怪物 3

 第一研究棟の地下駐車場で穐田らが見たものは、コンクリートの柱にもたれて煙草をふかしている瀬田の姿だった。彼らがやって来るのに気づくと彼女は、あら――と顔を上げ、皮肉っぽくくちびるの端を歪めた。

「遅かったですね」

「何故、あなたがここにいるのです?」

 剣呑な目つきで穐田が訊ねた。

「あなたたちこそ、何故まだこんな所にいるんです?」

 中央塔で起きたトラブルの詳細を既に知っていることを、彼女は隠そうともしなかった。穐田の後ろに控えていた伊達が物騒な意図を抱えた顔で、一歩前に踏み出した。

「待て――」

 静かに、穐田が伊達を制止する。

「という事は、あなたは彼女に会ったのですね?」

「彼女? 彼女たちではなく?」

「どういう事ですか?」

「彼女は一人ではありませんでした。保坂勇気――彼が、有里に同行していました」

「まさか、君嶋博士の協力者だったとでもいうのか」

 君嶋の名を聞いて、瀬田は表情を曇らせたが、それは一瞬のことだった。

「どうでしょうか。無理やり拉致された可能性もあるかと」

「お前が脱走の手引きをしたんじゃないのか?」

 声をあげたのは白衣の男だった。

「水原……さん」

 男の名を呼んだ瀬田の声は、吐き気をこらえるような響きがあった。

「いたんですか」

「ああ。案内役でな」

 セキュリティ統括部の主任である穐田に、そんなものが必要とも思えなかったが、瀬田は黙っていた。穐田を見る水原の目には、露骨な追従の色がある。

(やっぱりコイツ――)

「それより、こちらの質問に答えてもらおうか」

 伊達が唸り声を発するように言った。

「私が脱走の手引きをしたんじゃないかってことですか? とんでもない。むしろ、止めるつもりでしたよ。保坂くんが脱走の首謀者であれば、説得できると思ったんですけどね……どうやら、そうじゃなかったみたいです」

「何故わかる?」

「主導権は明らかに有里が握っているように見えました。それと、彼女はマインド・コントロールが解けているようにも……」

「なるほど。それで二人を黙って行かせたわけですか」

 穐田がうなずいた。「賢明な判断だな」と水原が続けて言った。

 瀬田は、ほとんど事実を話している。明確に虚偽と言えるのは、保坂が本人の意思に反するかたちで有里に同行しているという部分だけだ。他の部分が調べればすぐにわかる事であるのと同様、これもあまりつく必要のない嘘かも知れない。しかし、瀬田の心情としては、なんとか保坂に逃げ道を作っておいてやりたかったのだ。

 穐田が部下に合図を出して歩き出した。駐車場出口に向かう彼の背中を、瀬田は追った。

 外に出ると、道はL字に曲がり、研究所の正門に向かって伸びていた。深い森の中心に建てられたこの研究所と外界を結ぶのは、正門の先にある、ひたすら長くまっすぐな道だけである。

「瀬田さん」

 強い風に煽られて不気味に揺れる森の樹々を睨みながら、穐田は低い声で訊ねた。

「《ベラドンナ》たちは、どこを通って逃げたと思いますか?」

「愚問ですね」

 瀬田はそっけなく言った。

 研究所から外界へ通じる道は一本しかない。しかし、それは通れる場所が他にないということを意味しているわけではいない。

 脱走する立場から考えれば、真っ先に封鎖されるに違いない正門からのルートは、当然第一に選択肢から外すだろう。

 ならば、どこを通る?

 そう。森だ。

 有里に空を飛んだり地下を進んだりする能力がない以上、答えはそれしかない。だが、同時に新たな疑問も発生する。すなわち、二人はどこから森に入ったのか――と。

「森に入るところまで見届けたわけではありませんが、探せば何か痕跡が見つかるかもしれませんよ」

 自分でもまるで信じていないことを、瀬田は口にした。有里にしろ保坂にしろ、追跡者に目印を残してやるほど間抜けでも親切でもあるまい。案の定、水原などは露骨に探るような視線を向けてきたが、穐田はわずかに目を細めただけで何も言わなかった。

 穐田の態度をぶきみに思いつつも、瀬田は動かなかった。痕跡を探すのを手伝うよう求められても、それはセキュリティ統括部の仕事だと返してやるつもりだった。こんな連中に、誰がすすんで協力などするものか。あれほどの覚悟で出て行った二人を思えば、自分に多少の危険が及んでも構わないと腹もくくれた。

 その時、彼女の前に土田が立った。無造作に、彼女と穐田たちとの間に割って入るように、何気ない足取りで。

 夜だというのにサングラスをかけたままで、不都合はないものだろうかと、瀬田は場違いな心配をした。その口許には、笑みとも苛立ちからくるひきつれともつかぬものが浮かんでいた。

「ここはわたしの出番でしょうかね」

 樹々に近づく土田の指先で、何か細いものが光っていた。

標的有里の髪に糸をつけておきました。彼女がこれに気づかない限り、見失うことはありません」

 ――糸? 何故そんなものが?

「へっ。必要ねェな」

 伊達が鼻をひくつかせた。

「ここいらにはまだ、あいつらの匂いがプンプンしてる。特に、あの小娘の甘い匂いは間違いようがねえ」

「匂いですって? 私にはなにも――ま、まさか!」

 ええ、と穐田がうなずいた。

「彼らはMです」

「しかし、A.D.A.はMを造りはしても、戦力として保有は出来ないはずでしょう?」

「お忘れですか? セキュリティ統括部は政府直轄の組織。A.D.A.に課せられている制限は我々には当てはまりません。もっとも、今回は特例中の特例。私もMを指揮下におくのは初めてですよ」

 そう言うと、穐田はなぜか苦い表情を浮かべた。

「瀬田さん」

「は、はい」

「まずはお詫びを。君嶋研究室あなたがたが手塩にかけて育てたMを、場合によっては破壊しなければならないかもしれません」

「破壊って、そんな……」

「伊達!」

 穐田は大男を振り返り、大声で名を呼んだ。

「追えるか?」

「はい。森の中じゃあ、俺の方が速く動けます。しかも、お荷物一人かかえてるんじゃあ、絶対に逃げられません」

「よし。先行して足止めしろ」

「やれたらやっても構いませんか?」

「許可する」

「ありがてえ。土田ァ。言っておくが、テメェの分は残しちゃやれんぞ」

 土田は肩をすくめた。

 にやりと下卑た笑みを浮かべた伊達は、何を思ったかいきなり白衣とシャツを脱ぎ捨ててたくましい上半身を露わにした。あっけに取られている瀬田の目の前で、伊達が変貌していた。

 彼女には、男の身体が二倍ほどの大きさに膨れ上がったように見えた。

 元々たくましかった肉体の上にさらに甲冑を着込んだような、まさしく鋼の肉体――それはオレンジ色の毛に覆われ、黒い特徴的な縞模様があった。耳は頭の両側から頭頂部近くに移動し、鼻と口がやや前方に突き出る。くちびるの端からは、大きくなりすぎた犬歯がのぞいていた。

 彼は、夜空に向かって一声咆哮すると、ぐっと身を縮めて地を蹴った。

 砲弾が撃ち込まれたように樹々が揺れる。

 瀬田はぽかんと口をあけたまま、伊達の消えた森を見つめた。

 月明かりに黒い輪郭をくっきりと浮かび上がらせて、森は不気味な沈黙を守っていた。

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