黙劇 5
硝煙の匂いがたちこめていた。
かつて戦場となったことがあるのだろうか。ところどころに黒い虚(うつろ)をのぞかせる建物と、めくれ上がった石畳、無秩序に成長して道にまで枝をのばした庭木の群れ。
辺りには、ほのかに甘い香りが漂っていた。
有里はゆらりと立ち上がる。彼女はぴったりとした黒い服を身につけていた。
前方の敵の数は三。背後に二。
火器で武装し、無機質なスコープで表情を隠している。廃墟となった街に、他に生き物の姿はなかった。
乾いた破裂音がして、一瞬前まで有里の立っていた地面に火花が列を成した。
たちまち、一帯は銃声と物が砕ける音に覆いつくされた。有里は破れた塀や立ち木といった遮蔽物を利用して動き回り、銃撃を避けた。
『どうした。逃げ回るばかりでは敵は倒せんぞ』
低い声が頭上から響いた。有里はちらりと視線を上げた。そこには青い空が広がっているばかりだ。
背後で砂を踏む音がした。かがんだ姿勢だった有里は、ふりかえりもせずに跳躍した。レンガ造りの塀が、鉛の雨で乱打される。跳びながら有里は後方へ身体を回転させ、敵が見えたと同時に腕を払った。
着地から一拍置いて、肩から血を流しながら敵は倒れた。
最前から香っていた甘い匂いが、有里の周囲で強まった。細められたまぶたの中で、緑色の瞳孔が広がる。どちらも、彼女が戦闘に集中するとあらわれる現象であった。
うなりをあげて、二つの円盤が有里めがけて飛んできた。体(たい)体(たい)を沈めてかわしざま、円盤――ホーミングバズソーの腹を打ってあらぬ彼方へ弾き飛ばす。円盤が追跡してこないことをちらりと確認するや、有里は駆け出した。
大きく曲線を描く軌道からは円盤の発射地点は読みにくいが、Mである有里の常人ばなれした視力と計算能力は、瞬時にそれを割り出していた。地面を蹴り、倉庫の屋根を蹴り、有里は傾いた廃ビルに取り付いた。そして、信じられない大胆さでその壁をかけのぼり始める。
後方わずか数十センチで銃火が交差した。有里は構わず駆けた。彼女の五感はすでに敵の気配を捉えている。
破れた窓の一つに飛び込んだ。いた。逃げ出そうとしている。しかし、遅い。追いすがり、頸部を薙ぐ。彼女の攻撃は一撃必殺だが、万全を期し、極力急所を狙うよう教えられている。急所であれば、また、毒のまわりも往々にして早い。
硬い物が床を転がる音がした。
手榴弾が投げ込まれたのだ。とっさに、たった今屠った敵の身体を楯にした。爆風で壁に叩きつけられたが、大事ない。要は動くに支障がなければよいのだ。火傷も骨折も、痛覚を脳内麻薬で遮断しながら走り回っていれば完治してしまう。
今の爆発で、がらがらとビルの一部が崩れた。その音と煙に紛れてビルの外に出る。手榴弾を投げた敵はすぐに見つかった。敵は有里に気づいていない。一息で距離を詰め、頚動脈のあたりを打った。手刀から生えた一本の棘が、劇薬を注入して相手の活動能力を奪った。
あと二人。
そう考えた時、脇腹の肉が爆ぜた。
横に転倒したと見せかけて、踵をひねり、身体の向きを変える。背後に忍びよっていた敵が身構えるよりもはやく、懐に飛び込んだ。とっさに相手は、手にしたアサルトライフルで自分をかばい、有里の手刀の直撃を避けた。しかし、手刀の衝撃でのけぞったところに繰り出された蹴りがライフルをはね上げ、続く一撃がとどめとなった。
あと一人。
敵の銃を奪えばもっと早くカタがつくだろうが、そうすることは禁じられていた。自身の体術と毒のみを用いて敵を倒す――それが、この訓練の課題だった。
攻撃がやんだ。生き残った敵は慎重に間合いをはかっている。もう、うかつには仕掛けてこないだろう。
つまるところ、有里には近接戦しか出来ることはない。敵の位置さえわかれば、超人的な脚力を使って敵に近づき、倒すことは容易だが、向こうが仕掛けてこないことにはそれも難しい。
ひらけた場所に出て行って敵にわざと撃たせれば位置を特定できるが、その際、機動力を奪われる足と、頭を撃たれるのだけは避けねばならない。
さて、どうするか……
『そこまでだ』
思考を中断され、有里は空を振り仰いだ。
「博士、敵はまだ一人います」
『時間切れだ。それに、データも十分採取できた』
「……はい」
君嶋博士の命令は絶対だった。有里は構えていた腕をおろした。
緊張を解き、視界が闇に切り替わるのを待った。
そして、世界にふたたび色彩がもどった時、目の前にあるのは君嶋博士の顔だった。
いつも口許をひきしめ、眉間にしわがよっている。
「疲れたか?」
有里は首を横に振った。全身を台に固定していたベルトが外されると、有里は上半身を起こした。拘束衣をつけていて両腕を動かせないので、首だけを後ろに向けると、つい今しがたまで彼女が入っていた物体が見えた。
その、黒光りする、異様な形状をした巨大な金属の塊は、Mに仮想空間での戦闘訓練を施すための装置だった。神経細胞を走る電気信号をトレースし、仮想空間内でMの動きを再現する。そのせいか、使い終わった後で皮膚の内側がザラつくような気がした。不快だったが嫌ではなかった。訓練後には、かならずこうして君嶋博士がそばに来てくれる。
今では、目覚めている彼女にこうして近づく人間もまれになっていた。マインドコントロールは完璧という認識が浸透していても、完成前の個体である。ましてや有里は、全身これ毒の塊だ。万が一の事故を、誰もが恐れる。博士にしても、部下に再三、自分に近づくのを止められていることを、有里は知っていた。
「どうでしたか?」
おずおずと有里は訊ねた。訓練での動きについてである。
「まだまだだな」
「そうですか……」
「だが、悪くない。これからもっと良くなるだろう」
ほっとして、思わず笑みがこぼれた。それは、博士にしてはかなり上等の褒め言葉だったからだ。
「もうすぐだな」
博士の言葉はいつも短い。
「完成が、でしようか?」
博士は肯く。
「では、いよいよ私もMデビューなのですね」
「ああ」
Mデビューという言葉がおかしかったのか、博士の口許が一瞬だけほころんだ。
「私はどのような任務につくのでしょうか?」
「さあな」
「外の世界に行くのが楽しみです。でも――」
博士と過ごせる時間もあとわずか。
その事実が、急に重くのしかかってきた。最初に目覚めてから今日に至るまでの数々の実験。永遠に続くかに思えた地獄の日々――それを与えたのは目の前にいる男なのだとわかっていても、なお、君嶋博士は有里にとって神にも等しい存在であり続けた。刷り込まれているだけだといわれればそれまでだが、それでも、博士は彼女の中に最初に棲みついた他者であり、またもっとも多くの部分を占めているのもたしかだった。
「すこし寂しいです」
有里は率直に言った。
「“寂しい”、しかも“すこし”ときたか」
「博士はわたしがいなくなったらお寂しいですか?」
「すこし、な」
博士は肯き、目を細めた。無意識の動作であろうか、その左手が白衣の胸元をさぐっていた。博士がときどき同じしぐさをすることを有里は知っていた。そこには、古い友人から貰ったというペンダントがあるのだ。
「博士――」
「うむ?」
「どうしてそのように、哀しい目をなさるのですか?」
博士が身体をこわばらせた。彼に衝撃を与えてしまったことに有里はうろたえた。とっさに謝罪したが、博士は黙って首を横に振った。
「申し訳ありません。ですが、いったいどうされたと――」
「何でもない」
君嶋はそういって目を伏せた。
そういえば――
彼も、ときどき、今の博士のような目で有里を見ていた。
あの日、混濁した意識の中で、彼が博士と何か言い争っている光景を見たように思った。それ以来、会っていない。
「博士、ホサカはどうしたのですか?」
博士は怪訝な顔をした。いまさら彼のことを訊ねるのを変に思ったのだろうか。
「保坂、か……」
考え込むように、博士はしばし沈黙した。また、左手が動いて胸のあたりを押さえた。
「会いたいのか?」
「いえ。ただ、気になったので」
「そうか」
何か考え込むような顔をして、博士は有里を見つめた。博士が何も言わないので、有里もそれ以上何も訊ねなかった。
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