怪物 7

「シィッ!」

 歯の間から空気を吐き出し、有里は元いた方向へ跳んだ。そこにいる伊達へ、高速の抜き手を放つ。

「おっと」

 手刀が虚空を裂いた。さらに追い討ちをかけると見せかけて、バックステップで距離を取る。

「なんだ、逃げるのかよ」

 無駄無駄と鼻で笑いつつ、伊達はその後を追った。小柄で小回りの利く身体を活かして、有里はあちこち動き回ってこちらを攪乱しようとする。樹上や幹の陰に身を隠して石を投げ、そちらに潜んでいると見せかけたりもした。

「けなげだねェ」

 彼女の必死さが、伊達にはおかしくてならなかった。小細工をいくら弄したところで伊達の五感からは逃れられない。逆に、有里の側には息を潜めた伊達を見つける手段はない。

 伊達は鼻孔をひくつかせる。先の攻撃で流れた血の匂いが、有里の位置をはっきりと示してくれている。やわらかな土を踏んで足音を消し、匂いをたどり、距離を詰める。

 そこだ――その、木の裏側!

 まわり込んだ伊達は、しかし、振り下ろしかけた爪を途中で止めた。

 そこには有里の姿はなく、代わりにぼろきれのような布が丸めて置かれていた。それは、有里が着ていた検査着の成れの果てだった。拘束衣を焼き切る際に流した血だけでなく、新しくこしらえた傷から流れる血をぬぐったために、それは強烈な血臭を放っていた。

 頭上に気配を感じ、飛び退いた伊達の鼻先を風圧がかすめた。

 ゆらりと立ち上がる有里を見て、伊達は首のうしろの毛がちりちりと逆立つのを感じた。コンマ一秒、退がるのが遅かったら彼女の手刀を受けていた。そうなっていた場合を想像しかけてすぐにやめる。

 ――恐怖は強者に似合わない。

 唇を歪めて不敵な表情を作り、十本の指を鉤のように曲げて、伊達は構えを取った。

 この間合い。有里は樹を背にしている。逃げるなら左右どちらかしかない。あるいは向かってくるか?

(かまわねえ)

 相手がどう出ようと、伊達にはそれを粉砕する絶対の自信があった。



 有里は口に含んでいた木の葉を吐き出した。

 この森でもっとも多いブナの葉を噛み潰し、その匂い成分を分析して体内で合成――そして汗腺から分泌して己の匂いを隠す……

 とっさの思いつきだったが着眼点は悪くなかった。惜しむらくは結果を出せなかったことだ。同じ手はもう通じないだろう。

 伊達との距離はおよそ三メートル。単純な腕力なら相手が上だが、こちらには一発で相手を倒せる毒がある。

 ならば、逃げるのは上策ではない。せっかく目に見える位置に敵がいるのだ。

 肺に息をため、大きく前に踏み出す。まったく同じタイミングで、伊達が後ろに退いた。

(う――)

 届かないと思ったが、すでに身体は攻撃の動作に入っている。戦闘経験の浅い彼女は、呼吸や視線で動きを読まれていることに気づいていなかった。

 腕が伸びきり、脇ががらあきになる。ざくりと爪で抉られ、血がしぶいた。

「くっ」

 腕を払うが、伊達は跳ねるようにかわし、森の奥へ逃げ込む。ここで見失ってはという思いが痛みをこらえさせ、留まりたがる両足を前に進めた。

 伊達はつかず離れず、細かい攻撃を仕掛けてはすぐに離れるという戦法を繰り返した。受ける傷は浅く、すぐに塞がるとはいえ、血を流し続ければダメージは蓄積され、体力は奪われる。そうして彼女の動きが鈍ったところに、強力な一撃が振り下ろされるのだろう。弱ったふりをして誘う手もあるが、敵の攻撃の威力を見誤れば反撃のいとまもなく勝負は決まる。

 有里はふと、周囲の植物の密度が高くなっていることに気づいた。背の高い樹が多くなり、枝葉が重なり合って、さっきまでいた場所よりいっそう深い闇を作り出している。

 ――誘いこまれた!

 そう思った瞬間、空気がうねるような気配を感じた。そちらを見るが、何もない。ただ、何かが通り過ぎた後のように、ざわざわという葉擦れの音がしているだけだ。

 ハッ――

 耳許に、生暖かい息がかかった。

 振り向くと、のしかかるような姿勢で影が立っていた。不吉に光る二つの目が、彼女を見下ろした。声をあげるより早く、左の一撃が来た。何とかかわすが、続く膝蹴りを防ぎきれずに腹にもらう。胃の内容物がこみあげたが、吐き出す前に頬を張られた。軽くはたかれただけのようだったが、頭の芯まで揺さぶられた。倒れそうになるのを必死でこらえると、髪をつかまれて放り投げられた。

 起き上がった有里が身構えるより早く、伊達が飛びかかってきた。暗くてほとんど見えもしない、棍棒のような腕をかわせたのは奇跡に近かった。伊達がするどく舌打ちする。続いて、大きく息を吸い込むような音が聞こえた。

「――――――ッッ!」

 割れるような痛みが脳髄を駆け抜けた後、気味が悪いほどの静寂が訪れた。何が起こったのか理解する間もなく、右の乳房の横に衝撃を受け、有里は地面に叩きつけられていた。

「――がっ……」

 転げまわるほどの凄まじい痛みに呼吸もままならず、咳き込むと口から血が溢れた。肋骨が何本か砕け、肺に刺さっているのだ。アドレナリンを放出して痛みを消すこともできたが、有里はあえてそうせずに耐えた。受けたダメージを確認するためである。痛みというものは、肉体の異常や限界を報せる危険信号だ。これを消してしまうと、戦っている間は楽かもしれないが、取り返しのつかない事態に陥っても気づかない可能性がある。

(まだ……いける)

 損傷は激しいが、動けなくなるほどではない。それが幸か不幸かは、誰にもわからないだろうが。

 さらに彼女は、己の肉体に刻まれた、敵の攻撃の痕跡を探った。

 直接的なダメージを被った打撃ではなく、その前の――

「そういや――」

 頭上から伊達の声が降ってきた。

「なんで俺が、《真紅の虎(クリムゾンタイガー)》なんて呼ばれてるかわかるか? 別に体毛が紅いわけじゃないのによ」

その声が妙に遠い。そういえば、さっきから耳の奥がキーンとしている。

(なるほど)

 胸に一撃を食らう直前に仕掛けられた攻撃の正体とは、大音量の咆哮だったのだ。発せられたのが至近距離だったこともあり、一瞬だが完全に聴覚を失っていた。おかげで気づくのが遅れた。

「それはな、敵の返り血を浴びて真っ赤になるからさァ。もっとも、お前さんの血は身体に悪そうでイヤだけどな!」

 有里の反応などお構いなしに、伊達は一人で語り、一人で爆笑した。面白い冗談を言ったつもりなのだろうか?

(訊いてない! 訊いてないわよ!)

 苛立ちながら、有里は内心で毒づいた。

 やることなすこと、この男は癇に障る。とっとと片付けてしまいたいところだったが、なかなかに難しい。やはり初めての戦闘では、うまくいくことのほうが少ない。自分のペースを掴みあぐねているうちに、いらぬ手傷を受けすぎてしまった。

(追っ手はまだいる。こんな所でもたもたしてられないのに……)

 そう考えた有里の耳に、どこからかくぐもった声が聞こえてきた。

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