、すべるような――こちらがまず先行して、すこししたところで男を待つように歩を止める。男はそれについて行こうとするが、体力が追いつかないのか、呼吸の乱れが足取りにも反映されているようすがよく判った。
速度が鈍り、もつれ、たたらを踏んで足を止める。彼がやってきたのを確認して、またもう一方が走り出す。
大した距離を走ってはいないのだが、男のほうはもう息があがっていた。よほど身体を動かすことに不慣れなようだ。
(ちょ……ちょっと待ってくれ……)
低めた声だったが、そうする必要もないぐらいに弱々しく、語尾はかすれてほとんど足音にかき消されていた。
「なによ、情けない」
苛立ちを隠そうともしない、女の声が響いた。
「ぼ……僕は君と違って、強化された肺を持っていないんだ」
冷ややかに細められた有里の目は、問題はそれだけじゃないだろう、と雄弁に語っていた。
保坂の部屋を出た後、二人はいくつかの部屋や倉庫を回って逃走に必要な品々を集め、ナップサックに詰めていった。人目につかぬようあちこち遠回りしたり、場所によっては大急ぎで駆け抜けたりしなければならなかったので、日頃運動不足と不摂生を重ねている保坂にはかなりハードな道程だった。
めぼしい物を一通り揃え終わると、休む間もなく地下駐車場に向かった。そこは、主として研究所員よりも、廃棄物処理や資材・食料を運び込む業者の為の施設であるため、夜ともなれば人の気配は絶える。出入口には数人の警備員が常駐しているものの、有里がいればそれは障害にすらならない。
「大丈夫。眠らせるだけ」
物騒というだけでは足りない有里の能力を危惧した保坂だったが、彼女はそう言って請け合った。
「もしかして――と言うかやっぱり、君のマインドコントロールは解けているのか?」
「どうして?」
「だって、
有里は怪訝な顔をした。
「変よ」
言われて、保坂にも有里の表情が伝染する。有里には、自分がもし周りの人間を傷つければ、簡単に殺せてしまうという自覚があった。それを聞いた保坂は、あごがはずれるくらい驚いた。
「まさか――! それじゃあ、ハナから君の行動には制約なんてなかったとでも言うのか?」
「それは……ないと、思う。“殺せる”と思ったのは単なるシミュレート。実際に行為しようとは考えなかったし――それに、たぶん、行為する段階に踏み込もうとしても、ブレーキがかかったと思うわ。そんな事をしたら博士が困るというのとは別の次元で」
快も不快もない。思考遊戯ですらない。
さらさらと流れるような言葉の羅列に、保坂は肌が粟立つような気がした。
「嫌悪は――なかったのか? 行為自体や、あるいはそんな事を考える自分に」
「不可解ね」
保坂の最後の問いは、Mに対するものとしてはいくぶん的外れと言えた。彼女たちは、ヒトの倫理とは別の位相に生きている。何故なら、Mとはヒトのための道具だからだ。いずれ有里も、保坂の問いの意味を理解する日がくるかのかもしれない。だが、それは彼女が道具から何かへと変わることを意味するものではない。
「だけど……そうか。先生が所長との対決に有里を使おうとしていたのなら、そういうことも有り得るんだな。結局のところ、ちゃんとマインドコントロールがかかっているかどうかなんて、行動を観察して判断を下すしかないんだ。脳波を見るだけじゃ、せいぜいが、対象が興奮しているか落ち着いているかとか、外部からの刺激に反応しているかといった事ぐらいしか判らない」
これも、君嶋が長田との対決のために用意していた布石の一つなのだろうか?
