狂気 3

 瞬く間に春は過ぎ、窓の外ではしのつく雨が降り続いていた。

 実験は休むことなく続けられ、有里の肉体には着実に毒物が蓄積されていった。もう、爪で傷つけただけでマウス程度なら中毒死させられるほどになっていたし、彼女の体液をうっかり目にでも入れようものなら確実に失明するだろう。

 その日は君嶋博士が不在だった。

 なんでも所長からの呼び出しがあったのだそうだ。午後には戻るとのことだったが、詳しい内容は誰にもしらされていないのか、誰に訊ねてもそれ以上の答えは得られなかった。

 作業自体は、あらかじめ手順の指示が伝えられているので問題はないとのことだった。それ以外はいつもと同じ。カプセルが開いてから研究塔に向かうまでの一連の儀式は、すでに君嶋研究室の日常の一部となっていた。

 けれども有里にとっては、そのたった一つの違いが何よりも心細く感じられた。

(博士……)

 有里は不安を口に出さず、己の胸の内に留めた。彼女が心を開くのは唯一人、君嶋博士のみである。

 もっとも、博士が戻って来ても黙っておこうと有里は決めていた。そんなことをすればきっと叱られる。厳しい博士は、有里の甘えを快く思わないだろう。

 雨に濡れた窓を見ると、少し歪んだ自分の顔が映っていた。


 所長室――入って右手に応接室が続く。

 四角いテーブルにソファが二つ。棚には長田が世界各地で蒐集したわけのわからない民芸品が並び、壁にはクリムト晩年の作品である『死と生』が飾られている。

 二人の科学者は向かい合って座っていたが、お互い相手の顔を見てはいなかった。君嶋はひざの間で手を組んで目を伏せるようにしており、長田は手にとった写真立てを眺めていた。

「きみの新作、アレは何だね?」

 長田が訊ねた。別段何かを含んでいるようには聞こえない、あっさりとした口調だった。

「『アレ』とは?」

「とぼけないでくれたまえよ。彼女さ」

「それを訊くためにわざわざ呼んだのか?」

 むっつりと君嶋が答えた。明らかにこの話題を歓迎していない雰囲気だった。

「たまにはムダ話もいいだろう。きみのスタッフは優秀だから心配いらないよ」

「冗談ではない。この忙しい時期に」

「ああ、むろん冗談ではないさ」

 立ち上がろうとした君嶋を、長田は一瞬写真から目を上げて制した。

「ともかく、質問に答えてくれないかね」

「……偶然だろう」

 君嶋は肩をすくめた。

「偶然! ハッ! 軽々しく使うべき言葉ではないね。ぼくらの立場からすれば」

「もともと、ありえぬ事ではない」

 君嶋の声は低い。どこか、慎重に言葉を選んでいるという風に。対照的に長田は陽気だった。彼の場合、その陽気さに理由はない。日常的に躁の状態にあるといってもよかった。

「まあね。何しろすべてのMには彼女の卵細胞が使われているんだ」

「今更、あてつけとでも思ったか?」

 君嶋は、無意識のしぐさで胸元をさぐった。そこには彼が肌身離さず持ち歩いている十字架型のペンダントがある。

「誤解しないでくれたまえ。ぼくはむしろ感謝しているんだ。懐かしい顔を見られて」

 写真立ての写真には、数人の人間が並んで写っていた。中心には、若き日の君島と長田が写っている。長田は、微笑みというには少々大きすぎる笑みを浮かべながら、親指でそれを撫でた。写真のその箇所には、女性らしき人物の顔があった。

