狂気 2

「起きるんだ」

 聞きなれた声が、一日の始まりを告げた。

『アトリエ』の一角に置かれたカプセル型のベッドの上で、有里は身を起こした。

「おはようございます、博士」

「うむ」

「おはよう、ホサカ」

 君嶋博士の横でメモを取っている丸眼鏡の男にも、有里は声をかけた。

 新しく来た博士の助手で、このところ毎日顔を合わせている。にこりと笑いかけるが無視された。初対面の時には優しい人なのかと思ったのだが、二度目に会ってからはずっとこんな調子だ。隣にいる瀬田まゆ子に同じように笑いかけると、こちらはにっこりと微笑み返してきた。やはり、こういう反応の方が嬉しい。

足許を見ると、検査着がまた短くなっていた。彼女たちMは、人間の数倍の速度で成長する。成人の段階に達するといったん成長が止まり、そこからは個体によってかなりの差は出るものの、おおむね緩やかに歳を取ってゆく。

 といっても、Mの寿命は人間よりずっと短い。平均で十年、理論上もっとも長くても二十年程度だという。うち、人工子宮内ですごす期間が二~三年ある。老人型のMというのも存在するが、それは歳を取ってそうなったのではなく、特定の目的があって外見を造ってあるにすぎない。有里のような若者の姿をしたMの場合、見かけ上は若いまま、寿命がくれば老衰して死を迎えることになる。

 もっとも、それが短いという実感は、有里にはない。彼女が外の世界を認識するようになって――つまり、人工子宮から出たのが、ほんの数ヶ月前だからということもあるだろう。彼女にとっての人生とは、まだその数か月分しかないのだから。むしろ、十年という数字は、彼女には眩暈を覚えるほど長く思えた。

「体機能、情緒ともすこぶる良好です。予定通り、本日から薬物投与実験を始められます」

「そうか」

 痩せぎすの助手の報告を聞きながら、君嶋博士は有里の身体をチェックしていった。検査着の左袖がまくられ、腕にちくりと痛みが走った。むっつりとした顔で採血を済ませた博士は、痛みが走った箇所をガーゼでぬぐった。一呼吸する間に、注射針の痕はきれいに消えた。

 次に、博士は有里の髪を輪ゴムで左右に束ねた。何をされるかわかっている有里は、指示される前にあごをひいてうつむく。首の両側を、博士が指で軽く押した。すると、カシュン、という音がして、有里のうなじに差し込まれていた二本の異物がとびだした。

 黒い、単三電池のような形状のそれは、Mが任務を遂行するために必要な知識がつまったメモリスティックである。開発段階に行われる種々の実験データを採取する役割もあり、それをこうして毎回差し替えるのが決まりとなっていた。

「行くか」

 新しいメモリスティックを挿入し終えて、君嶋博士が言った。

 博士の差し出した手を取る瞬間はいつも緊張する。大きく、ごつごつした感触を手のひらに感じながらベッドから降りる。ぺたりと足の裏が床にふれた。

ドーム型をしたアトリエ内はいつもひんやりとした空気に満たされているが、固い床には奇妙な生温かさがあった。Mの工房であるこの場所には、見渡せば、有里が入っていたのと同じカプセルと同じものがいくつも横たわり、青白い幽かな照明の下に整然とした列を作っている。開発中のMだけでなく、任務で傷ついたMがときどきここに戻ってきてカプセルに入っていることもあり、しばらくするとまたいなくなる。さらに奥へ行けば、培養液に満たされた、フラスコのような人工子宮も見られるだろう。

 有里たちはエレベーターに乗り込み、地下から地上へと垂直移動する。三階で停止し、扉が開くと、正面には実験棟へと続く廊下がのびている。

 オートロードに乗って運ばれながら、有里は窓に目を向けた。

 そこに映る姿は、人間でいえば十四、五歳だろうか。金色の髪は、前におろせば胸にかかるくらいにまで伸びていた。瀬田などは、事あるごとに彼女の髪をきれいだと言って褒めるが、有里にはそれがよく解らない。きれい――美とはつまり、目で見て快感を覚えるようなものを指すのだろうか。

