怪物 6
「なるほど」
伊達はべろりと二つに割れた上唇をなめた。
「川を渡ったと見せかけて、もと来た道を戻って待ち伏せていたというわけか」
そういえば、最後に彼女が木に登った痕跡が、川に至る直前にあった。見れば、見晴らしのよさそうなしっかりした木がその辺りに立っている。あそこで有里はこちらのようすを窺っていたのだろう。
「大した度胸、大した自信と褒めてやろう。だが――」
伊達の表情が歓喜に歪む。
「無謀で愚かだ。何故なら、お前は俺に叩き潰されるために残ったようなものだからな! まったく感謝に耐えんぞ! ありがとう!」
彼は両手を広げて哄笑した。有里はそれを、冷ややかな目で見つめている。
「そういや、保坂弟の姿が見えんな。安全なところに隠したか?」
笑いを収めて伊達は訊ねた。
「弟?」
「ああン? そういや、お前は知らねえのか。あいつには姉キがいてな、長田所長の秘書をしてるんだ。俺たちにとっちゃあ、あの女の方が馴染みが深いんだが」
「ふうん」
有里は、さして興味がなさそうな態度でうなずいた。
「ところであなた。たしか、ダテといったかしら。その格好、虎ね?」
「おう。伊達定道。コードネームは《クリムゾンタイガー》ってんだ。覚えててくれて嬉しいぜ」
有里の口許がほころんだ。声もたてず、ただ、きゅうっとくちびるの端を持ち上げるだけの、暖かさの欠片もない笑い。
「私も、嬉しいわ」
――あなたとまた会えて。
伊達は怪訝に思ったが、すぐに彼女の言葉の意味に思い至った。
「なるほど。地下室でいたぶられた礼がしたいってワケか」
有里は答えず、からかうように小首をかしげた。
「生意気なんだよ! 小娘がァッ!」
伊達は一息に川を飛び越えて有里との距離を詰め、無造作とも言える動きで太い腕を振った。
有里はとっさに腕を交差させて防御の姿勢を取った。そして、その姿勢のままありえないほどの勢いで頭から森に突っ込んだ。
最初に有里が激突した木が、根元から弾けるようにして折れた。それでも勢いは止まらず、有里は後方にある木をさらに数本なぎ倒した。どれも大人の胴ほどもある太さの木だった。
「――――ッ!」
有里は声もなく呻いた。
受身を取れるような状況ではなかった。並の人間であれば即死する衝撃だったが、彼女はまだ生きていた。
明確なダメージを与えたのは三箇所、と伊達は計算した。彼の攻撃を受け止めた両腕と、木に叩きつけられた背中だ。どちらかと言えば背中の方が重症だろうが、骨を痛めていなければ致命傷にはなるまい。背中は、人体でもっとも衝撃に強い部分でもある。
伊達は虎と人の
余裕たっぷりに、伊達は倒れた少女に近づいた。
(一撃じゃ壊れないか。さすがだな。だが――)
そうでなくては面白くない。
伊達は、何かをつかむような形に右手をひらき、尖った爪の生えた指を動かした。
「む?」
伊達は足を止めた。有里が、まるで今の攻撃で何のダメージも負っていないかのように、すっくと立ち上がったのだ。
おい――
そう、声をかけようとした時、少女はすいと横に動き、樹々の間に紛れ込んだ。
伊達は鋭く舌打ちした。
「逃がすかよ!」
罠に誘い込むつもりかも知れなかったが、恐れる気持はなかった。
己の能力に絶対の自信があることもそうだが、何よりこの、夜の森という戦闘の舞台が、彼にとっては圧倒的に有利な状況を作り出してくれるからだった。
虎という夜行性の獣の遺伝子を持つ彼は、当然のこと暗視能力にも優れている。加えて嗅覚、聴覚においても相手より数段勝っている。一撃必殺の武器を持つ者同士、先に敵の位置を捉えた方が――あるいは、一度捉えた敵を見失わずにいられる方が勝つのは自明の理と言えた。
(逃がすかよ……)
虎は、狩りをするものである。
虎は、捕食者である。
そして虎は、絶対的な強者である。
力が両の掌にみなぎってくるのが感じられた。その手に、約束された勝利をつかむべく、伊達は有里を追って森に入った。
「おうい」
伊達は大声で呼びかけた。
「俺はここだぜ。隠れてないで出てきたらどうだ?」
よく言う、と有里は心の中で呟いた。
彼女も優れた感知能力を持っているが、こと聴覚と嗅覚に関しては、敵のそれは比較にならないほど優秀だ。加えて夜行性の動物ならではの暗視能力。彼女の潜んでいる場所などとうに判っているに違いない。対して、彼女が頼れるのはせいぜいが音――加えて、森林での移動速度においても伊達に軍配が上がる。はっきり言って、この状況は彼女にとってあまりに不利だった。
それなのに、伊達はどうしてわざわざ、自らの位置をしらせるような真似をするのか?