「偶然……それとも、奇跡のわざか」

 長田はしばらくそうしていたが、やがて写真立てを脇に置き、君嶋に向き直った。

「ぜひ、一度ちゃんと会いたいものだ。彼女に」

「……完成の暁には」

 君嶋の答えは、一拍ほどの間をおいて発せられた。

「楽しみにしているよ」

 長田の表情が、満面の笑みへと変わった。


 痙攣が収まるのを待って、保坂たちは少女に近づいた。

 マスク越しにも異臭が鼻をつく。血と薬品と体液、それに吐瀉物が混じり合った、顔をしかめずにはおれない強烈な匂いだ。

 その、汚物の溜まりの中に、少女は横たわっている。

 保坂は冷めた目で有里を見下ろした。

 薬物実験が始まってから今日まで、有里に投与された毒の種類は百を超える。この日もすでに七種。由来を挙げれば、植物、動物、微生物、化学薬品に重金属。作用の違いに目を向けるならば、血液毒に神経毒、腐食毒から麻薬に至るまで――

 毒の性質を、苦痛を通して理解する。そうすることで、はじめてこの危険な武器を使いこなすことができる――それが君嶋の考えであった。そのため、有里の五感には遮断措置は施されず、例えば経口投与ならば苦痛を和らげられるような薬であっても、あえて別の方法で投与された。

 一度投与されたことのある毒ならばすみやかに分解も出来ようが、初めてのものではそうもいかない。新しい毒を試されるたびに有里は絶叫し、嘔吐し、のたうちまわり、時に気がふれたように哄笑した。保坂も、はじめのうちこそ多少の嫌悪感を味わったが、やがて慣れた。他の場所であれば異常な体験であっても、日常となれば神経が麻痺して何も感じなくなる。あらかじめ割り切って実験に臨んでいたおかげか、保坂の順応は早かった。

「見ないで……」

 消え入るような声で少女は訴えた。

「見な……いで……ください……博士」

「先生はいないよ」

 保坂がそう言うと、虚ろだった有里の目が大きく見開かれた。

「うそ……どこに……」

 記憶の混乱が見られる。先に投与した植物毒の鎮静作用によるものだろうか。

「よし。続きだ」

 実験室組のリーダーを任された研究員が言った。やせぎすで、切れ長の目に針のような眉を持つその男は水原といった。

「いや……やめて」

 いつになく抵抗を示す有里を、保坂たちは数人がかりで押さえつけた。有里はいやいやをするように首を振っていたが、視線は水原の持つ注射器に固定されていた。

『すこし休憩をはさみませんか?』

 監視室からの声が男たちの動きを止めた。水原がゆっくりと振り返る。保坂も、天井近くにあるカメラに目を向けた。そうしたからといって、監視室から話しかけてくる相手の顔が見えるわけはないのだが。

「どうしたね瀬田君。今さら気分が悪いとでも言うのかね?」

『いいえ。有里の状態が気になったもので』

 ふん、と水原は鼻を鳴らした。

「つまらん事を言うな。今いいところなんだ」

 保坂には、瀬田の舌打ちが聞こえたような気がした。

 水原と瀬田の相性は悪い。ここでの研究は楽しいと言っていた瀬田だったが、有里の薬物実験が始まってからは不機嫌そうな顔をしていることが多くなった。彼女の性格からすれば無理もないと思う。それでも仕事の手は決して抜かないのだから、さすがと言うべきか。うまく心の中でバランスを取っているのだろう。

 一方、水原もまた妥協のない姿勢で仕事をしていたが、彼の場合、己の嗜虐性を満足させるという動機が知識欲と拮抗しているように――否、ときおり前者が後者を上回っているようにすら見えた。かくいう保坂も、この男は好きではなかった。

「水原さん……」

「なんだ、お前も反対なのか?」

ぬるい奴だ、と言いたげな目つきで水原は保坂をにらんだ。

「い、いえ。ですが、たしかにようすがいつもと違うようですし……」

「構うな。成長して妙な知恵をつけてきただけの話だ」

 水原は、床にまたくずおれていた有里の腕をつかんでひっぱり上げた。

「そうだ、保坂」

「はい」

「お前がやってみるか?」

 差し出された注射器を前に、保坂は困惑した。

「どうした。怖いのか?」

「い、いえ。そうではありません……ですが……」

薬物を投与するという重要な役目は、これまでは君嶋か、さもなくば水原のようなベテラン研究員のものではないのか?

