悪意 7
部屋に一人取り残された後、有里はすこしの間眠った。
一つは傷の回復と体力が戻るのを待つため。もう一つは脱出のチャンスをうかがうためであった。
目覚めた彼女がまず感じたのは、博士が死んだと聞かされた時のショックがまるでやわらいでいないという事だった。
悲しみが時とともに薄らぐものと彼女が知るのはまだ先のことである。今はまだ、焼けるような衝動に突き動かされるままに、有里は前に進もうとしていた。
部屋の照明が完全に消えていた。長田たちは去り際に灯りを消して出て行ったが、その時には天井の小さなライトだけはついたままだった。
何かが起きたのだ、と有里は直感した。同時に、これは絶好のチャンスであり、ただしさして時間的猶予はないであろうとも――
有里は拘束衣を着せられた上、特殊繊維で出来たベルトで柱に縛りつけられている。まずはこれを何とかしなければならない。
ベルトにせよ拘束衣にせよ、力任せに引きちぎれるものではないという事は、すでに何度か試したので判っている。牛かサイあたりのMであれば出来るのかもしれないが、あいにく有里はそうしたパワータイプではなかった。
有里は、右手の小指の付け根に神経を集中させた。目で確認することは出来ないが、そこには緑褐色のクチクラ層が形成され、三センチほどの棘となって、ベルトの外に鋭い先端をのぞかせているはずだった。彼女は、四肢にこうした棘を生やす能力を持っている。だが、これだけでは脱出は不可能だ。棘がいくら鋭くとも、繊維の隙間を広げるだけで破壊は出来ないからだ。
これまでの実験で投与された薬品の数々を、順々に思い出していく。その中には、物質を溶かしたり焼け爛れさせたりするものが幾つもあった。棘をすこし引っ込めて、先端から分泌される毒液がベルトに付着しやすいようにする。繊維と薬品が化学反応を起こし、つんとくる臭気が鼻をついた。
何度か試してみて、ベルトと拘束衣の繊維にもっとも有効な薬品が見つかった。こうなればあとは早い。まずは腕を自由にし、ついで両足を縛っているベルトを焼き切った。腰の部分は手刀で切断し、ついに有里は行動の自由を獲得した。
背中が柱を離れ、床を歩いても警報は鳴らなかった。どうやら本当に何か起きたらしい。動くと手足がひりひりと痛んだ。拘束衣を溶かす際に、一緒に肌を焼いてしまったせいだった。
電力の通っていない扉は、有里の力でもこじ開けることが出来た。連れてこられた時には呑み込まれると感じた暗い通路は、完全な漆黒に塗り潰されていた。この道を、今度は逆に辿るのだ……
呼吸を整え、くちびるを濡らし――有里は、何も履いていない足の裏が冷たい床を踏む音を聞いた。
静かな夜であった。
保坂は何日かぶりに窓を開けて外を眺めた。部屋の電気を消していると、よく晴れた晩などは外の方が明るい。彼の部屋からでは、小さな窓に切り取られた慎ましい夜空しか臨むことは出来ない。それでも紺碧の絨毯に宝石をぶちまけたような星の海は、一種異様な迫力をもって胸に迫ってくる。
一人ですごす夜はいつだって静かではあったが、騒がしい瀬田が去った後では静けさがよけいに身に染みる気がした。
(でも……)
彼女がいてくれてよかった。でなければ、自分のあずかり知らぬところで動き出している事態への不安で胸が潰れていたかも知れない。
君嶋のことは、覚悟出来ていた。それよりも、有里のことが心配だった。検査の名目で身体を切り刻まれている少女の姿を、保坂は頭から振り払った。
「有里……すまない……僕は……有――」
――り?
