第8話 その1

ブリーフィングルームは今や臨時の指揮所と化し、多くの人々が慌しく行きかっていた。全員の顔に浮かぶ焦りや、会話の端々に滲む苛立ちが、空気をピリピリと焦がしている。回収ヘリから飛び降り、着の身着のままでアリーと一緒に部屋へ足を踏み入れた勇は、ただでさえ不安に苛まれる鼓動が殊更大きくなるのを感じた。中佐は大丈夫なのか。何か情報は入っているのか。まさか――『最悪の事態』には、なっていないだろうか。


「大丈夫だ。オルズ中佐は生きてる」

 

誰かが勇の肩を叩く。振り向けば声の主はニールで、他にも勉強会のメンバーが何人か、その後ろに集まっていた。


「サバイバルラジオのテキストメッセージで生存が確認できたと聞いています。ポジションデータも継続的にとらえているようですから」

 

ウィラの言葉を聞いた途端、勇は全身から力が抜けてへたり込みそうになる。だがそうならなかったのは、険しい表情のジェニーと目が合ったからだ。


「安心するのはまだ早ぇぜ、勇。地上鑑監視機P‐3C BMUP沿海域監視レーダーLSRSが大規模な人と車両の移動を捉えているって話だ。セルビアのレイシストどもが総出で山狩りを始めてる」

「……な、なら早く救出部隊を出さないと! 事態は一刻を争うんだ、せめてヘリの準備だけでも……」

「そう簡単な話ではい」


勇の悲鳴に対する答えは、正面の少女ではなく背後から帰ってきた。振り向けば、この期に及んでもなお冷静沈着な様子を崩さないコゼニスキ大佐が、灰色の瞳をじっと勇に向けている。


「ユーゴの移動式SAMやAAAがモンテネグロ周辺に集結しつつある。セルビアの各航空基地からは戦闘機がひっきりなしに飛び立ち、陸軍も部隊の動員を始めた。わかるだろう。連中はオルズ中佐を餌にして我々の救難部隊を食うつもりだ。状況はまるで熱いジャガイモだよ。うかつに手を出せばかえって酷いやけどをしかねない」

 

反論しようと思った。だが、勇は大佐の確固たる落ち着きの中に僅かな苛立ちを見つけ、出しかけた「でも」という言葉を封じられる。彼らだって、指を咥えて待っていたわけではない。今でも必死に答えを探している。だが、物静かな顔に浮かぶ表情は、なによりも如実に現状を語っていた。悪魔を打ち破る銀の弾丸は、見つからない。

 

必死に縋り付いていた希望を無慈悲に奪われ、勇は今度こそ足から力が抜けていくのを感じた。最早立っていることもできず、手近なパイプ椅子にどさりと座り込んでこめかみを抑える。大佐は何も言わずに勇の前から立ち去り、他の佐官達が集まっている机へと戻っていった。彼らの議論から漏れ聞こえるのは、自軍側の劣後を嘆く後ろ向きな単語ばかりだ。


「その……大丈夫よ。きっと、助かるわ」

 

サビハがやさしくこちらの腕を握る。だが勇はそれに微笑で答えるのが精いっぱいだった。体中の関節が絶望の蔦に絡め取られ、皮膚が少しずつ石膏に塗り固められていくような感覚。

 

なぜ。どうして。部下思いの、明るく、優秀で、皆から愛されるあの中佐が、こんな目に合わなければいけない理由はない筈だ。なんで俺は今、こんなところで一人バカみたいに座り込んでいる。何もできない役立たずめ。いっそ中佐の身代わりに自分が撃墜されればよかったのに、それすらできなかった。馬鹿野郎、畜生……。無意味な問答が草薮のようにふらふらと頭の中を揺れ動き、周囲の雑音が耳の奥で固まっていく。勇の口から「くそ」、という一言だけが漏れ、それを最後に彼の思考は閉じ、全身が絶望の底なし沼へと沈みゆく。


「勇」

 

……こつり、と。リノリウムの床を打つ固い音。俯いた勇の視線に、誰かの足先が入り込む。だがどうでもいい。誰が何と言おうと、もう関係ない。今はただ、一人にしてほし「ぬぅうん!」

 