 穏やかな日差しが廊下を斜めに横切り、窓の外では新緑の森が揺れている。そういえば、初めてここを通ったときは真夜中だった。

 同じ場所なのに、あの時とは景色がまるで違った。あの時見えたものは、月明かりに照らされた建物ののっぺりとした外壁、それから、闇の底で悪魔のように蠢く樹々だった。



 ……最初、有里にはそれが何なのか判らなかった。樹だ、という君嶋の答えに、彼女は戸惑った。彼女の知識――メモリスティックによって学習した情報――では、一部の例外を除き、植物は動くことができないはずだった。疑問を口にすると、あれは風に揺れているのだと瀬田が教えてくれた。有里はまた戸惑う。風――主に大気の対流によって起こる自然現象――何故、唐突にそんなものが出てくる? いや、待て。屋外では、いま、風が吹いているのか? 太陽によって温められた空気が上昇し、上昇した空気は冷却されて下降する。気圧の変化。発生するうねり。おお、そこでは空気がおしよせてくるのか。どのように? それは熱いのか? 冷たいのか?

 有里には想像するしかない。研究所から出たことのない彼女は、肌に風を感じたこともない。樹と――風。体験を伴わぬ知識と知識は容易には結びつかない。

『記録しろ』

 沈思する彼女を前にして、君嶋博士は静かな声で命じた。その瞬間、彼女の困惑は観察データへと還元され、採取されたのだ。

 ともかくも、有里は理解する。木々が揺れるしくみを、論理的に。そして吸収する。いつか外の世界に出たとき、彼女はこの記憶を反復するだろう。そして、肉体に刻まれた感触とともに、ふたたび内へ取り込むのだ。

 そのとき、自分はどんな顔をするだろう? 何を感じ、何を思うだろう?

 有里は博士の顔を見上げた。

『おまえは、とてつもない速度で成長している』

 博士はまっすぐ前を向いたままだった。

『肉体だけではなく、心も。いずれゆっくり話をしよう。おまえの成長を、わたしに教えて欲しい』

『はい』

 もちろん。博士を見上げたままうなずく。こっちを見てくれればいいのにと思ったが、その願いはかなわなかった。



 この日から、中央塔地下での実験が始まる。

 被験体である有里は、頑丈な扉で何重にも仕切られた通路を歩かされ、その途中で洗浄液のプールを通過して身を清めた。部屋の手前には新しい検査着が用意され、それを身につけてから実験室に入る。そこには、白衣の集団が左右に列を作って待ち構えていた。別の入口から入ってきた、君嶋博士とその助手たちだ。

 今回、保坂は君嶋に同行せず、監視室でそのようすをモニタしていた。

画面の向こうで、君嶋が有里に椅子に座るよう指示した。君嶋はペンライトを構え、彼女の目、まぶたの裏、口内と、順に覗き込んだ。

 助手の一人が脇に抱えていたケースを台に置き、ふたを開ける。中には、原色のラベルで色分けされた薬ビンが並んでいた。

『腕を出せ』

 スピーカー越しに君嶋の声が響いた。

「始まるわよ」

 すぐ横で瀬田がささやいた。

 あのケースの中身を、保坂は知っている。

 その一つ一つが、コンマ数グラムで数十人を、ものによっては万単位の人間を殺すことができる猛毒だった。

 それを、これから順番に有里に投与する。

 薬物投与実験とは、有里に自身の「コンセプト」に沿った特性――Mとしての能力を保有させるための作業であった。

個々のMがどのような能力を持つか――当然のことながら、それは開発に着手する前に決定され、個別に与えられる「コードネーム」に反映される。

《ベラドンナ》――それが、有里に与えられたコードネームだった。

“美しき貴婦人”を意味し、毒草として知られるナス科の植物の名である。この植物には散瞳作用があり、中世ヨーロッパの貴婦人たちが、瞳を大きく見せるために絞り汁を用いたことがその名の由来である。

 有里の肉体は毒物を溜め込む。いわば蠱毒の壷のようなものだ。具体的には、本来神経伝達物質のつまっているシナプス小胞の一部と植物系の細胞内に含まれる液胞、分解した物質を再構成することのできる特殊な免疫細胞を利用する。そうやって、種々の毒物を摂取し蓄積してゆくことで、いずれ有里は恐るべき生体兵器となる。