推測だが、有里が研究所員を殺す場面を想像できたという点に関しては、おそらく結果としてそうなったという事にすぎない。通常、Mに施されるマインドコントロールは、運用の性質上非常に強固で、簡単に解除できる代物ではない。無理に解除しようとすれば精神崩壊を起こす危険もある。そうした手間を回避する必要のあった君嶋が、容易に解けるマインドコントロールを有里に施したとするならば、そのために思考のフレームもゆるくなっていたという事も考えられる。
君嶋の行動については、有里も思うところがあるようだったが、彼女は沈黙を守っていた。もっとも、一刻も早く研究所から立ち去らなければならないこの状況では、そんな事を悠長に話しているわけにもいかなかった。
ごとりと音がして、保坂に思考の中断を促した。
隠れていた柱の陰から首をのばすと、警備員の詰め所から有里が出てくるところだった。
「三人」
訊かれもしないのに彼女は報告した。瞬きする間の出来事だった。ドアの向こうでは、三人の男が大いびきをかいて眠りこけているのだろう。こんな華奢な少女が、自分とはあまりにかけ離れた力を持っているという事実に、保坂は今更ながら戦慄していた。
「……行くわよ」
不安を見透かされているような気がしたが、有里が何も言わないので、保坂もあえて訊ねようとはしなかった。
ふいに有里が立ち止まった。じっと立ち尽くしたまま、闇の中に目をこらしている。声をかけようとして、保坂は息をのんだ。有里の視線の先に、白い人影が現れていた。
「やっぱり、ここに来たわね」
それが研究所員の着る白衣だと気づくのに数秒かかった。相手の発した声が、保坂にとっては思いがけない人物のものだったせいもあるだろう。
「マユコ」
そう呼んだ、有里の声は、憂いに似た響きを帯びていた
「中央塔がなんだか騒がしかったけど、犯人はあなたなの? 水原が血相を変えていたわ」
瀬田は有里に向かって訊ねた。中央塔に連れ去られたはずの有里がこんな場所にいるというのに、彼女は意外とも思っていないらしかった。
「まさか、僕らを止めに――」
そう言った瞬間、保坂は傍らで空気がすっと冷えたような気がした。目だけを動かして横を見ると、有里が表情を険しくしていた。
(まずい)
今の彼女は、成り行き次第では瀬田を殺しかねない。彼女の行動を制限する枷はすでにないのだ。万が一の場合は身体を張ってでも有里を止めなければならないが、出来ればそんな事態には陥らないでくれと、保坂は神や仏に手当たり次第に祈った。
「止める? 何のことかしら。もしかして、ここから逃げようって言うの?」
「そ、それは……」
「さっき、穐田さんたちがこっちに来たのよ。なんか、ついさっきまであそこのシステムがダウンしてたそうじゃない? 例によって、詳しいことは何も話してくれなかったんだけど、なーんかピンときちゃって」
くすくすという忍び笑いが、かたく結ばれていた緊張の糸をほんの少しだけほぐした。だがすぐに、長いため息がその場の雰囲気を微妙にする。
「でも……正直、こんな勘は当たって欲しくなかったな。開発中のMが、研究員と一緒に研究所から逃げ出すなんて、前代未聞の不祥事だもの」
「すみません」
「ばか。謝るくらいなら最初からこんなことしないでよ」
まっすぐに保坂を見た瀬田の目は、真剣さの裏側にガラス細工のような脆さを隠していた。今にも砕け散りそうな光が、前に進まねばならないはずの両足をこわばらせた。
「ねえ、有里」
視線が同行者に移ったことで、保坂は内心で情けないと思いつつもほっとした。瀬田にあんな目を向け続けられるのは、正直神経にこたえる。
「保坂くんの白衣を借りたのね。意外と似合ってるじゃない」
「ちょ、ちょっと――瀬田さん!」
無造作に有里に近づいた瀬田を見て、保坂は声を裏返らせた。瀬田はうるさそうに眉をひそめた。
「わかってるわよ。マインドコントロールが解けてるから危ないって言うんでしょう?」
「な、なんで――」
「ちょっと考えればわかるわよ。MがA.D.A.の研究所から逃げ出そうっていうんだもの」
言われてみれば道理である。保坂は、すぐにその事に気づけなかった己の間抜けさ加減に呆れた。
「でも、大丈夫よ。有里は、私を攻撃したりしない――そうよね?」
瀬田が首を傾げるようにして訊ねると、有里はすこし考えてからうなずいた。そういえば、瀬田は有里を可愛がっていたし、有里も瀬田に好意を抱いていた。
二人の身長は、瀬田がわずかに高いだけでそう変わらなかった。この数ヶ月で、急激に有里が追いついたのだ。こうして見ると歳の近い姉妹のようだと、保坂はなんとなく思った。
「ペンダント、つけてないわね」
瀬田が胸元に手をのばすと、有里は身を固くした。
「先生にもらったのよね? 最後に会った時はつけてたはずだけど」
「気づいてたの?」
ふれる直前で手を止めたまま、瀬田は意外そうな顔をする少女にうなずいて見せた。
「奪られたわ」
「そう……形見のつもりだったのかも知れないのにね」
語尾が震え、瀬田は顔を伏せた。保坂には、彼女が息を詰めているのが判った。
「瀬田さん……?」
呼びかけると、彼女はいやいやをするように首を振った。その頬が濡れているのに気づき、保坂ははっとした。瀬田は君嶋が死んだという話を知らない。それなのに、何故形見などと言ったのか。
「やっぱり……先生は亡くなったのね?」
「ち、ちがう……」
有里は青ざめて言った。
「博士が死んだなんて、オサダが言ってただけ。博士は死んでなんかいない。だって、死ぬっていうのは消えて失くなる事なんでしょう? 博士は、消えてなんかない……」