突如として勇の頭上に力強い台詞が降り、暖かい何かがこちらのこめかみをがっしり掴む。


「どうりゃ!」


目前で大写しになったアリーの顔に強烈な既視感を覚えながら、勇はただ目を白黒させる。彼女は額が触れ合いそうな程の距離から、勇を力強い眼つきでじっと見据えた。


「勇が信じてあげなくてどうするの! 貴方は、貴方だけは、悲しい顔をしちゃ、絶対にダメ!」


励ましというにはあまりに乱暴な、勢いだけが先行した言葉。だけど、その大きな声が、意思を反射する空色の瞳が、勇の体を沼から引き出し、肌に張り付いた石膏を砕き、手足に絡んだ蔦をむしり取る。


「……勇を育てた人が、そんな簡単にどうにかなるわけない。だから大丈夫。俯かないで、前を見て。ね?」


彼女だって、確信があって言っているのではないだろう。けれども笑顔は、相手へ向ける信頼は、ずっと張りつめていた勇の緊張をわずかに緩める。それだけで、だいぶ落ち着くことが出来た。ありがとう。勇はそうつぶやいて、口元に意識して笑みを浮かべ――


――その瞬間。解かれた緊張の隙間から、光が……そうとしか言いようのない、閃光のように白く広がるものが、頭を駆け巡る。それが意識の表面から走り去る前に、腕を突き出し。


そして、自分は女神の前髪を、確かにつかんだ。


「……ああ、畜生。そうだ。そうだった。ありがとう、アリー」

「どういたしまして。……まあ、私たちにできることはそんなにないけど、俯いていたら出来る事もできなくなっちゃうよ。ほら、今は元気元気」

「違う。あるんだよ」


動きかけたアリーの口を、勇は小さく頷いて留める。


「……あるんだ。全部をひっくり返して、ゼロを百にする、銀の弾丸が。それを思い出せたのは、アリーのおかげだ――だから、ありがとう」

 

最初に息をのんだのは、アリー。一瞬だけ動きを止め、そして勇の目をのぞき込み、何かを確かめるよう、口を引き締める。その空気は周りに立つ勉強会メンバーに伝染していき、ざわめく部屋のなかで、そこだけが奇妙な沈黙に支配されていく。誰もが勇の顔を見て、その真意を見極めようとしている。


「皆。これから俺は、かなりの無茶をする。ついてきてくれるか?」

 

全員からの視線を、すべてそのままに受け止めて言う。言葉に迷いを混ぜず、瞳は真正面を見つめ、口を真一文字に引き締めて動きを止める。皆が自分の決意をどう見るか、その評価を待つつもりでいた勇は――だが、すぐにその必要が無かったことを知った。


「馬鹿野郎。こういう時はな、ケツをぶっ叩いて『俺についてこいファッキ○馬鹿野郎』でいいんだよ」

「その通りです、腹括ってください」

「やっちまえ、勇」

「そっちのほうがモテるぜ」

「その通り。俺様タイプのほうが女の子受けがいい」

「馬鹿どものいう事に賛成するのは癪だけど……私も好きよ、そういうタイプの方が」


皆の言葉もまた、それぞれの信頼。最後にアリーが、「がんばれ、勇」と言って頷く。この愛おしい、バカな友人たちめ。


さあ、これで腹は決まった。男は度胸、やってやろうじゃないか。勇は自分の頬をバチンと叩き、一つだけ「お願い」をアリーにしたあと、お偉方が集まって相談をしている場所へと向かう。「準備不足」や「リソースの欠乏」といった言葉を小難しく切り刻んでいる上官たちが、招かれざる客に不信の目を向けるが、勇は気合いを腹に込めて威圧を押し返した。


「すぐに中佐を助けましょう。今ならやれます」


何を言っているのだこいつは、という呆れかえった表情の連なりが勇を襲う。


「……いいか、君。セルビア側はNATOの救出作戦を見越して防備を強化している。それに対抗する手段はただ一つ。十分に準備された部隊を用いて敵の予想を上回る大規模な攻撃を仕掛け、救出作戦を実行すること。問題はな、『十分に準備された部隊』を『敵の予想を上回る』だけの数、用意するのには時間が必要だという事だ。最低でも一日。あるいはもう少し」

 

そんなこともわからないのか、という嘲りの混じった態度で言う米空軍の大佐。勇は頷く。


「仰る通りですが、それでは遅すぎる。敵の捜索隊は相当な規模です。中佐は早晩捕獲されるでしょう。けれど――もし、今すぐ作戦を開始するだけの準備とリソースがあるとすれば?」

 

