悪意 2

 ――息苦しい。

 運ばれる間、有里はそう感じ続けていた。拘束衣で自由を奪われているせいばかりではない。何かとてつもないことが己の身に起こりつつある、あるいはすでに起こってしまった――そんな重苦しい予感とも直感ともつかぬものが、彼女の胸を締めつけていたのである。

 研究棟からのびる、吊り橋か蜘蛛の糸のような廊下を通って中央塔に入り、ホールのエレベーターで地下に向かう。そこまでは、彼女にも見慣れた道のりだった。もっとも、薬物実験が始まってからはほとんどがストレッチャーに寝たままでの移動になっていたので、目に入るものと言えば天井ばかりだったが。

 拘束衣はあごまで固定される。目だけを動かして足の側にある階数表示を見ると、有里がこれまで行ったことのある階よりもずっと深くまで降りてきているのが判った。

 周りにいる人間は、全員が初めての顔ぶれだった。君嶋はどこにいるのだろう? それに、あの二人――

 坊主頭にサングラスの男と、力の強そうな大男。彼らは、他の連中とは異質な雰囲気をまとっていた。身ごなしに隙がなく、近づくだけで肌を針でつつかれるような緊張が走る。それでいて、親近感――というのとは少し違うが、有里は彼らのことをとてもよく知っているような気がするのだ。

(何者だろう?)

 わからないというのは気持が悪かったが、面と向かって訊ねる気にもならなかった。彼らが有里を見る目は、決して友好的とは言い難かったからだ。

 エレベーターの停止を告げる音がして、扉がひらいた。

 スーツの男が合図を出し、再び有里を乗せたストレッチャーが動き出した。エレベーターと通路の床の境目を越える際に二度の衝撃が背中に伝わった。暗く狭い通路に入って行く瞬間、有里は巨大な生物に呑み込まれるような錯覚をおぼえた。天井近くに灯された小さな照明が、点々と奥まで連なっている。鬼火か、それとも動かない蛍か――どちらも知識としてしか彼女の頭にはないものであったが、有里はそういうものを見るような気分で、足許から頭上へと流れてゆく幽かな灯りをながめた。

 途中いくつかの分岐があったが、彼らはひたすらまっすぐ歩き続けた。心なしか、床が下に向かって傾斜しているような気がした。もしかしたら、彼らはこの研究所のもっとも地下深くを目指しているのかも知れないと有里は思った。

 やがて彼らは足を止めた。どうやら行き止まりらしいが、有里にはつきあたりにあるものがよく見えない。かろうじて、四角い柱を一メートルぐらいの高さで切断したような物体が、床から突き出ているのは視界に入る。斜めになった柱の断面には、ボタンがいくつも並んだパネルがついていた。スーツの男が進み出、パネルの上ですばやく指を動かした。

 すると、突然まばゆい光が通路にあふれ出した。有里は思わず目を細めた。

「これは――お早いお着きで」

 男たちが一斉に頭を下げる気配がした。

「うん。どうにも待ちきれなくてねえ。呼ばれる前に来てしまったよ」

 弾むような男の声がした。

「気をつけたまえよ」

 その男の指示で、有里はストレッチャーから降ろされた。自由の身になれるのかと一瞬期待したが、すぐにまた、今度は部屋の中央にある柱にくくりつけられてしまった。

 身体は相変わらず固定されたままとはいうものの、仰向けに寝た状態から立ち姿勢になったので、前よりもよく周りのようすが観察できた。

 そこは奇妙な造りの部屋だった。

 まず、角というものがなく、中央に彼女がくくりつけられている柱が一本立っている。壁も床も金属製で、天井に近づくにつれて壁がすぼまってゆき、頂点はかなり高い位置にあった。これまでいやというほど投与された毒薬のびんを大きくし、それに芯を通したような形だと有里は思った。

 有里は新たに登場した人物をしげしげとながめた。

 彼は痩せ型で、紫のスーツを着込んでいた。年齢は君嶋博士と同じくらいか、すこし若い。ただ、頭髪は君嶋博士よりだいぶ薄くなっており、とがった鼻の上に丸い眼鏡をのせていた。

