第二章 狂気(マッドネス)
狂気 1
一ヶ月が過ぎた。
現在、君嶋研では十体のM《ミッシュヴェーゼン》を同時開発しており、うちステップE――すなわち、能力調整や教育の段階に入っているのは有里のみ。残りはいまだ胚や胎児の状態で、人工子宮と呼ばれる培養液で満たされたカプセルの中で目覚めの時を待っている。
あちこち動き回ったり言うことをきかなかったりと、とかく有里は手を焼かされる存在だった。これが二体、三体と増えていったらとんでもないことになるぞと保坂は思っていたが、M開発の最初期段階――つまり、特定の目的に合致したMを生み出すための遺伝子設計から胚を作るまでの作業も、これまたとてつもなく手間がかかる。
そもそも二種以上の異なる生物をかけあわせた怪物を作ろうというのだ。首尾よく胚を作るのに成功しても、それがすんなり成長してくれるわけではない。下手をすれば、免疫バランスが崩れ、ヒトかもう一方の生物、どちらかの組織が破壊されて死んでしまうし、人工子宮の外に出る、いわば『誕生』を迎えたとしても、耐久性に問題があったり、極端に寿命が短かったりしてはどうしようもない。つまり、どの段階一つとってみても、細心の注意が必要ということだ。
こうした研究員たちの苦心の末に完成されたMは、人間を遥かに凌駕する身体能力と生命力を有する。中には、他のいかなる生物とも異なる独自の能力を持つ者もおり、その力を対テロリストや凶悪犯罪を解決する手段として活用される。A.D.Aという組織とMの力を管理するのは国家であり、国家の繁栄と秩序の維持こそが、ヒトに近い姿を持ちながらヒトではない、Mという生物に与えられた存在意義であった。
一流の研究チームでも五割成功すれば良いほうといわれるM開発だったが、君嶋研のこれまでの成功率はなんと九割を超えるという。驚異的な数字だが、それだけにスタッフに要求されるものも多い。
「ちょっと! なんて物を食べてるのよ」
過酷な日々の疲れを癒すつかの間の休息。実験棟一階の食堂で、保坂がカップめんをすすっていると、瀬田がトレーを持って現れた。昼時ということもあり、食堂はかなりの賑わいを見せている。
「何を食べようが僕の自由じゃないですか」
「だからって、それじゃせっかく食堂に来た意味がないじゃない。そういうのは、自分の部屋に仕事を持ち帰るときに買っていくものよ」
瀬田のトレーに乗っているのは日替りの和風定食だった。
「嫌いなんですよね、並ぶの」
「まあいいわ。で、どう? 調子は」
向かいの席に座ると、瀬田は訊ねた。
「良いのか悪いのか……自分でもよく判りません」
保坂は、自分でも不気味に落ちくぼんできたと思う目を瀬田に向けた。
「あはは。色男が台無しね」
瀬田は、「お、このシャケ美味しいわね」などと言いながら、昼食をほおばる。
「瀬田さん、なんでそんなに元気なんですか?」
「えー? だって楽しいじゃない。毎日が発見の連続なのよ。寝る間も惜しいっていうか」
「そりゃ、僕だって研究に没頭してるときはテンション上がってますし、何も考えられないくらい夢中になってやってますけど、こう、今みたいにふっと気を抜いた瞬間にどっと疲れが襲ってきて、なんか食事するのも面倒っていうか……」
「そのわりによく喋るじゃない。ん、お味噌汁のダシ、変わったわね」
瀬田を見ていると自分の元気が吸い取られるような気がして、保坂はいっそうげんなりした。
「とにかく、ご飯はちゃんと食べなきゃダメよ。炭水化物だけじゃなく、野菜も摂らないと――ほら、私のサラダのホワイトアスパラ分けてあげるから」
「それ、瀬田さんが嫌いなだけでしょう」
「違うわよ。なんならキャベツの千切りもあげるから。あ、これもサービス」
わざわざ持ってきたらしい小皿に、アスパラと申し訳程度の千切り、さらにパセリが取り分けられ、保坂の前に置かれた。
「……残飯処理係ですか?」
「文句を言わない。どうせ味なんて気にするタイプじゃないでしょうが」
「そんな事ないです」
ちょっとむっとして保坂は言った。カップめんは保坂の大好物だったからだ。
「なんか、瀬田さんって、うちの姉みたいですね」
「あら、光栄ね。どんなところが似てる?」
「そうやって、上から見たような態度でものを言うところとか」
カップめんを否定された恨みとばかりに、保坂は皮肉をぶつけた。
「よかった。元気になってきたみたいね」
だが、敵もさるもの。にこやかな笑みであっさりとかわされた。
逆に言葉に詰まった保坂が、なんとか反撃の機会をつかんでやろうと唸っていると、瀬田は急に真面目な顔になった。
「食事のこともそうだけど、合間を見つけてちゃんと睡眠も取りなさい。いくら若くても、半月もまともに寝ないんじゃもたないわ。頑張れとは言ったけど、力の加減も覚えないと。身体を壊したら、肝心のアタマも働かないんだからね」
「む……それは、そうですけど」
教育係としてだけでなく、純粋に彼を心配する気持が、その言葉には込められていた。それが判らないほど保坂も鈍感ではない。
