第555遠征飛行隊奮闘記 ハイ・フライト!

@Raikkonen1

序章

それは古びた絵のように、掠れて揺らぐモノトーンの景色。すべてが霧の中にあるよう、不確かなものに覆われた場所。僕は何もできず、ただ枯れ木のように立ち尽くす。


足元を見れば、地の懐から薄灰色の草が萌えて茂り、風が静かに渡る度、ノイズのように明度を変える。小鳥の歌も、木の梢の呟きも、地面に落ちて溶け、耳には届かない。


目の前には少女が一人、何もない彼方を見つめて佇んでいる。彼女の姿もまた、カーテンに浮かびあがって輪郭を失った影のよう。無味乾燥としたこの世界で、僕にはそれが何より悲しい。だって、自分は知っているから。風に靡く洋服の、染みひとつなく白い裾を。太陽の光を受けて、麦穂のように輝く金色の髪を。


色の無いこの光景に、それでも過去の残像を求めてしまう僕は、間違っているのだろうか。自問の答えを知りたくて、縋る様に少女を見つめる。


彼女はずっと、唇を結んで開かない。ただ、細い左腕がゆっくり持ち上がり、白い人差し指が何かを指し示すように立つ。それが、唯一の返信。


なぜだろう。指先を見つめる少女の瞳に、記憶のままのすみれ色が宿っている気がして。だから僕は、くすんだ世界で彼女の目に映ったものを知ろうと、上を向く。

――そして、見た。突き抜けるような蒼穹の世界。一切の不純を退けて広がる、誇り高き場所。確かに広がる、青い空。


目の端から、暖かい何かが零れ落ちる。ああ、よかった。ずっと待っていてくれたのだ。僕の心に刻まれた、そのままの姿で。


「――」


胸に広がる心地よい高鳴りの中を、綺麗な声が満たしていく。澄んだ音色に惹かれて視線を戻し、その瞬間、僕は自分の間違いに気づいた。彼女の瞳は、すみれ色じゃない。大気をそのまま切り取ったような、深い深い、空の青。


小さな口を開いて、少女はもう一度、歌う様に何かを言う。聞き覚えのない、異国の言葉。自分には、まるで理解できなかったけれど。美しい音色に乗って、心の奥へと刻み込まれたその歌は、きっと、僕の道しるべになる。それだけは、確かだと思う。


       *


「――あ、起きた」


 誰かの呟きが耳をくすぐり、それで初めて、勇は自分が寝入っていた事に気付いた。眠気の尾ひれを感じながら、重い瞼を何とか上げる。声は「起きた」と表現しているものの、実際のところ意識はまだ半覚醒といった所である。


「おはよう、勇くん。ご機嫌はいかがかな?」


問いかける女性の声には、優しい親しさが混じっている。寝ぼけた頭ではそれ以上の情報を集められず、勇は答えを保留して大きく背を逸らした。ベッド代わりにしていたソファのスプリングが、ぎしりと音をたてる。


つい先程まで目の前にあった不思議な光景が、まだ瞼の裏側に張り付いていた。長くほったらかしにされていた写真のように、輪郭のぼやけた映像。『懐かしい』という印象だけが、細い糸に編み込まれて現実へと垂れている。


「もしもーし。生きてるー?」


 記憶の残滓に囚われていた勇を、声が呼び覚ます。深呼吸を一つ、今度こそ眠気を振り払う。


「夢を、見てました」


答えを期待した台詞ではなかったが、声は律儀に「ふうん。どんな夢?」と返してくる。それほど大きな音量ではないのに、やたらとはっきり耳へ届くのは何故だろう。


「えっと……小さな女の子と遊ぶ夢」


深く考えずに言った瞬間、近くで誰かの気配が揺らぐ。失策に気付いた勇は慌てて言い訳を探すが、時すでに遅し。


「どうしよう。部下が変態だったよ」


綺麗な女性のしかめっ面が目の前に現れた。ソファのすぐ脇にしゃがんで、こちらの寝姿を眺めていたらしい。道理で声が近いわけだ。


「いや、その、誤解っす。他意はないですよ」

「ホントにぃ? 信用できないなー」

「いやマジですって。どちらかと言えば年上好きですもん、俺」

「自己申告に証拠能力はありませーん。被告には精神鑑定が必要です。次の質問に嘘偽りなく答えなさい」


言いながら立ち上がる女性。優しげなグレーの瞳。綺麗に通った鼻筋。勇と同じオリーブグリーンの作業服に包まれた小さな体躯。彼女を特徴づけるそれらのパーツが目前から遠ざかり、短い茶髪のポニーテールがさらりと揺れる。東向きの窓から差し込む陽が舞い上がった埃を照らして、狭い部屋の無骨な壁紙に陽炎のような陰影を揺らめかせた。


