黙劇 7
「例のものが用意できました」
「ごくろうさま」
長田光は、革張りの椅子を回転させて、保坂智慧に向き直った。彼女が机の上に置いたのは、端をクリップで留めた報告書の束だった。
「彼はうまくやってくれたようだねえ」
「ああいう人間は一番動かしやすいものです」
「あちらの方も順調?」
ディスクを手にしながら、長田は上目遣いに智慧を見た。
「はい」
「しかし、智慧クンも怖い
「ご冗談を」
長田の揶揄を、智慧は無表情に受け流した。
「あとは、彼がちゃんと動いてくれるかどうかだけど……大丈夫だよね?」
「ご心配なく。あの方はきちんと物事が見える人ですから」
「こちらの動きにも気づいている、か」
「はい」
それは重畳、とつぶやいて、長田は椅子の上にふんぞりかえった。
「楽しみだねえ。うん、楽しみだ」
悦に入った、顔の端からこぼれ落ちそうなほどの笑みを、長田は浮かべた。腹がひきつったように動き、それに合わせてかん高い声が唇から漏れた。
そのようすを、智慧は見るともなしにみつめていた。
その日予定されていた実験と訓練は無事終了した。
汚れた身体を洗浄し、新しい検査着に着替え、拘束衣をつけた後、アトリエに戻る。中央塔と実験棟をつなぐ廊下の窓から見える景色は、とうに夜の闇に沈んでいた。
アトリエ内は相変わらず静かだった。ドーム型の空間に、研究員たちが黙々と作業をする音だけが響く。有里用のカプセルの蓋があき、彼女はその中に横たわった。
カプセルの中で眠りにつく時は、拘束衣を外してもらえる。睡眠時には身体をリラックスさせたほうが良いからという、至極単純な理由からだったが、そのために物騒極まりない能力を持つ自分を、わずかの時間とはいえ解放するのは大変なリスクなのではないかと思わぬでもない。
腰の前で交差した状態で固定されていた腕が自由になる。ほら、いま、ちょっと腕を上げて、身体のどこでもいいからひっかいてやれば、それだけでこの人は死んでしまう。速く走れぬよう両の足首を結んでいた丈夫なベルトが外される。ほら、いま、勢いよく足を蹴り上げれば、あの人の首は簡単にへし折れてしまう。
人間とはもろい生物だ。彼女たちMに比べれば、はるかに。有里には、この場にいる全員を瞬きする間に殲滅することも可能だ。可能だが、やらないだけだ――出来ないのではなく。
こんなことを彼女が考えているとは、彼らは夢にも思うまい。博士にだけは一度話したことがあったが、他の人間には絶対に言わぬよう厳しく注意された。「怖がらせるからな」というのがその理由だった。
もっとも、彼女とて積極的に人間を殺したいわけではない。むしろ人間は好きだ。
(だって、博士も人間だもの)
いつの間にか、アトリエ内は有里と君嶋博士、二人きりになっていた。いや、正確には別のカプセルや奥にならんでいる人工子宮の中には有里の兄弟たちがいるのだが、起きて動いているという意味では、間違いなくこの二人だけであった。
「話をするか」
約束だったからな、と博士は言った。
有里はうなずいて、身を起こし、カプセルの辺縁から両足をおろした。最初に目覚めた頃とはちがい、今では床に足が届く。相変わらず、独特の生温さのある床だった。
博士が有里の背後に回り、彼女の髪をかきあげた。
「いけません。素手で私に触れては危険です」
「構わん。髪に毒腺があるわけではない」
「ですが」
「多少腫れる程度だ。問題ない」
「………」
そのあとも博士は二度、三度と髪をもちあげ、手櫛で梳いた。何かをたしかめるような指の動きを感じるうちに、有里の胸に熱いものがわきあがっていった。
「いい長さになった。ちょうど、傷が隠れる」
「傷? 首の後ろのスロットのことですか?」
「ああ。こうしておけば、いずれきれいにはなるが」
言いながら、博士は有里の首筋を押した。カシュン、という音。二本のメモリスティックが抜き取られた。
有里は驚いた。
「あの……」
ふりむこうとしたが、あごにあてられた博士の指がそうさせなかった。
「実を言うとな、お前はもう完成しているのだ」
――だから、これももう必要ない。
頭の芯がしびれた。今、なんと? 完成している……? それは本当か? もしそうなら、ここを出て行かなくてはならない。博士と別れなければ、ならない。
「そんな……まだ、心の準備が」
ふっ、と吐息の漏れる音がした。大きな掌で、ぽんぽんと頭をたたかれた。
メモリスティックがスロットに戻された。有里はほっと息をついた。
「おふざけにならないで下さい」
「悪かった。お詫びにこれをやろう」
そう言って、博士は有里の首に何かをかけた。胸元でそれは銀色に光った。手に取って、有里はまた驚いた。博士のペンダントだった。銀製の十字架――ただの十字架ではなく、ケルト十字のように、草が絡まりあった精緻な装飾が施されている。
「どうして――」
「有里」
問いを封じるその言葉。これまで何度となく呼ばれた己の名。低く、深い、その声で。
「有里……」
博士は繰り返す。返事をするのを、有里はためらった。返事をして、その先に続く言葉を引き出すのが怖い気がした。それよりも、博士の声の響きに、その余韻に、じっと耳を傾けているほうがよかった。
「すまなかったな」
有里ははっと顔を上げた。同じ単語でも、さっきとは明らかに響きがちがっていた。
「今までお前には、つらい目ばかり見させてきた」
「何を――今度は何の冗談ですか?」
有里は弱々しく訊き返した。
彼女を造り、育ててきた、絶対者の口から発せられた唐突な科白。ありえない。神が被造物に懺悔など。
「すまない」
また――
口をひらきかけ、とじた。下唇を痛いほどかみ締める。
「聞くんだ、有里」
抑えた声で博士は命じた。
――はい。もちろんです。ですから、博士。どうかお顔を見せてください。
「私に何かあっても、決して誰も恨んではいけない」
「………」
「それから……そうだ、保坂のことだが。出来たら、彼を助けてやってくれ」
有里は首を傾げた。何故ここでホサカの名が出てくるのか? だが、疑問なら他にいくらでもある。すこし考えてから、有里はこくりとうなずいた。
「最後に。私を許してくれとは言わぬ。だが、これから私がすることを……お前に……」
――また、冗談。許すも許さないも、そんなこと。考えるまでもないです博士。
彼女は笑おうとした。そして、笑顔が作れないことに気づいた。
次の瞬間、首のうしろで何かが炸裂した。脳髄を鉄球が突き抜けたかのような衝撃。かはっという音とともに、空気がのどから吐き出される。次の瞬間、床が目の前にあり、有里は何歩かたたらを踏んだ。
「な……を……博士……」
よろめきながら、有里は博士を振り返った。視界は雨の日の景色のように霞んでいた。耳鳴りと頭痛。どちらが上でどちらが下か。自分がちゃんと立っているのかどうかすら覚束ない。意識を失いかけているのだと気づいた有里は、必死でそれに抗った。しかし、圧倒的な力で押し寄せる黒い波はあっけなく彼女を押し流した。
得体の知れぬ存在に足首を掴まれ、水底へ引き込まれるような恐怖があり、それは奇妙な安らかさを伴っていた。有里は愛しい者の名を呼んだ。あるいは呼んだと思った。意識の途切れる最後の瞬間まで、その人物は、長い苦悩によって刻まれた皺に深い哀しみを湛えながら、彼女を見つめていた。
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