今度こそ白けたような雰囲気がざわりと広がり、数人は苛立ちを隠さずに勇を無言で責める。針の筵にさらされた勇であるが、意外な人物が彼を矢面からかばった。


「まあ、お待ちを。彼はオルズ中佐の直接の部下でして、少し興奮しています。無礼を許してやってくだい……それに、今はこんな状態だ。馬鹿の世迷い言でも聞くだけ聞いてみては」

 

コゼニスキ大佐のこれほど柔らかい語調は初めて聞いた。奇妙を通り越して気持ち悪いが、得難い味方には違いない。勇は大佐に「有難うございます」と礼を言い、上官たちを静かに見つめ返す。


「今回のバンドオブユニティ演習は、事実上セルビアに対する攻撃を想定した内容でした。そしてその参加者――つまり我々若手パイロット達は、既にいくつかの『シミュレーション』を終えたある種のエキスパートです。そして最終日に想定されていた敵支配地域に対する全面攻撃シナリオ。これについて、若手達で纏めた私案があります。まさしく、今回のような状況に対応するための」

「……まさか」

 

大佐の目が泳ぎ、口を金魚のように開け閉めさせる。驚き? 軽蔑? 呆れ? なんでもいい。話を進めるための隙間を逃さずに溜め、勇はきっぱりと告げる。


「そのまさかです。これを使って、私たちを、作戦に投入してください」

 

ばかげている、と、誰かが呟いたちょうどそのタイミングで、アリーが勇の肩を叩く。その手には、分厚いA4のレポート用紙。先ほど持ってくるよう頼んだものだ。皆が勉強会で準備をしていた、本来日の目を見るはずのない「作戦計画」。勇はそれを受け取り、米空軍の大佐に手渡す。


そこから数分、勇は一言も差し挟まずに事態の展開を見守った。紙面の上を滑っていた疑いの視線がページを繰るごとに消えていき、自分の望みが実現しつつあると確信しても、まだ口を開かなかった。


そして暫しの時間があった後、大佐の顔に残ったのは――勇の欲目ではなく、疑いようのない肯定的な驚き。紙束が上官たちの手を巡る度に同じ光景が繰り返され、そして最後にコゼニスキ大佐がページの最後を読み終えた時。彼らは、じっと、勇とその周りの勉強会メンバーたちを見つめた。


「……ひとつ聞きたい。諸君らに、これをやり遂げる自信はあるか?」

 

コゼニスキ大佐の一言は嘲りも不信もなく、ただ、現実的可能性を確認するための事務処理だった。ならば、答えなどはとうに決まっている。


「あります。やらせてください」

「わかった。ではこの計画をベースにして、救出作戦の実行を上に要請しよう」 


そして、すべてが動き出す。計画の精査に入る上官たちを見ながら、勇は一つ息を吐く。安心するのは早すぎる。やっと五合目を上り始めただけ。胸突き八丁はずっと先だ。


「……ユウ・カマクサ少尉」

 

その呼び声に振り向けば、とうに議論へ戻ったと思っていたコゼニスキ大佐がいつもの能面顔を見せていた。相変わらず感情の読み取れない声で、彼は淡々と言う。


「これは私の持論なのだがね。出る指示が常に正しいとは限らない。与えられたものを正しいと思い込んで実行するだけの兵隊はすぐに死ぬ。問題点を見つけ、考え、言葉にして意見する事が必要だと思う。その意味で、君たちは期待に応えてくれた……いや、期待以上の働きをしてくれている。それを私は嬉しく思う」

 

何かの皮肉かと思った。しかし視線はあくまでまっすぐ、自分たちに降り注いで逸れない。何と答えて良いかわからず後ろを向くが、椿事というには余りにも大きい衝撃を前に、勉強会メンバーが勇と同様の大混乱に陥っていた。デレも過ぎると恐怖体験だ。


それを見た大佐は――バランスを取るためかは知らないが――声のトーンを落として言う。


「だが、このままスムーズに事が進むかはわからない。事はもはや政治の領域に入りこんでいる。いくら我々の準備が整おうと、すぐさまゴーサインが出るとは思わない方がいいだろう」

 

大佐の言うとおりだ。結局自分たちは軍人である以上、最終的な意思決定を待つしかない。当然のこととは言え歯がゆさを感じてしまい、知らず臍を噛む。


そんな勇の肩を、ぽんと叩く誰かの手。振り向けば、アリーが隣に立っている。


「大丈夫。私たちは、やれることをやればいい」

 

その手には、電源の入ったスマートフォン。表示されているのは電話帳。選択されている名前は、勇にも見覚えがある。そう――とても有名な人の名前。


「ね?」

 

彼女はそう言って、にこりと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る