終章
終章 1
長く尾を引いた絶叫がおさまり、廃ホテル内に沈黙が降りると、保坂はいてもたってもいられずに用具入れを飛び出した。足許にあったバケツをうっかり蹴飛ばしてしまい、危うく床に接吻しそうになったが、両手をついてなんとかこらえた。そのまま、顔を横に向けて床に近づけた耳を澄ませてみる。階下からは何の物音も聞こえてはこない。
最悪の想像が脳裏をかすめ、悪寒が背筋を走り抜けた。
「有里……ッ!」
押し殺していた思いを解放して、保坂は少女の名を叫んだ。返事はなく、がらんどうの廊下に己の声がこだまするのを聞いた保坂は、自分でも信じられないほどに狼狽していた。
「有――うわっ!」
もう一度少女を呼ぼうとした瞬間に床板を踏み抜き、舞い上がった埃を思い切り吸い込んで盛大に咳き込む。埃とみじめさで涙目になりつつ、保坂は階段を降りた。
二階で床に尻をつけて座る有里を発見した時、保坂の不安はとりあえず一つ、取り除かれた。自動消滅プログラムが発動していないという事は、彼女は生きている。近くに土田の姿がないのは、彼が倒され、泡となって消えたからに違いない。
「よかった、有……里?」
息を弾ませて駆け寄った保坂は、彼女のあまりに凄惨な姿に二の句が告げなくなった。
貸してやったYシャツはずたぼろになった上にたっぷり血を吸い、身体にべっとりと張り付いていた。その下からまだ塞がりきらぬ生々しい傷口がいくつものぞき、憔悴しきった顔は暗がりにいるというのにぞっとするほど蒼白く、まるで幽鬼のようだった。光そのものであるかのように輝いていた髪は老婆のそれのようにつやを失い、掌を上に向けたままだらりと下がった両腕はぴくりとも動かない。目は虚ろで、半開きになったくちびるに手をかざすと、あるかないかの吐息が当たった。
「大丈夫か?」
身体をゆさぶるのもためらわれたので、保坂は有里の耳許に口を近づけ、声を張り上げた。
「だ……れ……?」
有里の視点は、虚空をさまよったまま保坂には向けられない。まさか、見えていないのか? 耳も、彼の声を聞き分けられないような状態なのか?
質問を浴びせたい衝動をぐっとこらえ、冷静になれと胸中に繰り返していると、いくぶんしっかりした声で、有里が「なんだ」と発した。
「ホサカじゃない」
「よかった、有里……大丈夫なのか?」
「うん……」
力なくうなずく有里は、あの過酷な実験の日々を連想させた。
「泣いてるの……? 変なの」
くすっという笑い声が保坂の耳朶を打った。彼女は微笑んでいた。可笑しそうに。顔の筋肉を動かすのもつらいほど消耗しているであろうに。
「すごいでしょう? 私。これで二連勝よ」
「ああ。ほんとうに凄いな、君は……」
「でしょう? だから、ご褒美を頂戴」
ご褒美という妙に幼い言い方は、初めて会った頃の彼女に戻ったようだった。保坂は鼻を一度すすると、わかったとうなずき、何が欲しいのか訊ねた。
「私、すごくおなかがすいたの。……だから、何か美味しいものを、おなかいっぱい――」
研究所を脱出するときに持ってきた食糧は、例によってカップめんと、携帯用の栄養食が数箱だけで、有里の要望には応えられそうになかった。
どの道、再生に大量のエネルギーを取られているので、固形物を消化するのはきついだろう。摂取した毒を分解したり、体内で毒物を再構成したりといった能力も恐らくは使えまい。今の彼女は、ただの人間よりもか弱い存在だった。
きちんとした食事は町に出てからだと言い聞かせ、今は手持ちの栄養剤を注射するにとどめた。そういった事情をどこまで理解しているのかはわからないが、有里は存外素直にうなずき、クリスマスを待ちわびる子供のように「楽しみ」と言った。
考えてみれば、彼女は生まれてこのかた、栄養剤や点滴で育てられ、まともな食事をした事がほとんどない。唯一あるのが、医務室でリンゴを食べた経験だ。知識としては人間の食文化に関する情報をかなりの分量、学習しているはずなので、あのリンゴをきっかけにそうしたものに興味を持ったとしても、それはごく自然なことだろう。
町へ出たら、財布と状況の許す限り、色々なものを食べさせてやろうと保坂はひそかに誓った。そこではたと、自分はカップめんには異常なほどのこだわりがあるが、それ以外の料理についてはこれまであまり注意を払ってこなかったこともあり、たいした知識を持っていないのだと気づいた。己の食に対する姿勢の偏狭さを今更ながら自覚しつつ、それならそれで、有里にカップめんの素晴らしさを教え込むという手もあるなと考える。
(いや、まてまて!)
科学者らしく自分を客観視する保坂のもう一つの意識が、その思いつきを否定した。どうせなら、色々な料理を味わわせて有里の驚く顔や喜ぶ顔を見るほうがいい。
保坂がそうしたやくたいもない考えをめぐらせている間に、有里は多少回復してきたようだった。表情はまだ精彩を欠いていたものの、出血は止まり、頬にもかすかな赤みが差していた。
もう動かしても大丈夫だと判断した保坂だったが、さすがに有里を抱き上げるのには躊躇いを覚えた。戦闘から多少時間経過していたとはいえ、服にしみついた血が乾ききるには至っておらず、彼女の開発育成に関わっていた者の一人としては、それが持つ毒性について思いをめぐらさずにはおれなかったからである。
「ええい、構うか!」
迷っている時間も惜しい。保坂は思い切って手をのばし、有里を両腕に抱えた。
持ち上げてみて、保坂は愕然とした。少女の身体は、信じられないほど軽かった。
――こんな身体で、あの化物たちと戦ったのか。
いつまでも動こうとしない保坂を不審に思ったのか、有里が下から彼の顔をのぞきこんできた。何か返そうとしたが、息がつまって言葉が出てこなかった。
彼女が見た目どおりの生き物でないのだとわかっていても、暗澹たる気分に胸がふさがれるのを止めることは出来なかった。彼の記憶には、いまだ初めてA.D.A.にやって来た日の、君嶋の後ろに隠れてこちらをじっと見つめていた幼い有里の姿が焼きついていた。
(ホサカ――ユキ?)
舌足らずでか細い、彼女の声が蘇る。
(ユキ……ユキ……ユウリと似てる)
そうだ。自分と有里はとてもよく似ている。共に運命に翻弄されるようにA.D.A.から逃れ、互いに支え合わねば生きて行くことすら叶わない。二人は、どちらも絶望的な旅路を選ばざるを得なかった惨めな弱者だ。
しかし一方で、二人はあまりにも違う。それは、人間とMであること以上の、もっと本質的な部分での相違であるように、保坂には思えた。
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