黙劇 8
開錠をしらせる電子音が鳴り、分厚いドアが横に滑った。一人、データ資料室に残って作業をしていた保坂は、こんな時間に誰だろうと顔を上げた。
「あ……」
保坂は顔の筋肉がひきつるのがわかった。供もつけずに入ってきたのは君嶋であった。
「何か、ご用ですか?」
口ごもりながら保坂は言った。実験室での一件以来、君嶋とはまともに顔を合わせていない。
「なに。廊下を歩いていたら、ここの灯りがついていたのでな」
「は、はあ」
「どうした。浮かぬ顔だな」
「え」
保坂は全身をこわばらせた。額から頬へと、汗が伝う。突然の君嶋の登場に彼は混乱していた。
まず考えたのは、上司にかけられている疑いを本人に伝えるべきか否かということだった。智慧の話を完全に信じたわけではない。だが、真実がどうあれ、長田所長なり智慧なりが君嶋を疎ましく思っているのはたしかだった。
君嶋の身を案ずるならば話すのが筋だろう。しかし、君嶋との間にあるわだかまりが保坂の口を重くした。君嶋が無実ならなおさら、話したところで信じてもらえるだろうか。中央塔に問い合わせたところで向こうがそれを認めるはずもないのだ。突飛な作り話をして自分に取り入ろうとしていると思われるのではないか。そうなれば、君嶋からは軽蔑され、下手をすればA.D.A.という組織自体からも睨まれることになる。逆に、もし智慧の話が本当だった場合は――そんなことは考えたくもない。
君嶋もA.D.A.も信じたい。だが、もし今、これを告げなかったばかりに君嶋に何かあれば――
脳裏に浮かんだ少女の顔。葛藤が葛藤を呼んで渦巻き、混乱をますます加速させ――
結果、彼は身動きが取れなくなった。
「何か言いたいことがあるのではないか?」
「そ……それは」
「聞こう。ヤボ用で中央塔へ出向くところだったが、少々遅れても構うまい」
――中央塔?
その言葉が、保坂に警鐘を鳴らした。
「いけません! あそこへ行っては――」
「ほう」
保坂はしまったと思ったがもう遅い。君嶋は面白そうに口許を歪めた。
「何か知っているのだな」
「何かって――それじゃあ、先生……」
そこから先は言うなというように、君嶋は片手を上げた。
「お前が保坂智慧に呼び出されたのは知っている。どこまで聞いたかは知らないが、私は行かねばならん」
「では……本当だったのですね……?」
「そうだ。私と長田は、いずれ対決せねばならぬ運命だった」
保坂は、科学者らしからぬ運命という言葉に、君嶋の自身への皮肉を読み取った気がした。
情報漏洩云々といった細かい話ではない。もっと大きな、A.D.A.に対する背信という事実。同時に保坂は悟った。何故、君嶋があれほど有里の完成を急いだのか。それは、長田との対決に間に合わせるためだったのだ。
「何故なんです! 対決ってどういうことですか! あなたと所長は盟友じゃなかったんですか?」
混乱と衝撃でわけがわからなくなりながら保坂は叫んだ。
「かつて私たちは、共に一つの理想を抱いていた。人類の進化という……」
保坂の目指すものと、同じ――
「抱いていた? 変わったのですか? どちらかが」
「どちらか、というのは正しくないな。あるいは、彼はずっと変わらなかったのかもしれん。変わったとすれば、私か……。そして、ある時気づいてしまったのだ。長田のやり方は危険だと」
「危険、とは……どういう……?」
君嶋はゆっくりとかぶりを振った。保坂が知る必要はないということか。
「お前を見ていて、かつての私たちを思い出した。懐かしい反面、危惧も覚えたよ。長田と同じ道を、お前も選ぶのではないかと」
ふいに君嶋の声音が、かつて保坂の聞いたことのない、優しい響きを帯びた。少なくとも保坂にはそう聞こえた。
「先生……有里も、連れて行くのですか」
「いや」
君嶋の答えは、保坂の意表をつくものだった。
「あれは置いていく。私に何かあったら、お前がどうするか決めるといい」
「来たね」
十分後、君嶋は長田と対峙していた。
