黙劇 6
自室にもどってほどなくすると、チャイムが鳴った。
今日は来客の多い日だと思いながら、保坂はドアを開けた。
瀬田だった。
「よかった。思ったより元気そうね」
そう言った彼女の顔は、心なしかやつれているように見えた。
「何かあったんですか?」
「あったわよ。指導を任されてた後輩が、考えなしに暴走して実験を妨害するとか」
「すっ、すみません! まさか、僕のせいでご迷惑をおかけしたんじゃあ……?」
保坂が真っ赤になって頭を下げると、瀬田は笑って、ちがうというふうに手を振った。
彼女は部屋に一つしかない椅子に後ろ向きに座った。背もたれの上に腕を置き、その上にあごを乗せる。
「その後、何か聞いてませんか?」
「何も。しばらくはこのまま、あとは先生の気持次第ってところじゃないかしら」
「そうですか……」
保坂は頭をかかえた。
「なんでこんな事になったんだろう」
「そんなの、私が訊きたいわよ。と言うか」
瀬田は少し怒ったように言った。
「あんたは結局、有里が人間に見えちゃったのよ。そこは認めるべきじゃない?」
「そう……そうですね」
「でも、キミがそこまで情に脆いとは知らなかったわ。前は割り切れてたじゃない。いったいいつから?」
「医務室に、彼女が来てからだと思います」
最初に出会った時からだとは、さすがに言いづらかった。
「こういうのって、一度そう思えちゃうと、もう駄目なんですかね?」
「だから、弱気はよくないって言ったでしょ。私を見なさいよ。有里に同情はしても流されたりはしてないでしょう?」
「それは、瀬田さんがいい加減だからですよ」
「なんですって!」
瀬田のこぶしが保坂の額にヒットした。
「瀬田さん、ひどい……」
「ふん。そんな口がきけるなら、そのうち現場復帰もかなうでしょ」
「ほ、本当ですか?」
「保証するわ」
にこりと笑った瀬田の笑顔に、保坂は元気づけられる気がした。姉との密談の事が脳裏をよぎったが、瀬田に暗い顔をさせるのが嫌で言い出せなかった。そう、あれは何かの間違い。君嶋の潔白が証明されれば自然消滅する話で、瀬田の耳に入れずに済むならその方が良いのだ……
「ん? どうかした?」
黙ってしまった保坂を心配してか、瀬田が怪訝そうに訊ねた。
「い、いえ、なんでも――そうだ、瀬田さん。前から気になってたんですけど」
話をそらすつもりで保坂は言った。
「何?」
「瀬田さんは、どうしてA.D.A.に入ったんですか?」
気になっていたというのは本当だ。Mの開発研究という、非人道的な行為がまかりとおる現場に、瀬田まゆ子という人格はそぐわないと常々思っていた。彼女は、研究者としても人間としてもりっぱで、尊敬に値する人物だとは思うが、自分のような理想家ともすこしちがう気がしていた。
「あー。ついに訊かれちゃったか。……参ったね」
苦りきった表情で、瀬田は後頭部を掻いた。
彼女は椅子の上であぐらをかき、背筋をのばして、保坂に向き直った。
「笑わない?」
「いや……そんなの、聞いてみないと」
「じゃあ言わない」
ぷい、と顔をそむける。
「わ、わかりましたよ! 笑いませんから」
「絶対?」
「……はい」
本当に絶対に笑わない? と瀬田はさらに二度念押しした。
「いや、やっぱやめとこ」
「なんでですか、いまさら!」
「わかったわよ。じゃあ、言うけどさ……私ね」
あぐらから正座に姿勢を変えた彼女は、顔を赤くして、ひざの上で組んだ両手をもぞもぞと動かした。
「一番を追いかけるのが好きなの」
「はあ? 一番、ですか」
「そう。世界一の科学力とか、世界一のアスリートとか。とにかく、そういう一番」
ようするに一とつけばなんでもいいんですかと訊ねると、瀬田は、彼女にしては曖昧な態度でそれを認めた。それから、そういうのに燃える性分なのだとつけくわえた。
「ここには世界一の設備があって、世界一の頭脳が集まり、生命の歩みのさらにその先を探る試みがなされている」
「そういう場所で、さらに一番を目指すんですか?」
保坂が訊ねると、瀬田は両手を広げて大仰に否定のしぐさをした。
「そんな大それた野望は抱いてないわ。私は、自分が一番になれなくてもいいの。そういう場所で仕事をして、そういう人を追いかけて、その人の手助けができたら。ついでに、自分も成長してるって実感も得られればもうけものってね」
はにかんで白い歯を見せたその表情は、瀬田にしたら心外だろうが、わんぱくな少年のようだった。しかし、保坂はそれを見てはっと胸を突かれる思いがした。それは、彼女が目標としている人物への敬慕の深さがそこに表れていたせいであったのか。
「はあ……でも意外。瀬田さんてば、けっこう――」
「子供っぽいって言いたいの?」
瀬田はぐっと身を乗り出して保坂を睨んだ。
「なんだ、やっぱり自覚してたんですね」
「そうよ! だから言いたくなかったのに!」
「もしかして、第一研究棟で働いてるのも、一ってついてるからだったりします?」
「それはねえ。実は、ダメ元で希望を言ったら通っちゃったのよね。冗談みたいだけど」
保坂は頭をかかえた。長田所長だ。あの人ならばやりかねない。
呆れる一方で、保坂は瀬田のようになれればいいとも思った。一人では背負いきれないほどの理想を抱いて葛藤するより、動機はシンプルであっても迷いなく一つの物事に没頭し、結果に拘らない生き方――それは、この上もなく幸福であろう。
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