記憶 5

 入口のドアは蝶番から外れかけており、破る手間はかからなかった。誰かが先に来て潜んでいるとも思えなかったが、いちおう中を伺ってから足を踏み入れる。

 どれほどの時間打ち捨てられていたのだろうか。どこもかしこもボロボロで、壁や天井はところどころ抜けている。床には埃と剥がれた建材が雪のように降り積もっていた。

「地下室はないみたいだな」

 エレベーターは当然使えず、階段で上に行こうとすると、保坂は彼女を押しのけて先に立った。

「僕のほうが重いから。危ない場所を見つけやすいだろ」

 そういうものかと納得して、有里は彼の後をついて行くことにした。

 戦闘訓練を積んでいる有里の目から見ると、保坂の足取りは危なっかしい。いつ床を踏み抜くかとハラハラしながら、彼といるとこの先もこういう気苦労が絶えないのだろうと、ちらりと思った。

(面倒だわ……)

 ――でも。

 彼がいなくなるのは寂しい。そんなことになったら、きっと不安でたまらないだろう。

 彼女は外の世界のことを何も知らない。睡眠学習で得た知識と現実との溝を埋めるのは一朝一夕にはいかないと、これまでの短い経験でもそれなりに悟った。導いてくれる者が必要なのだ。しかし、彼女が保坂を失いたくないと思う理由はどうもそれだけではなさそうだ。

 有里は手を伸ばし、保坂のシャツの裾をつかんだ。振り返った保坂は、驚いたように彼女を見た。

「どうしたの?」

「ホサカ……」

 裾をつかんだこぶしが小刻みに震えていた。保坂にも伝わってしまったと有里は思った。案の定、保坂は心配そうに有里の顔をのぞきこんできた。

「聞いてくれる?」

「うん?」

 うなずいたようにも、ただ単によく聞こえなかったので問い返しただけのようにも見えたが、有里はかまわず続けた。

「…………かった」

「え?」

「……こわかったの」

「怖かったって、何が?」

 有里は保坂の目を見返した。優しい目だ、と思う。気丈さとか頼り甲斐といった言葉とは程遠いが、まっすぐに彼女を見てくれる。

「…………死――」

「し?」

「……消えてなくなるって、保坂は言った。死ぬってことは、消えてなくなることだって……さっき、土田に襲われた時、初めて思った……私が、殺した――ダテと同じように」

 保坂は、彼女の震えを止めようとするかのように、肩に手を置き力を込めた。

「おかしいかな……おかしいよね、こんな……」

「いいや」

 保坂は首を振った。

「ちっともおかしくなんかない。死を恐れるのは、生物なら当然のことだ」

「ちがうの」

 保坂は首を傾げた。

 彼は、M=兵器が死の恐怖に脅えるのはおかしいと、有里が言っているのだと思っている。それは違う。恐怖は、危険を察知する能力の高度化したものだ。Mは恐怖を感じないのではない。コントロール出来るだけだということを、彼女はちゃんと知っている。そして、そのことと死の恐怖とはまた別の問題だ。彼女は戦って死ぬのが怖いのではなかった。怖いのは……

「私は……ホサカ、あなたが……殺されるんじゃないかと思って」

 相手が驚いているのがわかった。予想していなかった答えなのだろう。以前医務室で、心配していたことを伝えた時の、彼の困惑顔が浮かんだ。

「博士の……遺言」

 保坂の指がぴくりと動いた。ああ、今――自分は残酷なことを言おうとしている。

「博士は最後に、あなたを助けてやってくれとおっしゃったわ。だから、あなたを守っている限り、博士の残してくれた言葉に従っている限り、私は博士と繋がっていられる……」

 つまり、有里が保坂を守るのは、彼のためではないのだ。

「わかってるよ、そんなことは」

 保坂は穏やかに言った。ほっとしたような、少し寂しそうな声で。彼は何かを期待していたのだろうか、自分の言葉に。

 ――でも、違う。

 これもまた、彼女が言いたいことのすべてではない。

 君嶋博士が死んだと聞かされた後、有里を支えていたものは彼への想いであった。彼女が博士を忘れない限り、本当の意味で博士は死んだことにはならないのだ。まるで理屈に合わないと自分でも思うが、心のどこかでそう信じている。だが――もし、自分が死んだら、君嶋博士と過ごした記憶や、彼女の博士への想い――そうしたものはどこへ行ってしまうのだろう?

 人が死んでも想いは残る。その人を、覚えている者が生きている限り。有里が恐れるのは、死でなく、想いが消えることであった。

(だからきっと、ホサカにも――)

 保坂は博士を知り、有里を知る数少ない人間の一人だ。彼が生きてそばにいることは、有里にとっても意味のないことではない。

 けれども、それを伝えようとすると、言葉に詰まる。まだ何かが足りない。保坂を死なせたくない、その理由――どうすればこの胸の内を、保坂に理解してもらえるだろう。

「わかってる。僕だって、きみと来たのは、きみの手助けをしたいからというだけじゃない。僕には僕なりの正義があり、それに従ったからなんだ。だから、きみが申し訳なく思う必要なんかない」

 大真面目に言う保坂を見て、有里はなんだか泣きたくなった。この男は本気で言っている。それも彼女の意を汲んだつもりになって、そうするのが善いことだと信じて。

(馬鹿だ)

 どうしようもなく。保坂も、彼に大事なことを伝えられずにいる自分も。

「ホサカ」

 保坂は、なんだい?という顔をする。有里は一つ息を吸い、下腹に力をためてまなじりを決した。

「あなたは殺させない」

「有里、もういい」

「聞いて」

 声にかすかな苛立ちをにじませた保坂を、有里はさえぎった。ぐっとあごを上げ、彼女のほうから、保坂をまっすぐに見据える。

「もしこの先、どうしようもないくらいに追い詰められて、あなたを守り切れなくなるような状況になったら――その時は……私が、あなたを……あいつらに殺させるくらいなら……」

 そこで有里は一瞬言葉を切った。

「そうすれば、あなたという人間を忘れないでいられるって、思うの」

「なっ――」

 保坂はぎょっとしたように身をこわばらせた。

 やはり、脅えさせてしまったのだろうか。前言を撤回する誘惑に駆られたが、有里はじっと相手の答えを待った。

 一秒……二秒……自身の鼓動以外にすべての音は消え失せ、過ぎる時が重く感じられた。

 やがて、丸い眼鏡の奥の、優しいけれど小動物のようにどこかおどおどした目――それが、ゆっくりと笑みのかたちに変わる。

「そうか。いいよ、それで」

 肩の力が抜け、有里の胸は安堵に満たされた。死の女神である彼女が、彼にしてやれる唯一つのこと。歪ではあるが、偽りのない言葉。それを、認めてもらえたのだ。

「でも、痛いのはイヤだよ」

 冗談めかしたように保坂は言った。有里もつられて笑う。

「わかった。私に出来る限り、すみやかで、安らかな――そんな方法で」

「ああ。ありがとう」

「うん……私こそ」

 有里が自分からも礼を言おうとすると、保坂が手を差し出してきた。戸惑っているうちにこちらの手を取られ、ぎゅっと握られた。

「手が荒れるわ」

「構わない」

 君嶋博士のようなことを言って、保坂はまた笑った。

 言い損ねてしまった、と有里は思った。まあいい。この場を乗り切りさえすれば、いくらでも機会はあるのだから。

 有里の耳は、ホテルの周りに集まる敵の足音をとらえていた。

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