長田は紫色のスーツに身をつつんでいる。A.D.A.中央研究所所長にしてM開発の世界的権威である彼の背後では、『死と生』に描かれた死神が、どこか悲しげな表情で二人の男を見おろしていた。
「きみが約束の時間に遅れるとは珍しい」
「何事にも例外はある」
「そうかね」
眼鏡の奥の表情は読めなかった。応接室の入口に、所長秘書の姿があった。長田は片手をあげて、彼女に合図した。
「君嶋クン。紅茶とコーヒー、どっちにするかね?」
「いや、私は……」
「ウェッジウェイのいいのが手に入ったんだよ。智慧クン、頼む」
君嶋の答えを待たず、長田は秘書に命じた。
「かしこまりました」
「ああ、待った」
一礼し、退室しようとした秘書を長田は呼び止めた。
「カップは一つでいいからね」
「飲まないのか?」
長田は曖昧な表情を浮かべただけで、君嶋の問いには答えなかった。
かけたまえ、と長田は君嶋に椅子をすすめた。君嶋一人を座らせておいて、長田は室内をうろうろと歩き回った。やがて彼は立ち止まると、顔を壁にかかっている絵に向けた。
「絵を描くべくして描く人間がいる」
静かな口調で彼は言った。
「同様に、歌うべくして歌う人間、人を統べるべくして指導者となる人間、あるいは人を殺すべくして殺人鬼となる人間……彼らは運命を知る者だ。運命とは、ときに災厄のように降りかかってくるもの。彼らは自らの運命を自覚し、あるいは信じて受け容れた者たちとも言える。科学者であるぼくがこんなことをいうのはおかしいかな?」
君嶋は首を横にふった。
「命を知らずんば以て君子たることなきなり、とも言う」
「ふむ」
「あんたはさしずめ、Mをこの世に送り出すべくして生まれついた人間といったところか」
「光栄だね」
長田は笑って、君嶋の向かいに腰をおろした。
「ぼくに言わせるなら、きみもそうなんだが」
「持ち上げすぎだ」
「謙遜することはない。きみがこれまで造りあげてきたMは、どれ一つとっても比肩しうるもののない奇跡といっていい。きみ以外の人間に、これほどの偉業が成せたかね?」
「………」
「まあ、運命という言い方はちょっとオーバーかもしれないね。もう少しマイルドにいうなら、分といったところかな。ところで――」
長田は、ふところから一束のファイルを取り出してテーブルに置いた。
「なんだこれは?」
「その、分をわきまえなかったある男の行動に関する報告書だ。心当たりがあるだろう?」
長田は、果物の盛られた駕篭からグレープフルーツを一つつかみ取ると、下側から親指をつっこんで二つに割った。果汁が飛沫となって眼鏡を汚したが、彼は頓着しなかった。
「言い訳はしないのかい?」
「お前の性格は知っている。行動に出たということは、すでに心を決めている」
「その通りだ! 一度決めたことを後になって悔やんだり、あれこれ迷ったりするのは凡人の所業だからね」
「変わらんな」
二人が初めて出会ったのはおよそ三十年前。その頃から、長田光は自信に満ち、尊大で傲慢な異端児だった。己の野望を熱く語るその言葉は他にはない輝きを放ち、若き日の君嶋は、羨望と嫉妬の入り混じった目で彼を見つめたものだ。
「いつからだ?」
「きみの身辺を調べ始めたのがかい? それをいまさら言ったところで何になる。もはや運命は変えられないよ。それとも、きみを売ったユダが誰か知りたいのかね?」
「いや、それは大体わかっている。ずいぶん念入りに調べたのだろうな」
「そうとも。その上で、待った」
白い歯を見せる口に、長田はグレープフルーツを放りこんだ。汁気の多い果物を咀嚼する音がいやに耳障りに響いた。
「気の長いことだ。余裕か?」
「ぼくは、いつだって、楽しいほうを選ぶんだ!」
そこまで聞いて、君嶋は立ち上がった。
「やはり、変わらんな」
そして、ふところに手を差し入れ、隠し持っていた拳銃をつかんだ。
相手に動く隙も、声をあげる間すらも与えずに、君嶋は銃をつきつけた。げっ歯類じみた、長田のその鼻先に。
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