終章 2

 ホテルから出ると、山頂から身を乗り出すようにした太陽が、疲れた目にはほとんど暴力的とも言える光を投げかけてきた。その光によって鮮明に浮かび上がった光景を目の当たりにした保坂は、しかめた顔にさらに深いしわを刻んだ。

 そこには累々と横たわる、セキュリティ統括部の面々の骸があった。頸部や心臓といった急所をえぐられ、大半は唐突に我が身に降りかかった“終わり”を理解する前に絶命したのであろう、目や口を丸くした、見ようによっては滑稽ですらある表情のまま、大地を抱擁していた。

 一秒でも早くこの場から立ち去りたい保坂は目を伏せて早足になったが、有里は骸の群れの中にあるものを見つけ、「待って」と声を発した。

 動いていた。

 かすかな――そうと指摘されなければ見過ごしてしまうほど、本当にかすかな背中の動きが、その男がまだ生きていることを示していた。

「……土田……か……?」

 壊れた笛の音のような声で男は訊ねた。首筋にぱっくりとあいた傷口からのぞくピンク色と、血の気のひいた顔色とを見比べれば、男がもう助からないと知れた。

「いいえ」

 有里は保坂の腕から抜け出して、自分の足で地面に立った。少なくなった血液が下にひっぱられるような心地がして、有里は一瞬よろめいた。心配顔の保坂に大丈夫とうなずいて、男――穐田に近づいた。穐田は「ああ」と得心したようにうなずき、にごった瞳を有里に向けた。

「仇を……討ちに来たか……《ベラドンナ》」

「仇? あなたが?」

 有里は穐田の傍らにすとんとひざを落とした。

「博士を殺めたのがあなたでない事は、もう知っているわ」

「では……いまさら俺に何の用がある?」

「蓮宮真理子という人を知ってる?」

「……いや……」

 穐田は蒼白になった唇をかろうじて動かして答えた。

「誰なんだ、その人は」

 背後から保坂が訊ねた。有里は土田から聞いた話をかいつまんで説明した。

「そんな……」

 保坂は声を詰まらせた。

「それじゃあ、先生は自分の復讐の道具とするためにきみを造ったというのか?」

「土田の――あるいは所長の言葉を信じるなら、そういう事になるわね」

「なるわねって、きみはそれでいいのか、有里」

「Mは道具なのよ、ホサカ。それに、私にとっては博士がすべて。博士がそうあれと望んだなら、私はどんなものにでもなるの」

 自分が何のために造られたかなどどうでもよい。復讐のためだろうが、国家の秩序を守るためだろうが、有里にとっては同じ事だ。

(でも……何だろう? この、胸がもやもやする感覚は)

 二の句を継げなくなった保坂から、有里は目をそらした。そして、ことさら他のものを視界に入れぬようにするために穐田を注視する。

「私は、博士のことをもっと知りたい。博士がなぜ殺されなければならなかったのか、そのわけを知りたい」

「知って……どうする? やはり仇を討つのか……?」

「私は博士の仇を討とうとは思わない。理性的な人間ならこう言うのかしら。――『そんな事をしても、死んだ人間は生き返らない』――その通りだと思うわ。ましてやA.D.A.は強大で、戦って得るものはなく、リスクばかりが大きい」

それに、と有里は言葉を継いだ。

「もう一度いうけど、私は……道具だから。道具の行動を決めるは持主であって、道具自身ではありえない」

「ならば……その……持主の遺志を……まっとうするのか?」

「ええ。でも、それはあなたが考えているような事じゃないわ。博士が私に残した言葉はこうよ。『私に何かあっても、決して誰も恨んではいけない』それから――」

 有里は振り向かず、視線をちらりと横に振っただけで、意識だけを保坂に向けた。

「『彼を助けてやってくれ』」

 保坂が身体をこわばらせるのが気配でわかった。

「本当に博士が復讐を願っていたのかはわからない。仮にそうだとしても、実際に口にされなかったのなら、それは無かったのと同じなのよ。博士は私に良いように、沈黙を選び、別の道を示してくださった」

 ふん、と穐田は、口許に馬鹿にしたような笑みを浮かべた。お前がそう信じたいのならそうするがいいとでも言うような、若干の哀れみさえ込めた笑みは、土田と戦っている最中にわきあがった感情を思い出させた。

 目の前にいる相手を消し去りたいというあの感情が憎しみというものならば――そんなものを自分が持っていた事自体、有里には驚きではあったが――復讐も、それを望む人の心も理解できる気がした。けれども、だからと言ってそれに身を任せるわけにはいかない。繰り返すようだが、それはあまりにリスクが大きく、また、博士の言葉に反する事にもなるからだ。

「だが……A.D.A.は……お前たちを……追って来るぞ」

「ふりかかる火の粉があれば、払うだけだわ」

 そう言い切ると、穐田は「いい覚悟だ」と呟いてにやりとした。

「……俺は……Mが嫌いだ……だが……あんたは……」

 穐田は最後の力をふりしぼるように腕をもちあげ、有里の顔に向かって手をのばした。だが、指先が彼女に届くより先に、腕は地面に落ちた。ぷつりと糸が切れたような、そんな落ち方だった。

 ――今、目に見えぬ何かが消えた。

 これが人の死か。Mの場合と違って、人の遺骸はすぐに分解はされないが、それは些細な差異にすぎない。

 有里はこの穐田という男を知らない。

 どのように生まれ、どのような道を歩んでここに来たのかを知らない。

 有里にとっての君嶋のように、彼にも大切な人がいたのだろうか。あるいは彼を大切に思う人は。

「有里」

 名を呼ばれ、有里は自分が呆けたようにかたく握ったおのが拳を見つめていたことに気づいた。

 心配そうにこちらを見る保坂を振り返る。有里は口をひらきかけてやめた。今はまだ気持の整理がつかない。博士のことも、保坂のことも、自分自身のことも……

 それでも朝の光は温かく、すべてのものに降り注いでいた。

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