怪物 4

 瞳に円く、月が映り込んでいた。

 樹々の高みに上り、天を仰ぎながら、頬に当たる冷たい空気の圧を感じる。

(これが――風)

 研究所の窓の内側から幾度となく思い描いた感触を、有里は味わっていた。

 仮想空間での戦闘訓練で何度か体験した爆風の、弱いものを想像していたが、それよりもずっと優しく、ずっと気まぐれな感じがした。

 くちびるをひらくと咽喉の奥にすべり込み、からかうように睫毛を揺らす。髪を巻き上げ、首筋をくすぐったかと思うと、突然それらの行為に飽きたようにはたと止まり、今度は違う方向から吹きつけてきたりする。

「有里……」

 おずおずとした声が、彼女の背中からあがった。保坂である。

 健脚とは対極にある彼に森を抜けるのは無理と、本人と有里は意見の一致を見た。そこで、有里が彼を背負って行くことにしたのだ。

 有里に身体を密着させることに、保坂ははじめ抵抗を示したが、じかに肌にふれるのでなければ問題はないと有里は説得した。意識的に汗に混じる毒の成分を抑えることも出来ると重ねて言うと、保坂は長いため息を吐いてうなずいた。彼が嫌がる理由は別のところにあるようにも思えたが、有里にはそれが何なのかわからなかった。

「はやく、行こう」

 有里がうなずくと、保坂はぎゅっと目をつぶって彼女の首にしがみついた。

 とん、とん――と、何度か跳躍して樹々の間を渡り、それから下生えの上に着地する。そうやって、有里は地上と樹上を行き来したり、石の上を渡るようにしながら移動している。森の土は柔らかい。追跡者の目印となる足跡をなるべく残さないようにとの配慮である。欲を言えば、常に樹の上をゆきたいところだが、それでは移動速度が遅くなる上に、保坂を背負っているので危険である。彼女がリスやサルのMであればまた話は別であろうが。

 地上に降りると、保坂はまぶたを開いてほっとしたように息をついた。

 ――それで。

「きみが僕のところに来るまでの経緯はわかった。脱出後どうすべきかという事については、君嶋先生は何か言っていなかったのかい?」

 道すがら、有里が話して聞かせたことは、保坂にやはり己の選択は間違っていなかったと確信を強めさせるのに十分なものであったが、やはりところどころ大事な情報が抜け落ちていた。そもそも有里は、君嶋が長田と対立していたということはおろか、長田という人間の存在すら知らなかったのである。これでは、君嶋がA.D.A.――つまりは盟友であったはずの長田になぜ叛旗を翻すに至ったのかなど、わかろうはずもなかった。

「具体的なことは、何も」

 有里は首を振る。

「じゃあ、最後にあった時か、その前でもいい。何か託された品物とかは?」

「……ペンダントが一つ。それだけよ。もしかしたら、あの中に何かが――」

「それはないと思う」

 保坂はきっぱりと言った。

「そんな目立つものに大事な情報を隠すのは危険すぎる。現に、あれは所長に奪われたんだろう? むしろ、君嶋先生は、あれを彼らに奪わせるためにきみに持たせたんじゃないかな」

「何のために?」

「わからない。でも、瀬田さんによれば、きみが中央塔を脱出するとき、ちょうどあそこのシステムがダウンしていたそうじゃないか」

「そういえば……」

「もしかしたら先生は、特殊なウィルスプログラムを仕込んだチップだとかそういうものを、ペンダントの中に仕込んでおいたのかも知れない。あと、考えられるのは、ペンダントは他の――本当に大事な何かを隠すための目くらましだったとか」

「本当に――大事な……」

 考え込むように、有里は口をつぐんだ。その間も、彼女は休まず脚を動かし続けていた。

 彼女は裸足だった。

 研究所を出るときには、他に適当な履物がなかったので、サンダルを履いていたが、森を通るにはさすがに無理があるので、脱いで鞄につっこんでいた。

「わからない。何度考えてみても、ペンダントの他には何も博士からもらってないわ」

「あるいは、物じゃないのかも」

 そう言ったものの、保坂にも確信があるわけではなかった。

「ともかく、落ち着いて考えられる場所についたら、もう一度最初から検討してみよう。何か、忘れていることがあるかも知れないからね」

「わかった」

 有里はうなずいた。

 彼女はしばらく無言で駆けていたが、ふいに足を止め、何かの気配を探るように息を殺した。

「ど……どうしたんだ?」

「静かに。何か――聞こえない?」

 言われて、保坂は耳を澄ました。ざわざわという葉擦れの音、虫の鳴く声――それらに混じって、水が流れる音がしていた。

 保坂は、研究所の周辺地図を脳裏に思い浮かべた。彼の方向感覚が間違っていなければ、この辺りには、研究所の西側の山から流れる川があるはずだった。

 保坂がそう言うと、有里は疲れたようにため息をついた。

「川が流れてることぐらい、最初から知っていたわ。そのつもりでこの方向に逃げてきたんだもの」

 むしろ、今頃気づいたのかと言わんばかりの口ぶりだった。

「じゃあ、なんだって言うんだ」

 保坂はすこしムッとして言った。彼の耳には、他に特別な音は聞こえなかった。だがそれは、彼が悪いわけではない。Mと人間では、感覚器官の性能が違うのだから仕方がないのだ。

「何か、良くないものが近づいてきてる。私たちのすぐ後ろ――まるで森全体がきしんでいるみたいな――嫌な……気配」

「追っ手か?」

 後ろを振り返ってみたが、保坂には何も異変は感じられなかった。一方有里は、整った眉をこれ以上ないというほどきつく寄せ、ぎりぎりと奥歯を噛みしめていた。

有里の遺伝子には、植物のそれが含まれていると保坂は聞いている。植物には動物が持つような感覚器官がないにも関わらず、何らかの方法で外部からの刺激を知覚しているという説もある。有里の感覚の鋭敏さには君嶋にも説明のつかない部分があり、もしかしたらそれは、いまだ解明されていないそうした能力に由来するのかもしれない。

 Mの――というより、生命の持つ神秘、と長田あたりなら表現するだろう。人造の生命でありながら、常に造り手の予想を超える。彼ら天才をもってしてもそうなのだ。

 Mは――それ故に、脅威たり得る。

 保坂はつと手をのばし、有里の腕にふれた。白衣の生地を通してもはっきりと判るほどの鳥肌が立っていた。

 ――震えている。

 ようやく彼は、事の重大さに気づいた。森のざわめきを、五感ではなく、人間の中にもわずかに残る本能の部分で感じ取った。

 これより彼らに降りかかる、災厄にも近しい脅威を受け止めるには、彼が身体を預けている少女はあまりにもか細く、頼りなげに見えた。

「うん。……この感じ……たぶん、知ってる奴だ」

 何か言わなければ、と保坂は思った。しかし、言うべき言葉が見つからなかった。

 闇が静かに、二人の逃亡者を飲み込もうとしていた。

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