『水原さん、勝手な真似は――!』

「そう構えるな。誰がやったからといって結果が変わるわけじゃないんだ。それに――」

 瀬田の制止の声を無視して、水原は保坂の耳許に顔をよせた。

「お前はただの新人じゃないんだしな」

「………」

 ぽんぽんと肩を叩かれたが、保坂は首を動かすことが出来なかった。水原がその手に注射器を握らせた。

「さあ、やって見せてくれ」

『水……保坂くん!』

水原に言っても無駄だと悟った瀬田が、保坂に呼びかけた。

「大丈夫ですよ、瀬田さん」

 保坂は背中ごしにそう返し、注射器の安全弁を外した。取り付けられた薬ビンの中身が注射器本体に吸い込まれていく。針先にかぶせてあるキャップをはずすと、透明の液体が撥ねた。

「いや……いやぁ……!」

「大人しくするんだ、有里」

 そうだ、というように、水原がうなずいた。

「わがままを言って君嶋先生を困らせるものではないぞ」

 彼がそう囁いたとたん、有里は身体をこわばらせ、次の瞬間には全身の力を抜いていた。あまりに劇的な効果に保坂が呆然としていると、水原が何をしていると急き立てた。慌てて、少女の腕に注射器の針を押し当てる。有里は両目をかたく閉じ、ぐ……と咽喉が絞られるような声をあげた。

「よくやった」

 水原の唇がマスクの下で歪んだ。

「さすがは保坂女史の――」

「姉は関係ないでしょう」

 保坂は顔をしかめた。姉に取り入るつもりなのか知らないが、こんな時に聞いて愉快な名ではない。水原は詫も何も返さず、笑みを大きくしただけだった。

「み、水原さん……ッ!」

 突然、研究員の一人が叫んだ。投与された毒による苦痛で、有里が暴れだしたのだった。

「よし、離れろ!」

 水原はそう命じると、真っ先に有里から手を放して後ろの壁まで後退った。そのせいで有里を押さえていた力のバランスが崩れ、自制を失ったMの腕力に、研究員の一人が引きずられた。

「まずい!」

 ただのMならば怪我をしてもそれだけで済むが、有里は全身に猛毒を溜め込んでいる上、床にも毒を含んだ血液や薬品がぶちまけられている。

 助けるか? だが、自分一人が行ったところでどうにかなるのか?

 しかし、黙って見てはいられない。

「何してるんですか! 手を――はやく、手を放すんです!」

 保坂は意を決し、右に左に翻弄される男に向かって手をのばした。保坂の声が聞こえたのか、その男は有里の腕にしがみついていた手を放し、そして――保坂とは反対方向に飛んでいった。

「あ、あれ?」

 タイミングの問題であろう。保坂の目の前には、男の代わりに有里の背中があった。とっさに受け止める。痙攣する有里の筋肉の震えを、早鐘を打つような心臓の動きを、手のひらに感じた。

「アアアアアアァ……ッ!」

 獣のような咆哮。

「有里、落ち着け!」

 腕に力を込めたとたん、有里が物凄い勢いで振り返った。手のひらに痛みが走る。見ると、手袋が裂け、皮膚に赤い線が走っていた。爪? いや、ちがう。そんなところに触ってはいない。振り上げた有里の手。小指の付け根あたりに、二センチほどの棘が生えていた。

「あ……」

 自分の身に何が起きたのか、保坂の思考はとっさに把握することが出来なかった。だが、肉体のほうでは、手のひらから体内に侵入した異物にすみやかな反応を示し、まずは両脚から体重を支える力を奪った。

(ど……どうしたんだ……僕は……?)

 見ている景色がいきなりひっくり返り、丸い光が視界に飛び込んできた。それが天井の照明だと気づいた保坂は、どうして自分はのんびり床に寝転がってそんなものを見ているのかと自問した。次に、あの照明は煌々と輝いているはずなのに、どうしてだんだんと目の前が暗くなっていくのかと考えたが、そのどちらの答えも得ることの出来ぬまま、彼の意識は闇に沈んでいった。

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