ふいに気配を感じ、振り返った保坂は絶句した。
そこに立っていたのは、まぎれもなく今彼が名を呼んだ、人ならざる少女であった。
くせのない金髪はいまや腰まで達し、前髪がひと房、白くとがったおとがいにかかっている。素肌の上に唯一身につけている検査着はぼろぼろで、ほとんど彼女の肢体を隠す役目をなしていなかった。
「ど――どうしてここに? それにその格好――あ、いや、その」
まじまじと見入ってしまったあとで、はっと我に返った保坂は、あわてて取り繕った。
「時間がないの」
びんと張った有里の声は、鬼気迫るものがあった。保坂は彼女の勢いにのまれ、思わず咽喉をならした。
「私はここから逃げる。ホサカ、あなたはどうする?」
逃げる、と言った有里の声は、この上もなく苦いものだった。
保坂が答えられずにいると、彼女は有無を言わせぬ口調で続けた。
「時間がないと言ったわ。――さあ、選んで」
突きつけられた選択肢はたった二つ。
彼女と行くか、ここに残るか――
「と、ともかく――」
目のやり場に困る格好をなんとかするために、ロッカーから白衣をひっぱり出して有里に渡した。彼女が着替える気配を背後に感じながら、保坂は喘ぐように説明を求めた。
そんな彼の態度を有里は悠長と感じたらしかったが、保坂としてはあまりにも訊きたいことが多すぎた。
「博士が死んだと聞かされたわ」
「――え?」
「証拠はない。でも、あいつらが博士の敵なのは確か。ここにいれば、私はあいつらのものになってしまう」
――それは許せない。
「だから、逃げるの」
説明は十分とは言い難かったが、有里の中では一応きちんとした論理に基づいてその結論にたどり着いたのだという雰囲気は、保坂にも伝わった。
「そうか。先生が……」
まさか、という思いと、やはり、という思いがせめぎ合い、やがて後者がゆっくりと胸を満たしてゆく。
君嶋は長田との対決に破れ、命を落とした。二人の対立が何であったのかは今もってわからない。しかしこれで一つわかったのは、A.D.A.という組織が意に染まぬ者の存在を許さないということだ。
「それできみもどこかに閉じ込められてたってわけか。でも、脱出できたのならさっさと逃げ出せばよかったじゃないか。どうしてわざわざ僕のところに来たんだい?」
「知らない」
「し、知らないって――」
「でも、博士が言ったの」
けっして大きな声ではなかったが、その言葉は重く響いた。叩きつけるような激しい感情――これは、悲しみ? 怒り? それとも……
「ホサカはここにいるべき人間じゃないって――ホサカを、助けてやって欲しいって、最後に……最後に会ったときに、博士はそうおっしゃったのよ……」
あふれ出した感情に堪えかねたように、有里は顔をくしゃくしゃにした。
僕を――そうか。君嶋は、保坂もいずれ自身と同じように、A.D.A.に疑問を持つようになるとわかっていたのだ。そして、このことが知れれば保坂も君嶋と同じ末路を辿ることになる。
(あれは置いていく。私に何かあったら、お前がどうするか決めるといい)
だから彼は、有里に保坂を助けさせ、同時に彼女を保坂に託そうと考えた。
保坂はあらためて有里を正面から見つめた。
Mが涙を流すところを見るのは初めてだった。外見上は十八歳ほどまで成長していたとはいえ、有里が人工子宮から出てから過ごした年月は一年に満たない。だからといって歳相応というのもおかしな話だが、君嶋を思い出して泣きじゃくる姿は、見た目の年齢よりもずっと幼く見えた。
「わかった」
女性の涙の止め方など見当もつかない保坂だったが、精一杯の優しい声で言った。
「行こう。一緒に」
赤く腫れた目が、意外そうに見開かれて彼に向けられた。
有里は自分を助けると言った。だが、本当に助けを必要としているのは彼女の方なのだ。
「本当?」
置いていかれた雛鳥のような声だった。そんな有里を勇気づけようと保坂はうなずき、微笑んでみせた。これまで、瀬田が彼のためにしてくれたように。
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