 かすり傷ひとつで、あらゆる生物を殺傷する。

 ベラドンナは学名「アトロパ・ベラドンナ」――アトロパとはギリシア神話に登場する死の女神、アトロポスのことである。



有里はまっすぐに君嶋を見ていた。エメラルドの瞳に脅えの色はない。

生みの親を信じきっているのだ。しかし、今日の実験の内容を知っていればおのずと違った反応を見せただろう。それとも、知ってなお、従順な態度を貫いたであろうか。

君嶋はむき出しになった少女の腕を取り、肘関節から指二本分の位置に、注射器の針をあてた。

『う……』

こもったような呻き声が漏れる。

 注射機内の透明な液体が、少女の血管にそそぎこまれる。

 次の瞬間、有里ははじかれたように全身をつっぱらせ、頭をのけぞらせた。

 がっ。

 それは、あの可憐な少女の咽喉から発せられたとは思えぬ、低く不気味な音だった。

『があっ……ああああ……』

 モニタ画面の向こうで、椅子から転げ落ちた少女は身体を海老のように折り、捻り、のたうちまわっていた。美しかった顔も、眼球が裏返り、いっぱいに開かれた口許からは唾液が糸を引いて、無残なまでに歪んでいた。

 瀬田は渋面をつくりながらそのようすを見守っていた。

 彼女には以前、初めて参加した薬物実験で嘔吐するという苦い経験があった。以降何度も同様の実験を行い、Mへの薬物投与も問題なく行えるようになっていたものの、いまだに胸が悪くなる。それを知っているのか、君嶋も彼女を監視室組に回すことが多い。彼に言わせれば適性の問題なのだという。Mへの薬物投与を嬉々として行う研究員もいるので、瀬田もそれは確かだと思う。全員ではないが、彼らの中にはMが苦しむさまを見て楽しむ者もいた。少なくともそういう連中とは違うのだという自覚は、傷ついた彼女のプライドを少しは慰めてくれた。

 隣に座る保坂を横目で見ると、彼は食い入るように画面をにらんでいた。瀬田は、保坂が取り乱すのではないかと思っていたのだが、その表情からは衝撃を受けているようすも、凄惨なショーを目にした時のような興奮の色もうかがえない。あるのはただ、この実験の過程と結果に対する興味だけであるように見える。

「どうしたんですか、瀬田さん?」

 瀬田の視線に気づいた保坂が言った。

「な、なんでもないわよ」

 慌てて目をそらした瀬田は、あごに手をあてて考え込んだ。

(意外ね)

 保坂は、純粋に有里を研究対象として見ているようだった。つまり彼は、瀬田とも彼女が嫌悪するサディストたちとも違うということだ。その割り切りはある意味で正しい態度だ。薬物実験への嫌悪感を捨てきれない瀬田は素直に感心した。

 ちなみに瀬田のMに対する認識は、国家に求められて作る『製品』であり、同時に研究チーム全員の手による『作品』というものだった。自分たちの作品に愛情が介在することは瀬田にとっては当然といえ、君嶋研出身のMに対する芸術品という評価は最高の褒め言葉であるとさえ思っている。

 薬物実験も、良い作品を作るためには不可欠な作業であり、個人的な感情を差し挟むべきではない。そう考えているからこそ、彼女はこの残酷な実験にも従事できるのだった。

 画面の中で、有里が小さな痙攣を繰り返していた。瀬田は若干の不安を抱きつつ少女を見つめた。しばらくするとその動きがやんだ。しかし、今度はそこからぴくりとも動かない。ゆっくりと君嶋が近づいてゆき、彼女の頭の上にかがみこんだ。

 ――苦しいか?

 かすかに聞こえてきた声は、そう訊ねているようだった。有里に答えはなかったが、首を小さく縦に振ったようにも見えた。

『苦痛はコントロールできる。いいか、お前は観察者だ。己の身体で何が起きているか。常にそのことを冷静に観、把握しろ』

 淡々と命ずる声は、さっきよりもはっきりと聞こえた。

 ――次だ。

 そう言って、君嶋は助手の手から二本目の注射器を受け取った。

 一拍おいて、絶叫が二つの部屋に響きわたった。



 行きは自分の足で実験棟に入った有里だったが、アトリエへの帰り道では搬送機ストレッチャーに横たわっていた。

 数分前まで、最後に投与された溶血毒のせいで赤黒く変色していた肌は、今はもとのなめらかな白さを取り戻し、苦痛も消えて眠りに落ちている。頬にはにじんだ汗のせいで金髪がはりついていた。

(すごいものだな)

