第三章 黙劇(マイム)

黙劇 1

 あの方は私に言った。

 大きくて温かい手を私の額に置き、

 海のように深い声で。


 毒に触れるように人間と交わり、

 毒を理解するように人間というものをれ――と。


   ◇


 五日ぶりに白衣に袖を通すと、自然と気持が引き締まった。

 ちりちりとした緊張が心地よかった。復帰はまだ早いのではないかと危ぶむ声もあったが、身体が治っているのに寝ているというのは我慢ならなかったし、多忙な研究室の現状を考えれば、いずれにせよ時を置かず現場に駆り出されるだろうことは容易に予想できた。

ミーティング・ルームに入ると、先に来ていた君嶋と一瞬目が合った。

(すこし痩せたか?)

頬の肉が落ち、目つきが鋭くなっている。このところ、実験のスケジュールが押していてハードだと瀬田が話していた。疲労は溜まっているが、気力は衰えていない――君嶋の顔つきからはそんな印象を受けた。保坂が会釈をすると、君嶋は無言で手許のファイルに視線を落とした。

肩の後ろを叩かれたので振り返ると、瀬田がいた。

「大丈夫……みたいね」

 にこりと笑う。彼女は相変わらずであった。こちらを気遣いながらも、決してやる気を削ぐような真似はしない。いい先輩に恵まれた――今更ながら、その幸運に感謝する。

 淡々としたミーティングが終わり、彼らはアトリエへと向かった。

 不快だった工房の空気も新鮮に感じられた。深く息を吸うと、初めてここにやって来た日に戻ったような気がした。

 カプセルが開き、有里が身体を起こすのが見えた。その途端、保坂の心臓が大きく跳ね上がった。病室での会話が蘇る。立っているだけなのに呼吸が乱れた。かちかちと鳴りかけた歯をぐっと噛み締め、保坂は挑むような目つきで有里を睨んだ。わかっていたはずだ。ここに来れば彼女に対面するのことはラーメンはのびたら不味いのと同じくらい確実なことだった。心の準備はとうに出来ていたはずなのに、何を恐れるのか。

有里は何かを探すように首を左右させていたが、研究員の列の後ろにいた保坂と視線が合うと、弾んだ声で彼の名を呼んだ。

「ホサカ!」

 有里はカプセルの縁から降りると、保坂の方に小走りでやってきた。

「良かった。もう、来ないんじゃないかと思ってた」

「いや……そう?」

 彼女の顔を正面から見ることが躊躇われ、応じる口調も歯切れの悪いものとなった。

「有里」

君嶋の強い声で有里が呼び戻されると、保坂はほっとした。君嶋の左右に控えていた二人の研究員が、ベルトと金具のたくさんついた分厚い布を有里の検査着の上から巻きつけた。薬物による苦痛で有里が暴れてもいいように、今では実験前にあらかじめ拘束衣を着用させるようになっていた。本来の予定では、拘束衣の使用はもっと後になるはずだったのだが、あの事故のせいで時期が早まった。予想外の成長――それは、製作者側としては喜ぶべき誤算のはずだ。

有里は、身体の自由を奪われることに、特別な感慨は抱いていないようだった。君嶋の横顔をじっと見詰め、彼と目が合うと、はにかんだようにうつむく。これから我が身にふりかかることも、拘束衣の意味も、彼女は知っているはずなのだが。

「どうした」

 不意に声をかけられ、保坂は跳び上がりそうになった。

「怖い顔しやがって。そんなにアトロパが怖かったのか? それとも、ヤツが先生に夢中なのが気にいらねェのか?」

 水原が口の端を持ち上げて言う。この男は、他の場所の血色は悪いくせに、唇だけはやけに赤い。そこがまた、生理的な嫌悪を催させる要因の一つになっている。

 とんだ見当違いだ――そう言ってやりたかったが、保坂はぐっとこらえた。

「でもよ、ハタから見れば、お前さんだって別格の待遇じゃねえか。あの女神様が、先生以外で自ら話しかけるなんて、今までなかった事だ」

「そうですか……?」

「ああ。みんな言ってるぜ。羨ましくてちびりそうだってなァ。お前もまんざらじゃないだろう?」

 水原はおかしそうに笑うと、保坂の肩をたたいて離れて行った。彼に触れられた箇所を消毒洗浄したい衝動に駆られながら、保坂はつぶやいた。

「何を……バカな」



 午前の実験は思うようにはかどらなかった。

 これまでの実験で耐性が増しているのか、有里に投与された毒がなかなか効力を発揮しなかったためである。

「分解速度が上がっているのでしょうか?」

「それだけではない。以前投与された同系統の毒の情報を応用したと見るべきだろう」

実験に使用される薬物の毒性は、日を追うごとに強力になっている。発癌物質や鉱物毒のような時間をかけて細胞や組織を死に至らしめる種類の毒もあるが、割合としては少ない。求められるのは、慢性的な毒性よりも即効性だった。

