狂気 5


「どういうおつもりですか!」

 君嶋に追いつくなり、瀬田は噛み付くような勢いで質した。君嶋研の研究員の中でも、君嶋にこんな態度を取れるのは彼女だけだった。

「コミュニケーション能力の訓練の一環だが?」

 それがどうしたという態度で君嶋は答えた。

「そんな話ではありません。一昨日の事故をお忘れですかと訊いてるんです」

「あれは薬物による苦痛で暴走しただけの事。常態であれば、あれに人を傷つける事は出来ん」

「そうでしょうが、しかし――」

 だからといって、あの事故の加害者と被害者を一対一で対話させようという君嶋の神経が理解できなかった。第一、生身の人間と対話させるのが目的なら、相手は瀬田でも君嶋でもいいはずだ。

「わからんか?」

「はい」

 即答しつつ、抗議の意を込めて瀬田は君嶋を見つめた。

「自らの撒いた種とあれがどう向き合うか……。私はそこに興味がある」

「………」

 瀬田は返すべき言葉を見失った。君嶋が冗談を言うような性格でないと彼女は知っている。だが、それほど高度な情操をMに身につけさせることに、いったいどんな意味があるというのか。

 まさか――

彼は、有里を人間にしようとしているとでもいうのか?

ありえない。

瀬田の理性はそう主張していた。だが――

 畏怖にも似た感覚。君嶋の瞳の中にある強い光が、瀬田の全身を凍りつかせていた。


 気まずい沈黙が流れていた。

瀬田の前では気丈そうに振る舞ってみたものの、やはり怖い。

有里にそのつもりはなかったとはいえ、彼女につけられたほんの小さな傷のせいで丸二日も意識を失っていたのだから。

 有里はベッド横の椅子に腰を降ろしたきり、何も喋らない。黙ったままこちらを見つめているだけなのがまた怖い。彼女がいったい何を考えているのか、どういうつもりでここに来たのか――連れてきたのは君嶋だったにしろ――それがさっぱりわからない。

 かといって、保坂から彼女に言うべき事も、まるで思いつかなかった。あの事故の件を責めるは無意味だし、世間話を切り出すのも違う気がする。しかし、とにかく何か話さなければ……

「リ、リンゴ食べるかい?」

「林檎?」

 保坂が皿を指差すと、有里はぴたりと動きを止め、赤い耳を持った小さなウサギたちを見つめた。

「林檎の実って、丸い形をしていたと思う」

 胡散臭そうに、有里は上目遣いで保坂を見た。

「食べやすいように切ったんだよ。ほらよく見て。それを全部合わせると球形になるだろう」

 しばらく考えて、有里はうなずいた。どうやら理解できたらしい。彼女はリンゴの一切れをつまみあげて、色々な角度からながめた後、口に入れた。そして、リンゴの歯ごたえ、食感、果肉から溢れる汁といった一つひとつを味わうように、ゆっくりとあごを動かす。

「……美味しい」

「だろう?」

 有里の頬はわずかだが上気していた。考えてみれば、これは有里がはじめて口にするきちんとした食べ物なのだ。味蕾から脳へ、鮮烈に伝達される濃厚な甘味と酸味。その感動に打ち震えたとしても無理はあるまい。

「でも、しまった。きみに勝手にものを食べさせるのはまずかったか」

「大丈夫。博士の許可は出ているわ」

 そう言って、有里はリンゴをもう一切れ手に取り、保坂に差し出した。

「食べる?」

「うん――い、いや! やっぱりいい」

 反射的に伸びかけた手を、保坂は慌ててひっこめた。有里のふれた指の辺りから、リンゴが黒ずみはじめているのに気がついたからだ。これを食べたら、今度は寝込むくらいでは済まなくなる。

「そう」

 有里は特に残念がるふうでもなかった。たちの悪い冗談でも、ましてや保坂を毒殺しようと考えているわけでもなさそうだったが、彼女の場合、無自覚な何気ない行為が他者を死に至らしめることもあり得る。害意がないからといって、用心するに越したことはない。

「それで、ここに何しに来たんだ?」

 すこし慎重になって、保坂は訊ねた。声が硬くなっているのが自分でもわかった。

「謝ろうと思って」

「謝る? 博士に言われたのか」

 保坂はつい、意地悪な物言いをした。予想外の答えに驚いたのを、相手に悟られるのが癪だったのだと、この時は思った。

「ちがう。私が博士に頼んだの。あなたに謝りたいって……ごめんなさい、ホサカ」

「え――ああ、うん」

 保坂は混乱していた。まさか、本当に有里が自らすすんで謝罪しに来たとは思わなかった。というよりまず、彼女に罪の意識というものがあったこと事体が信じられなかった。だが、A.D.A.の研究員である保坂に対して有里が嘘を言うとも思えない。

「大丈夫?」

 考え込んでいると、有里が保坂の顔を覗き込んできた。思わずのけぞる。

「な、何が?」

「身体」

「あ……ああ」

 うなずくと、有里はパッと花が咲くように笑った。不覚にも保坂はどきりとしてしまった。Mを相手に……。これでは、瀬田の言ったとおりになってしまうではないか。

「良かった。あの時ね、気がついたら保坂が床に倒れてて、苦しそうだなって思ったの。それが、すごく怖くて……他の人たちはみんな大騒ぎしてるし、博士はいなかったし……でも、すぐに来てくれたのよ。それで、私に毒のことを訊いたの。だから私、言われたとおりにしようとしたんだけど……思い出す前にホサカは連れて行かれちゃったから、その……ひょっとしたら……」