「先生が無事なら、あなたがこうして脱走しようとするはずがないわ。そもそも、こんなわけの判らない状況だって起こりえない――ちがう?」
「………」
有里はうつむいた。金色の髪が横顔にかかって、保坂の側からは彼女の表情が見えなくなった。にぎりしめた拳が白さを増していた。保坂が声をかけようかと迷っていると、瀬田がこちらを向いて彼の名を呼んだ。
「どうするの、保坂くん」
「何がですか?」
「このまま、本当に行くつもり? 逃げれば追っ手がかかるわ。捕まればたぶん……殺される。今ならまだ間に合うわ。逃げようとしたのはあなたの意思じゃないと言い訳も立つ」
「でも、それじゃあ彼女はどうなるんです?」
「処分はされないと思うわ。こう言っては何だけど、Mは貴重だから――」
「長田所長は――いや。A.D.A.はすでに、彼女にとって仇なんです。そんな連中に、彼女を委ねることは出来ません」
「私からも口添えするわ。有里を、今まで通り私たちで育成させてもらえるように」
「同じことですよ、瀬田さん。第一、そんな甘い要求が通るとでも?」
だったら――瀬田は必死の形相で叫んだ。
「だったら、どうするの? まさか、本当に逃げ切れるつもりなの? 無理だわ。あなたが思っている以上に、いまやA.D.A.の影響力はこの国に浸透している。軍、警察は言うに及ばず、政府特務機関や政財界、裏社会にまでMの活動範囲は広がっているのよ!」
権力を行使する者たちにとって、Mの持つ特殊能力は実に利用価値が高い。A.D.A.の力が大きくなった背景にはそうした事情もある――というより、それが主な要因だった。
「だからといって、彼女をここで放り出すわけにはいきません」
有里はもはや独り――世界にたった独りなのだ。
(僕が、ついていてやらないと……)
「カッコいい事を言うのね」
ぴしりと言った瀬田の声には、せせら笑うような響きがあった。保坂はどきりとして思わず彼女の表情をうかがった。
「目を覚ましなさいよ。安っぽいヒロイズムに酔って人生を棒に振るつもり? それとも、本当にMに惚れちゃったわけ?」
「な――何を言うんですか!」
「わからないの? 行かないでって言ってるのよ。あなたに死んで欲しくないから」
言葉を失って、保坂は思わず後退った。
ここまで心配してくれる瀬田をこのまま振り切って行くならば、それは彼女から受けた恩を仇で返すことにもなる。けれども、A.D.A.は――智慧や長田は、保坂と同じ理想を夢見た君嶋を葬った。ここに残るということは、彼らの目を欺くために自分を偽って生きてゆかねばならないということだ。
行かないでって言ってるのよ。あなたに死んで欲しくないから――
もちろん、死ぬのは怖い。だが……だが……!
「もういい」
肩に掌が置かれるのを感じ、保坂は我に返った。
口を引き結んだ有里がそこにいた。獲物を狙うようにすがめた目を瀬田に向け、彼女は静かに言った。
「もういい、ホサカ。マユコはどうあっても私たちを止めたいらしいわ」
互いに譲れないものがあり、その譲れないもの同士が抵触するならば、相手のそれを排除するしかない。至極単純なその論理。よけいな感傷は彼女にはなく、それ故に迷いも存在しない。
「やめるんだ」
「止めないでホサカ。ただでさえ、時間をかけすぎてる」
たちまち甘い匂いが立ち昇る。それは有里の攻撃意思の発露に他ならない。
「だめだ、有里! 君は瀬田さんが好きだったはずだろ!」
「邪魔をするならマユコも敵よ」
妥協を許さぬその言葉は、瀬田にとっては死刑宣告にも等しい。逃げろと叫ぶつもりで、保坂は瀬田を振り返った。
「本当にいいの? 保坂くん……」
瀬田は、有里など眼中にないかのように、保坂だけを見つめた。涙の跡が乾きかけていた。
「何やってるんですか瀬田さん! はやく――」
「あなたが一緒に行こうとしてるのは、こういう怪物なのよ」
「どいて、ホサカ」
「だめだ!」
保坂は声を張り上げた。隠密裏に研究所から逃げ出すために、なるべく物音を立ててはならないこの状況すら、瞬間、頭から消え去っていた。彼を押しのけようとして、有里は躊躇った。以前のようにうっかり傷つけでもしたら、保坂が死んでしまうと思ったからだろう。その顔に不安の色がよぎるのを、保坂は見た。恐れているのだ。君嶋が姿を消したように、保坂も彼女の前からいなくなるのではないかと……
「お願いです、瀬田さん。僕らを――僕らを、行かせてください」
「どうしてもなの?」
「はい」
迷いはいつの間にか消え去っていた。
行けば殺されると瀬田は言うが、ここに残ったとしても死の危険はつきまとう。ならば、天秤にかけるまでもない。彼が選んだ道は運命に抗う過酷なものとなるだろう。だが、隣には有里がいる。彼女とともに歩む道ならば、そう悪くない。
「……勝手にしなさい」
軽く息を一つつくと、瀬田は脇に退いて道をあけた。
「すみません。ありがとうございます」
「勘違いしないで。力ずくでこられたらどうしようもないから行かせるだけ」
「――はい」
「さ、早く行って。それと、これだけは覚えておいて。ここを去ったら、私たちは敵同士よ」
「わかりました」
保坂は瀬田に頭を下げると、有里の手を引いて駐車場の出口に向かった。瀬田の前を通り過ぎる時、彼女はかたく目をとじてうつむいていた。
月明かりの差し込む四角い出口が青く浮かび上がった。冷たく澄んだ空気が顔に当たる。保坂は一度も後ろを振り返らなかった。けれど、心の中では繰り返し、瀬田に頭を下げていた。
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