第6話 その3

……そりゃまあ、勇だって馬鹿じゃない。アリーが自分の事を憎からず思ってくれているというのはわかる。ただそれが友情を超えるものだとは到底考えられない――そもそも彼女は皆に対して気安いだけである。素人は得てして「皆に対して」を「自分に対して」と変換してしまうが、これがいけないのだ。世間並みに出来上がった自分が王女様に対して恋愛的な魅力を与えるという光栄に浴す身分でないことは明白、理性で物事を計り過大な夢は見ないのがカマクサ流処世術の真髄である。だからこそ、やきもちが彼女の不機嫌の理由だと言えないのが何とも歯がゆいのだ。


兎に角、アリーとの関係は好調な勇の環境にあって唯一明白に認められたシミのようなもの。いったいどう解決を付けたものか……と、勇はその夜、人気の消えた会議室でパソコンをいじりながら一人胸襟を悩ませていたところであった。


「……ヘイ、猿。ワーカホリックの振りしたって人間様にゃなれねぇぜ」


突然の声に視線を上げると、パソコンの青白い光越しに、ジェニーの顔が浮かび上がっていた。分厚いファイルを小脇に抱え、てくてくとこちらへ歩いてくる。


「ジェニー? どした」

「別に。資料を探してただけだよ。そっちこそ、この時間まで残ってるとは思わなかったぜ」

「演習もそろそろ最終日が近いだろ。最後はド派手な戦果を挙げようって、みんな見直せるところは隅々まで見直したいらしくてさ。改善案どころか作戦計画丸ごと作り上げる勢いだ」


積み上げられたレポート用紙を指して答える勇。図らずも勉強会の舵取り役に収まってしまった為に、こういったが取り纏めの仕事増えてしまっているのは面倒事の一つだが、目下の懸案たる「アリー・イシュー」に比べれば屁みたいなものである。


「根を詰めるのも結構だがな、休む時は休めよ。寝不足のまま作戦に出てヘマこいてみろ、俺が尻拭いせにゃならねぇ」

 

言いながらどっかりと隣に座るアリー。思わず笑みを漏らしてしまう。


「……あんだよ、失礼な奴だな。人の顔見て笑いやがって」

「いや。まさかジェニーに気遣われるとは思わなかったからさ」

 

勇が片眉を上げて言うと、ジェニーは渋い顔をして「別に気遣ったわけじゃねぇ」と俯く。下手くそな照れ隠しはアリーと同じだ。ここ最近ずっと人間関係に悩んでいた身にとって、彼女との間に醸成出来た信頼は貴重極まりない成功体験の一つ。ある種の癒しをそこに見出した勇は、隣で黙々とファイルに目を通す少女を親近の情と共に一瞥し、パソコンへ向き直る。


「……まあ、よ」

 

呟くような声に、再び隣へと視線を向ける。彼女はファイルから目を離さず、意識だけを勇へと向けているようだった。


「おめーはよくやってるさ。それは認めてやる」

「……今日は珍しいことが続くもんだな。明日は雪か?」

「うるせぇ」

 

そう言って立ち上がり、その場を去りかけたジェニーだが、ふと立ち止まる。


「……ああくそ、ファ○ク。まったくらしくもねぇ。どうしちまったんだ俺は。いいか、今日は大盤振舞だ。二度と言わねぇから心して聞けよ」

 

体を屈ませ、下から勇を見上げる形でメンチを切るジェニー。けれどもそれは、威嚇というには弱弱しく。不安げに揺れる虹彩の鮮やかな蒼が、上目づかいの瞳に張り付いている。


「……なんつーか。お前とは、初めて会った気がしねぇよ。昔っからの知り合いみてぇにさ、一緒にいると退屈しない」

 

それは、最上級の信頼。飾らない素朴な言葉が、こちらの胸を打って熱くする。


「……奇遇だな、俺もそう思ってた」

 

だから、自分も最上級の信頼で答えるために。勇は、そう言う。


「うっせぇよ……ま、適当なところで終わらせとけ。俺は帰る。じゃあな、勇」

 

去り際、空調になびく金髪の隙間から見えた彼女の肌は、蛍光灯の白い明りに照らされながらも、ほのかな桃色に染まっていた。勇もと手を挙げ、彼女を見送る。

 

……まったく、人間関係とはかくも難しいものだ。近いと思っていたアリーが一フィートずつ自分から遠のいていくよう感じる一方で、到底仲良くできるとは思えなかったジェニーが「昔からの友達」と思えるほどに近しい存在となった。その差が一体どこにあるのか見分けられず、ままならない世に首を振ってため息をつき。


――その瞬間、勇は思う。もし。もし、運命というものが予め決まっているのであれば。この時、この場所に自分がいるという事にも、確かに意味があるはずなのだ、と。


でなければ、これは、あまりにも悪趣味だ。


「……アリー」

 

ジェニーが出ていった方とは別の、勇から見て背中側になるドア。そこにアリーがぽつんと立ち、照明が行き届かない部屋の端に浮かび上がるよう、勇をじっと見つめていた。


「……あ、の、ええと……ど、どした。そんなところで」

「ごめんね。なんか声がしてたから、盗み聞きしちゃった」

 

いつもと変わらない、あっけらかんとした答え。だから、その声が抑揚なく機械みたいに聞こえたとしても、気のせいに過ぎないのだろう。勇はそう、自分に言い聞かせる。


「いや、まあ、別に……大した、話も、して、なかったし」

 

背中に幾筋も冷たい汗が流れ、アリーの眼差しを支えきれずについと目を逸らしながら、勇は戸惑う。おかしい。何故、自分が裁判所の被告席で判決を待つような気分にならなければいけないのだ。何も疚しい事などしてない。そう、ただジェニーと仲良く話をしていただけなのに。もし仮に誰かが責められなければならないなら――勿論勇にそのつもりはないが――非難を受けるべきは人の会話に耳を欹てていたアリーであって、間違っても自分ではない。


「……は、はは。つーかアリー、らしくないな。居たなら話しかけてくれりゃ良かったのに」

 

普通を装う事がこれほど精神をすり減らす事業だとは思わなかった。声の上ずりを抑えられず、勇は吊るしのスーツみたいな愛想笑いを浮かべる。


アリーはただ、薄く意思のない笑みを口元に浮かべ、暖炉の上に備え付けられた置物を眺めるような目でこちらを見ていた。いつにもまして大きく揺らぐ瞳の理由が、目に溜った涙の量だと、それに気づくだけの余裕は勇にない。


「――Oh, I have slipped the surly bounds of earth」

 

突然。全く突然に、アリーが何かをつぶやく。歌のように奇妙な抑揚を持ち、だから最初は、それが英語なのだとすら気付けなかった。


「And danced the skies on laughter silvered wings. Sunward I′ve climed, and joind the tumbling mirth of sun split clouds. And done a hundred things You have not dreamed of」

 

誰に聞かせるでもない独白が勇を置いてきぼりにして進み、そして始まりと同じよう唐突に途切れる。じい、とこちらへ向くアリーの瞳の空色は、どこか勇を責めるように固まっていた。


「ねえ。まだ、わかってくれないのかな」

 

その声音はわずかに震え。まるで、懇願のように。


あるいは、自分が答えを間違えれば。それが彼女への最後の一言になるのかもしれない。


けれども――どうやったって、正解は見つからなくて。


「ああ……その、今のは、詩かなんかか? さすがは王女様だな、教養がある」


そんな、当たり障りのない言葉が、上滑りする。アリーは空気の漏れた風船みたいに長い息を吐き、そして掌を勇の頬へと振り落した。

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