 瞬間的に神経を侵し、呼吸を止め、全身を麻痺させる。あるいは皮膚を糜爛させ、あるいは血液中の酸素と強力に結合する。

 いずれの効果も、瞬時に対象を無力化できる。この場合、無力化とは多く対象の死を意味する。

 もっとも、有里は生半可な毒では死なない身体だ。それだけでなく、毒による苦痛を和らげることも本人がその気になれば可能だった。たとえば、彼女は脳内麻薬を自由に放出できる。過去に投与された神経毒を体内で再構成し、痛みを止める麻酔として用いることも、投与された毒の成分を分析して解毒剤を作り出すことさえ難しくない。

 だが、それをするのはまだ先の話だ。現段階では、あえて体内で自然に毒が分解されるのを待ち、その毒の特性を理解することに重点が置かれている。毒を無効化する能力などは、乱暴な言い方をすれば、毒を理解すれば勝手に身につくのである。

 次の薬品を投与すべきでは、という保坂の意見を一蹴し、君嶋は毒の濃度と分量を増やすよう命じた。

「同じ毒を、もう一度ですか?」

 実験前の予測では即死レベル――だが、今の有里ならば、分解に時間はかかるだろうが十分に耐えられるだろう。一度分解が出来たという事は、その毒はもう有里の力の一部になったという事である。苦痛が必要なのだ、と君嶋は言う。しかし、それだけのためにわざわざ……

 意識を取り戻した有里がこちらを見る。保坂の手の中にある注射器に気づき、身体をこわばらせたのが判った。保坂は、乱れた心を落ち着かせるために唾を飲み込んだ。

まるで、あの事故の復讐をしているような気分だった。しかし、高揚や快感とはまるで無縁だ。保坂には、自分たちのしている行為がひどく陰惨なものに思えた。

このとき感じていたものが罪悪感だと気づくのに、しばらくかかった。



 有里を休ませ、監視室に入ると、同僚たちの背中が見えた。彼らは端末の画面や計器をにらみながら、今の実験データをまとめるために黙々とキーボードを叩いている。

「おつかれ」

 保坂からもっとも近い席に座っていた瀬田が、短くなったタバコを灰皿に押し付ける一瞬、そう声をかけた。新しいタバコを咥えて火をつけると、彼女はまた画面に向かった。

 保坂は、机と机の間の狭い通路を通って、部屋の隅においてある長椅子に腰をおろした。彼に続いて監視室に入ってきた水原が横に座った。彼も今日は実験室組だったのだ。

「吸うかい?」

「いえ、僕は吸わないので」

 保坂は水原が差し出したタバコを断った。

 時計を見ると十四時をまわっていた。先に昼食を取りに出てもいいが、もう少ししたら瀬田も作業を終えるだろう。

「悲鳴、あげなくなりましたね」

 張りつめていた緊張の糸を解くと、そんな言葉が漏れた。つい習慣で敬語になってしまったが、保坂としては誰に話しかけたつもりでもなかった。というより、自分が声を出しているという意識もなかったものだから、水原が「ああ」と答えたことに、保坂はひどく驚いた。

「つまらんよなあ」

 舌打ちの音が続いた。

「つまらんよなあ、実際。泣き喚くのをやめちまったら、楽しみが半減するじゃないか。まったく、つまらんよ。なあ?」

水原は、そげた頬を神経質そうにひくつかせた。

「けど、まだ、こう……注射器を持って近づくと、脅えた目をしやがるぜ。それに、首筋に針をブチ込んだ後の、必死に苦痛に堪える表情……あれはあれでけなげというか、くるものがあるな」

 俳優の演技を評するような口調で水原は語った。その声を聞くたびに、保坂は胸の内に不快なものが溜まっていくのを感じた。

「アレは、Mの中でも極め付きの化物だが、ああいうところは可愛いもんだよな」

「やめて下さい。そんな言い方」

「どうした? ご機嫌ななめじゃないか」

 水原は大仰に驚いて見せた。

「まさか、ほんとにアトロパに惚れちまったって言うんじゃないだろうな? おいおい、冗談だろ」

「違いますよ」

 保坂は顔をそむけて、満面の笑みを浮かべてにじり寄ってくる水原を視界から追い出した。

「瀬田さん」

「ん、終わったよ」

 瀬田が立ち上がって伸びをするのを見て、保坂はほっとした。これ以上、水原につきあわなくて済む。あまり露骨に避けると後が面倒だが、瀬田のタイミングは絶妙だった。

「それじゃ、お先に」

「おう」

 水原はまだ何か言いたげだったが、わざわざこちらから訊ねようとは思わなかった。それよりも、一刻も早くこの場を立ち去りたいという気持が先に立っていた。

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