 目の動きから相手の感情を的確に読み取れるほど、有里はまだ人の心というものに通暁してはいなかったが、じっとこちらを見返してくる視線からは、何か強い執着のようなものを感じた。それがまるで、物質的な実体をもって身体中を這い回っているような気がして、有里は身じろぎした。

「ねえ」

 男が有里に視点を据えたまま言った。

「この、首とあごの拘束具、外しちゃってよ。これじゃあ彼女の顔が見えない」

 研究員たちは顔を見合わせたが、すぐに命令に従った。

「おお、思った通りだ。美しい。実に美しい。まさしく女神だ」

 手をすり合わせながら、男は満面の笑みを浮かべた。その喜びようは、大袈裟すぎて嘘臭くさえあった。

「これで喋れるようになったね。さあ、ぼくに声を聞かせておくれ」

「……ここはどこ?」

 すこし考えてから有里は訊ねた。

「うぅん、想像通りのいい声だね。ここは特別観察室さ。きみには少々検査が必要なんでね」

「検査?」

「そう。きみは、他のMとはどうやら違う特性があるらしい。君嶋クンの意図したものか、そうでないかは判らないが、それを検査するんだよ」

「あなたは誰なの?」

「失礼。そういえば名乗っていなかったね」

 男はもったぶったしぐさで襟を正すと、有里の正面に立って一礼した。

「“はじめまして”だね、有里クン……いや、有里と呼ばせてもらうよ。ぼくは長田光。きみの――新しいパパだよ」

 その瞬間、有里の頭は真っ白になった。

「――――は?」

 ながいながい溜め息をつくように、有里は訊ねた。というか、それ以外に言葉が出てこなかった。

「わからないかい? きみはぼくを知っているはずなんだがねえ」

「あなたなんか知らない。なんで私があなたの娘にならなくちゃいけないの?」

「Mにとって開発主任は親も同然。ぼくは、君嶋クンからきみの開発を引き継いだわけだから、当然そういうことになるよねえ」

「引き継いだ……って、どういうことなの、それは」

「質問が多いねえ。まあ、仕方ないとは思うけど」

「答えて! 博士はどうして――」

「それはね、彼がきみの開発を続けられなくなったからだよ」

 有里はいらいらしてくちびるを噛んだ。長田の答えは、何も理由を説明していない。わざとやっているのか、彼の目には楽しげな色が浮かんでいた。

「ふざけないで。博士はどこ?」

「そんなに彼に会いたいかね?」

 もちろん、とうなずくと、笑っているのか困っているのか判らない奇妙な表情をした。

「こんな美人に慕われて、彼は果報者だねえ」

 だが残念だ、と長田は首を左右に振った。

「彼はもうここにはいないよ」

 ――――!

 予想以上の衝撃が、有里から声を奪った。

 信じる理由がない――頭では、長田の言葉など考慮の余地もないほど真っ向から否定していたが、心のどこかでは、最前から感じていた不安の正体はこれだったのかも知れない、受け容れがたい事実ではあるが、そうであれば得心がいく、とも思ってしまうのだ。

 だが、それはやはり、彼女にとって許容できない結論であった。

「……嘘よ。……博士が……私を置いていなくなるはずない……」

「嘘じゃない。こんなことはいつまでも隠しておけるものではないし、また隠しておくべきでもないと思う」

 我知らず、有里は長田の口の動きを追っていた。

 長田の話など信じたくないし、聞きたくもない。だが、まぶたは彼女の意思に反して閉ざされることを拒否し、眼球はわずかに震えるばかりでそらしたくともそらせなかった。

「彼は――」

 予感がした。

 今度ははっきりと、最悪のそれが。

 長田に先を言わせぬために、有里は叫んだ。しかし、咽喉から漏れたのは弱々しいかすれ声だけだった。

 ――彼は――

「死んだよ」

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