 たどたどしく拙い少女の表現は、病み上がりでまだぼうっとしている頭では理解するのにかなりの労力を要した。彼女自身も言葉をなかなか見つけられないもどかしさにイライラしているらしく、シーツを両手で握りしめて上下左右に引っ張っていた。力を込めすぎて破れはしないかと、保坂はハラハラしながら手の動きを見つめた。

「まさか、心配――してくれてたのか?」

「そう、それ」

 助け船を出すというよりあてずっぽうで言ったのだが、どうやら正解だったようだ。有里は、難しいパズルが解けた時のような晴れやかなようすだった。

 反対に保坂は奇妙な気分を味わっていた。これまで実験動物としか思っていなかった相手に心配されるというのは、新鮮というよりなんだか後ろめたかった。

「なんで、僕の心配なんかするんだ?」

「?」

有里はきょとんとした。

「僕は、きみを実験で苦しめている人間の一人だろう?」

 重ねて言うと、有里の眉間にしわがよった。やはり解らないか。マインドコントロールによりA.D.A.関係者を傷つけることが出来ない有里には、保坂たちにされたことを恨みに思うという思考も皆無なのかも知れない――

「だって」

 拗ねたようにとがったくちびるから発せられた声には、何故こんな簡単なことがわからないのかと言いたげな響きが含まれていた。

「あの実験のおかげで、あなたの苦痛も理解できたのよ。だから」

 有里に対して行われた薬物実験では、もっとも苦痛を感じる方法があえて取られていた。まず、互換への遮断措置は施されない。経口投与でも充分に効果のある毒でも静脈に注射する、濃度を即死しないぎりぎりのラインに設定する、等々――

自らが扱う毒の性質を、苦痛を通して理解する。それが、あの実験の持つもう一つの意味だった。この手順を踏むことで初めて毒という危険な武器を使いこなすことが出来る、と君嶋は説明した。

 考えてみれば、随分とサディスティックなやり方だ。だが、保坂はその方法論のおかげで死なずに済んだのだ。

「うん。でも、それじゃあ半分しか答えになってないよね」

「そうなの?」

「きみは、あの実験を――薬物によって苦痛を与えられることを、どう感じていたんだ?」

 有里は途方に暮れたような顔をして考え込んだ。

(何を僕は)

 ――本気になっているのだ?

 こんな子供――もとい、Mを相手に。この問いに有里が答えられないことは百も承知なのに。そんなに彼女に恨んで欲しいのか? いや、ちがう。

「そうね。たぶん……」

 やがて、有里が口を開いた。一つひとつ、慎重に単語を選ぶように、彼女はゆっくりと話した。

「嬉しかったんだと……思う。もちろん、実験は痛いし、苦しい。好きかと訊かれれば……嫌い。でも……そんなものでも、博士が……くれるものだから」

(そうか)

――僕は、きっと……

 安心したかったのだ。

 有里の抱える欠落を確認し、彼女が人間とは別の生物であるという確信が欲しかった。きっと、そういうことなのだろう。

 保坂の期待とは少し違うが、この君島への妄信もまた、有里の欠落であろう。

 彼女にとって、生みの親である君嶋は絶対者にも等しい。人工子宮の水槽から出て以来、彼の言葉には決して逆らわぬように繰り返し刷り込まれてきたからだ。有里の中では、君嶋を除くすべては小石ほどの価値も持たない。

 つまりは、有里が保坂の身を案じていたのも、君嶋に見捨てられることを恐れていたからにすぎない。研究員を死なせたとあれば、そのMが処分されるのは自然な話だ。

「なるほど。Mはやはり、そうじゃなくっちゃな」

「ホサカ――?」

 有里は大きく目を見開いた。

「人の手で造られ、人の命に従って動く操り人形……それが――」

「ホサカ」

有里は突然身を乗り出して、ベッドに手をついた。保坂は思わず身体を後ろに引いた。

「私が怖いの?」

 ふたたび、有里の表情が消えていた。すぐ前に、ガラス玉のような眼。けれども吸い込まれそうなほどの深い緑。保坂はごくりと咽喉を鳴らした。

「……ああ、怖いよ。また、忘れるところだった。きみは人を――国家が敵と定めた人間を殺すために作られた道具なんだ」

「そうよ」

 間髪を入れず発せられた肯定の言葉が、痺れるような寒気を運んできた。

「そのために私は生まれた。私に与えられたもう一つの名前は《ベラドンナ》……この名には、死の女神という意味もある」

 ――でも、

「ねえ、ホサカ。私にはまだよく判らないの。『死』って――『死ぬ』って、どういう事なの?」

「ぼ、僕が臨死体験をしたものだから、そんなことを訊くのかい?」

 精一杯の虚勢を張って、保坂は皮肉をぶつけた。声が震えてしまっているのが我ながら情けない。有里は否定とも肯定ともつかない曖昧な笑みを浮かべた。

「残念ながら、僕にも判らないな。ただ、死ぬとその人は消えて失くなってしまう」

「消えて……?」

 有里は不思議そうな顔をした。『死』という事象については、すでに彼女の知識にはあるはずだったが、人がそれに対して抱く概念的な理解が出来ないのだろう。

「ありがとう」

 いまひとつ釈然としない面持だったが、とりあえずは納得したらしい。有里の顔が鼻先から遠のいて、保坂は安堵の吐息をついた。恐怖のためだろうか。鼓動が異常なほど速くなっていた。

「そうだ」

いとまを告げた有里が、立ち去り際に保坂を振り返って言った。

「あらためて言うわ……ごめんなさい。私、あなたを、消してしまうところだったのね」

 有里がいなくなってから、保坂は彼女の最後の言葉の意味を考えたが答えは出なかった。胸の鼓動はしばらく治まらず、彼を悩ませ続けた。

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