 Mはどれも優れた自己修復能力を持っているが、概ね動物タイプより植物タイプの方がその点では勝っている。有里は《ベラドンナ》のコードネームが示す通り、植物の遺伝子を持っている。より多彩な毒物を体内に溜め込むためには、動物細胞だけでは限界があるからである。それが結果として、彼女の驚異的な再生能力に繋がっているのだという。

 むろん、気分のいいものではなかった。まだ耳に残っている。この世のものとは思われない、肺腑を抉るような絶叫。悶え、苦しみ、嘔吐する少女の姿。かきむしった咽喉が、腕が、みるみる赤黒く染まり、破れた傷口から真っ赤な肉がのぞいて――

 悲鳴はときおり小さくなり、これで終わりかと思うと、『次』という冷静な声が響き――そして、絶叫が再開される。

 残酷だとは思う。しかし、それも人類の未来のためには必要な犠牲なのだ。彼女は、ヒトの姿をしていてもヒトではない。それは、人間にとっては致死量に数倍する薬物を立て続けに投与されても生きているという単純な事実からも明らかで、保坂には、むしろその事のほうが重大に思えた。

 規則正しく上下する胸を見ながら、保坂はA.D.A.の技術力の高さに対する驚きの念を新たにした。

 アトリエに戻った。ここの空気にはいまだ慣れない。吸い込む空気は冷たいのに、足許からたちのぼるかすかな暖気が神経に障る。それでいて、照明は眺めているだけで眠気を誘う、玄妙な薄暗さを保っている。

 君嶋みずから有里をストレッチャーから降ろし、保坂もそれを手伝った。ベッドに少女の身体を横たえ、蓋を閉める。丸いガラス越しに見える寝顔は、母の腕に抱かれた赤子のように安らかだった。

 研究員が、一人、また一人とアトリエから立ち去って行くなか、君嶋は、彼の手になる人工生命の横顔を、飽くことなく眺めていた。その口許は、笑みを浮かべたように歪んでいた。

「先生?」

 持ち帰る備品を整理するために残っていた保坂は、不審に思ってその背中に呼びかけた。

「保坂」

 短く、君嶋は言った。

「な、何か?」

「どう思った?」

 質問の意味がつかめず、保坂は困惑した。

「薬物実験に立ち会うのは初めてだったろう」

「は、はい! 素晴らしいと思いました」

 ほう、と君嶋は呟いた。

「素晴らしいとは?」

「有里の持つ、毒の無害化能力を人間に応用すれば、劣悪な環境での活動を可能とし、様々な病の克服にも多大な貢献が期待できるでしょう」

「そうだな。それが出来ればな」

「たしかに、今それを行えば犯罪ですが、いずれ時代は変わります。人類をより優れた種とするべき力を手に入れるための研究――我々が行っているのはそういう仕事なのだと、あらためて感じました」

「なるほど」

 君嶋は静かな声で言った。

 保坂は急に不安になった。思わず熱く語ってしまったが、青臭い奴だと思われはしなかったろうか?

 だが、そもそも、君嶋とても同じ思いを抱いてこの道を選んだのだ。かつて天才と謳われ、学会ですでに確固たる地位を築きながら、長田光の盟友としてM開発の戦列に加わるためにすべてを投げ打った――学生時代の保坂が姉から聞かされ、強烈に憧れた君嶋浩平とは、そういう人間であるはずだった。

「似ているな」

「は?」

 ふいに君嶋が振り返ったので、保坂は問いを発する機会を逸した。飲み込んだ言葉を腹の中に押し戻しながら相手の言葉を待ったが、君嶋の目は彼を見てはいなかった。単に、アトリエから出て行くために向き直っただけなのだと気づいて、保坂は内心狼狽うろたえた。

 声をかけるのを躊躇っている間に、靴音が横を通り過ぎていった。

「あ、あの――」

 出口の手前で、君嶋が足を止めた。

「いつまでここに居るつもりだ。早く仕事に戻らんか!」

「は、はい!」

 叱責が反論を許さぬ鞭となって保坂を打った。保坂は荷物を抱えなおすと、大急ぎでアトリエを後にした。瀬田から、君嶋に自分が認められていると聞いたせいで、少し油断していたのかもしれない。

 似ている、という言葉の意味は気になったが、振り返って君嶋の表情を確かめる勇気は、保坂にはなかった。

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