「まあ、そんなになってても、仕事が始まればしゃんとするんだから感心よね。さすが、所長や君嶋先生が認めてるだけのことはあるわ」
「そうなんですか?」
初耳だった。
長田所長はともかく、君嶋はいつも保坂の前では不機嫌そうな顔をしていて、口を開けば叱責ばかり飛んできた。博士号取得までに培った安いプライドなど、最初の三日で打ち砕かれてしまっていた。
「なんだかんだで、今うちで一番重要な有里がらみの実験にはほとんど同行を許されてるでしょ。あれはそういうことよ。とっつきにくい人だし、いっつもしかめっ面して、他人を褒めたりなんかめったにしないから、誤解もされやすいんだけど」
瀬田の声の響きには、彼女の君嶋に対する敬慕の深さがにじみ出ていた。
そうなんですか、などと答えながら、保坂は口許がゆるむのを抑えるのに苦労していた。
「そ、そういえば、君嶋先生って、長田所長とは友人同士なんですよね?」
「そうよ。A.D.A.設立以前からの付き合いだって聞いてるわ。つまり二人とも、かれこれ二十年以上この分野に関わってるってわけ。しかも常に最前線で。まったくよくやるわよね」
「早く引退して欲しいようにも聞こえますよ」
「冗談! 最低あと十年は頑張ってもらわないと。まだまだあの人たちからは学ばせてもらうんだから」
この貪欲さが彼女を今の立場に押し上げたのだろうと保坂は思った。ふざけているようで、研究開発にかける気持は純粋だ。話していると自分も彼女の勢いに引きずられていくような気がしたが、それは不快な感覚ではなかった。
それにね、と瀬田は続ける。
「私、君嶋先生の作ったMをもっと見たいの。ねえ、知ってる? うちの研究室出身のMは、よく芸術品に譬えられるのよ」
それは、有里を見ていればわかる。最初に会った時にも、彼の頭にあるMのイメージとあまりにかけはなれている事に驚かされたが、日々成長――それも精巧に出来た西洋人形のように美しくなってゆく彼女に、M開発技術もここまで来たかと感嘆するとともに、有里のようなMを生み出した君嶋への尊敬の念もまた、ますます高まっていくのだった。
ちなみに、各研究棟内にあるMの工房は通称をアトリエという。いつの間にか、誰からともなくそう呼び始めたらしいが、ひょっとしたらその由来も、君嶋の作ったMにあるのかも知れない。
「楽しみね」
「何がですか?」
「有里のロールアウトよ。順調にいけば、夏頃になると思うわ。彼女は優秀だし、役目に就いてもきっとすばらしい成果を挙げてくれるわね」
「夏ですか。きっとあっという間なんでしょうね」
「おやおやあ? どうしたの保坂くん、ため息なんかついちゃって」
瀬田の顔が、おもちゃを見つけた子供のそれになった。
「ひょっとして寂しいのかな? でも無理もないわあ。なんたって、あの子の成長ぶりときたら物凄い勢いだものね。心だけじゃなく、
「ハア? 何を言ってるんですか」
「否定しなくてもいいのよ。キミも健康的な男子なワケだし」
ねちっこくいいながら、瀬田は笑みを含んだ視線を送ってくる。
「だって、彼女はMですよ?」
「そんなの関係ないわよ。実際、そういう目であの子を見てる研究員なんて何人もいるし。ぶっちゃけ問題なのよねえ。開発に携わっていれば、あの子の裸は拝み放題だもの」
「本当なら、相当歪んでますね」
「そうよ。気づいてなかったの?」
瀬田は、相手の意外なしたたかさを発見した時のような、胡散臭いものを眺める目つきでこちらを見つめた。
(でも、まあ、たしかに)
研究中、目の毒だと思うような場合は多々ある。
そういったあれこれの場面が脳裏をよぎり、保坂は頬が熱くなるのを感じた。
数瞬心をさまよわせた後で、ハッと気づいた。瀬田がくちびるの端をつりあげている。
「変態」
「ち、違いますよ!」
思わず大声をあげてしまう。
食堂中の人間が、何事かといっせいに振り返ったのがわかった。
「だから否定しなくてもいいって言ってるじゃない。今更」
「今更って何ですか。ほんとに僕は……」
「はいはい」
声を落として弁明を試みるも、瀬田はまともに取り合おうとはしない。保坂は瀬田の背後に、ケラケラと笑う黒い彼女を見たような気がした。
本当に誤解なのだが――保坂は情けない気持になった。有里は、人類進化という大目標に至るための貴重な研究材料であり実験体、保坂にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。科学者はモルモットに特別な感情を抱いたりしないし、また抱くべきでもない。
「でも……」
保坂がまた唸っていると、瀬田はふいに表情を曇らせた。
「その前に、ね」
「今度は何ですか?」
次はどんな手でくるのかと警戒しつつ、保坂は訊ねた。
「あれを片付けなくちゃいけないのよね」
瀬田の声は、先刻までの調子が嘘のように憂鬱そうだった。
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