「第一問。 ここはどこ、貴方は誰、私と貴方はどんな関係? 出来る限り詳細に!」


 定番過ぎる問いかけは、彼女の精神鑑定スキルがどの程度にあるかを如実に示していた。素人判断が自己申告以上の証拠能力を持つとは思えないものの、一応記憶を整理する。


「あー、ここはイタリア、在欧アメリカ空軍USAFE第三空軍3rd AF、ジョーイア・デル・コッレ空軍基地AFB。自分は釜草勇。少尉。年齢十八歳、職業パイロット。米空軍に出向している自衛隊員。それで貴方はロベルタ・オルズ中佐。第三一航空遠征航空団AEW、第三一遠征作戦グループEOG、第五五五遠征戦闘飛行隊EFSの飛行隊長。俺の上司。若く見えるけど実はあと三か月でさんじゅ」

「はいすとーっぷ! もう十分です! 終了! ていうか答えちゃいけません! 軍機密!」


 わたわたと腕を付き伸ばし、勇の口を塞ぐオルズ中佐。そういった仕草に嫌味がないのは、彼女の持つ柔らかな雰囲気ゆえだろう。


「で、鑑定結果はどんなもんっすか」


中佐の手のひらを口から外し、冗談めかして問いかける。愛すべき、そしてからかい甲斐のある我らが飛行隊長は、ジト目で腕を組むと大仰そうに頭を振った。


「まったくもう……結果も何も、勇くんは夢に幼女が出てきちゃうガチンコの変態

さんで、その上デリカシー無しの駄目男だよ。鑑定は断然アウト、陪審員の心象最悪。刑は重いね」


 厳しい審理結果予想には相当の私情が挟まっている様である。勇は来るべき判決の不当を抗議すべく、苦笑を添えて口を開き――だがすぐにそれを閉じると、鼻から小さく息を吐いた。


窓の外に広がる南欧の空は、空軍気象局第二十一作戦気象飛行隊OWSの「快晴で大気も安定」という予報通り、抜けるように青くて高い。が、微睡みから脱して己を取り巻く環境へと意識を向けてしまった勇の心には、いつのまにか暗雲が立ち込め始めている。


「……むむ。勇くん、ひょっとしてまだ緊張してる?」


 ここで威勢よく「いいえ」と答えられればどれ程よいか。しかしそれが出来ない勇は、ただ俯いて言い訳を頭の中に羅列する。生来からの引っ込み思案、頗るプレッシャーに弱い気質。本来ならば軍隊で戦闘機を飛ばすような人種じゃあない。今従事しているこの任務に至っては、砂売りに砂漠で商売をさせるようなものだ。ああ、どうしてこんな事になったのだろう。


「……まあったく、つくづくヘタレだねぇ勇くんは」


俯く勇の頭上へ、そんな言葉が降ってくる。台詞とは裏腹の労わるような声音。顔をあげて見れば、中佐が机を回ってこちらの隣に座っていた。肩が触れ合って人肌に暖かく、勇はドギマギしてしまう。更に追い打ちをかけるよう、いきなり差し出された中佐の手のひらが、こちらの髪を優しい手つきでかいぐり回す。


「……えっと、ちゅ、中佐?」

「んー? いや、ヘタレの勇くんをさ、上司が優しく慰めたげようと思って。駄目? 足りない?」

「いや、あの、えっと、そういうことじゃな」

「贅沢ものだなーこのやろー。仕方ない、出血大サービスだ。ハグしてあげよう」

「……マジすか」

「マジっす。おいでー」


両手を広げるオルズ中佐。その豊かな胸に飛び込むべきか本気で迷い――


 ――その瞬間、電話のベルが鳴って。全てが動き出す。


オルズ中佐がはじけ飛ぶようにソファから離れる。倒れたカップからコーヒーが毀れ、クッキーが机の下に散らばる。ブーツの底でリノリウムの床を叩きながら電話へと駆けつけた中佐は、険しい表情で受話器をひったくり耳に当てる。漏れ聞こえる単語の羅列は良く聞き取れないが、統合作戦航空センターCAOCとの直通電話が鳴ったのだ。意味する事態など一つしかない。


実戦緊急発進発令アルファスクランブル!」


 オルズ中佐が叫び、格納庫のスピーカーがけたたましいサイレンを鳴らし始める。隣の待機所から機付整備員が駆け出し、バタバタと離陸準備を始めるのが窓越しに見えた。


「釜草勇少尉! 駆け足!」

「あっ……は、はい!」


オルズ中佐の硬い声に急かされ、反射的に足を前へ送り出す。思考の空白から脱しきれないまま待機所のドアを潜った途端、朝焼けが強烈に目を刺激した。

心臓が恐ろしい勢いで脈打つのを自覚しながら、縋り付くように格納庫の扉を開ける。F‐15C‐44‐MC「イーグル」、シリアル87-0142。全長十九m、全幅十三m。羽毛の代わりに複合材料を纏った米軍の誇る制空戦闘機。マッド・スキームと呼ばれる濃灰色で化粧された異形の怪鳥は、薄暗い部屋の中を無言で威圧し、勇に平穏の終わりを告げていた。


ああ。本当、どうしてこんな事になったのだろう。

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