答えは、彼が近距離攻撃型のMだからである。
目標との距離を取りすぎると、攻撃に十分な威力を乗せることが出来ない。だから、ああやって有里を自分の有効射程内までおびき寄せようとしているのだ。
「出てこないつもりか? けど、このままじゃ埒があかないだろ。それどころか、ぼやぼやしてたら他の奴らも追いついてくるぞ」
その通りだ。追っ手は伊達一人ではない。
「俺から走って逃げるのが不可能なのは証明済みだよな? だったら、ここで俺を倒すしかないだろう。俺としても、あんたとはサシでやり合いてえんだ。その方が面白いし、何より手柄を独り占め出来る」
有里を舐めきった科白を吐いて、伊達は哄笑した。そんな安い挑発に心を動かされる有里ではなかったが、前半部分には賛成だった。なんとしても、伊達はこの場で始末しておかねばならない。
有里は手近な木から折り取った枝を自分の掌に突き刺した。枝の先端に付着した血液には、狩猟生活者が矢に塗るような強力な神経毒が含まれている。いわば、即席の毒手裏剣だ。
声のする方に、一応足音を忍ばせて近づき、木の陰から伊達の姿を確認する。姿といっても、黒くて大きな影が動いているのしか判らない。だが、あれで間違いはない。そこをめがけて立て続けに二本、枝を放った。
はじめから命中するとは思っていない。これはあくまで牽制だ。すぐさま走って移動し、今度は三本――
その時、地鳴りにも似た重低音が辺りを覆った。
突風が吹きぬけたのかと、一瞬、思った。
気がつくと身体が宙に浮いていた。目の前が妙にすっきりしていると思ったら、そこに並んでいた樹々が根こそぎ吹き飛ばされていた。その中心に、伊達が立っていた。左腕を、薙ぎ払うように横に動かし終えた、その姿勢で。
「ハッハァ!」
影が地を蹴り、眼前に迫る。右腕――いけない!
枝を握った手を前に突き出した。伊達が腕を止める。代わりに蹴りが肩を打った。骨が軋み、有里は疾走する車体から外れたタイヤのように何度も地面を転がった。
木立に突き当たり、ようやく回転が止まる。目を上げる。牙を剥き、爪を突き出した伊達が駆けてくる。何箇所か骨が折れていたが、痛がっている場合ではない。横に跳ぶ。背後で炸裂音が轟き、砕け散った木片や土がばらばらと降りそそいだ。
(単なる怪力じゃない)
伊達の攻撃の特性に、有里は早くも気づいていた。
最初に食らった一撃より、後に放った方が明らかに威力は上――それも、桁の違う破壊力だ。ただしそれは、両腕から繰り出す攻撃に限った話で、伊達の蹴りは、威力こそあったものの、あくまでただの蹴りに過ぎなかった。
(たぶん、こいつの攻撃は、両手に力を溜めて放つタイプ……力を溜める時間が長ければ長いほど、その威力は増大する)
敵に時間を与えてはならない。狙うは短期決戦だ。
(焦るな)
変わらない。何も変わっていない。当初の予定と、何も――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます