第1話 その2
例えば、小学校低学年の少年少女に将来の夢を尋ねたとしよう。すると大抵は、その場で思いついたような聞こえのいい話が飛び出すものだ。曰く消防士、曰く花屋さん、曰く芸能人。明確な意思を持ってなりたいものを決めている子供はよほど珍しい、というより皆無である。
勿論、周りの大人はその程度に目くじらを立てない。皆かつては子供だった身、その適当さは言わば健全な成長過程における通過儀礼、麻疹のようなものだと体験的に知っている。
下木崎小学校四年一組担任の大内巌(当時三十二)もその例外ではなく、従って受け持ち生徒の一人である釜草勇に「あなたのなりたいものはなんですか?」と聞いたのは職務上必要だからに過ぎなかったし、また元気一杯に「パイロット!」という答えが帰ってきたところで、「それは良いですね。頑張って勉強すればきっとなれますよ」とのみ言って流した。
ごく一般的な、強いて特記事項を挙げるならその日が授業参観だったという位の、普通の日。しかし、それを意味あるものに捕らえてしまった人間が、少なくとも二人いた。釜草勇の父と母である。保護者としての能力は決して低くないが、やや思い込みが強過ぎるきらいのあった彼らは、息子のきっぱりとした回答を聞いて感動し、こう決意したのである。
息子をなんとしてもパイロットにしてやろう。そのための協力は惜しまない。
行動力の高さは彼らにとっての長所であり、また短所でもあった。その日帰宅した二人は食うものも食わずにネットで資料を集め、その晩が明ける頃には答えを得ていた。即ち、義務教育期間中に操縦技能の訓練を受けられる日本唯一の省庁管轄教育機関、航空自衛隊青年航空学生学校。いかさま此処こそが息子をパイロットの道へ導くだろうと結論付けたのだ。
さて、勇は前日に自ら学校で述べたことなど記憶の地平線へ置き去っていたので、両親より「お前はパイロットになりたいんだね」と告げられた時も、まるで意味がわからなかった。しかし彼には疑うことを知らない純粋さがあり、親への無意味な信頼があった。二年と半年を対策勉強に捧げた結果、入学試験を補欠合格で突破してしまった幸運が彼の不幸の始まりである。
最初の一年間を座学漬けですごし、二年進級時に初期飛行操縦課程を開始。ずんぐりとしたT-7初等練習機を自らの手で操縦したときは興奮したが、それが勇の人生における絶頂だった。
翌年、基本操縦課程を開始。多くの同期が芦屋の一三
録に英語も喋れないまま一人オクラホマの荒野に放り出された勇は、ここで初めて自分の人生へ不安を覚える。趣味はアニメ鑑賞、希望配属先は一貫して輸送か空中給油、せいぜい警戒飛行隊。戦闘機だけは死んでも嫌だという内向きの人間が、よりによって米国留学? 人選を間違えている。何かがおかしい。そんな訳で、ナショナルスターを抱いてT‐38高等練習機を乗り回す勇が日本への郷愁を募らせたとて、責めるのは酷である。
さて、勇が晴れてウィングマークと
だがその希望は、
「ユウ・カマクサ少尉。君は日米パイロット交換事業の対象者に選ばれた。配属先はティンダル基地の三二二
顔から血の気が引く音というものを、勇は初めて聞いた。ティンダルの三二二FSと言えばF‐15制空戦闘機の
その後の出来事は良く覚えていない。ただ人生の行先を選択する必要に迫られた場面で悉く外的な力が作用し、勇の進路を希望と正反対にぶっ飛ばして行った事だけは確かである。ようやく確かな記憶が復活した時にはもはや全てが遅きに失し、ただ南欧派遣の辞令を握り、頭を垂れてこう呟くしかない状況に追い込まれていた。ああ、運命の神様なんて死ねばいいのに。
そうして迎えた一か月前の出発セレモニー。「ユーゴスラビアにおいてソ連と手を組み少数民族弾圧をはじめたセルビア人の蛮行に圧力をかける崇高な使命を胸に云々」だのなんだのと航空団指令が訓示するのも耳に入らず、流されるままイタリアへと遣ってきた勇は、ダメ押しとばかりに面倒事を押し付けられる。
QRA、あるいはZULUアラート。その任務の目的は要約すると極めて単純であって、ただ一言「国籍不明機の迎撃」である。が、事は字面の印象ほど単純でない。任命されたパイロットは丸一日を待機所で過ごし、ひとたび
ああ、なんと世知辛い。図らずも戦闘機乗りになってしまい、海外にドナドナされ、それでも配られたカードの中で平穏無事を手に入れようと、常日頃から努力してきた。なのに、どうして自分は未だ胃の痛い日々を過ごしているのだろう。
心の底から勇は願う。神様、お願いです。自分はそろそろ報われてもいい頃だ。試練は今日を最後に、明日はどうか穏やかで無難な日々を。でなければ、神様とかホント死ねばいい――。
『アロー、
――恨みがましい追想の走馬灯を、ヘルメットのインカムから出力されたオルズ中佐の声が遮った。勇がどんなに祈ろうと、時間は無情に進んでいく。機体に乗り込んでほぼ無意識のうちにエンジン始動手順を行っていた勇は、慌てて無線のスイッチを入れ「
『
『アロー、アルファ・スクランブル、
イタリア訛りで繰り出される呪文のような英語は、ともすれば意味を失いかねない。オルズ中佐とコマンドポストのやり取りを聞き逃すまいと必死で耳を凝らす。
『……
『
『
『アロー五一、
地上整備員が左手でこちらを指さし、右腕を頭の横で回転させる。エンジン始動の合図だ。出力を上げ、機体を格納庫から出す。誘導路を制限速度ギリギリの高速で走り抜けつつ、地上管制からの飛行承認発行を確認していく。
『……アロー五一、
オルズ中佐と勇が誘導路を進む間に、管制塔から離陸許可が出る。数秒後、先行するアロー五一が滑走路端の離陸位置へ到達。そのまま停止せずに加速していき、あっというまに豆粒となった。キャノピー越しの轟音に驚く間もなく、勇も離陸位置へついてスロットルをMAX位置に押し出す。フルバーナー・テイクオフ。F100‐PW220ターボファンエンジンが「キュイン」という特徴的なデジタル出力制御のノイズを発し、勇は座席に背中を叩きつけられた。二十tを優に超える巨体が、パチンコ玉のような勢いで加速していく。V一、Vr、規定の速度に達したのを確認。操縦桿を僅かに引く。
浮遊感。すぐに車輪を格納。ほぼ水平を保ったまま加速していく。十分に速度が乗った所で操縦桿を強く引き、垂直上昇。丸型の高度計器が狂ったように針を回転させ、機体が雲の中を突き抜け、自分が空へ落ちていくように錯覚する。
「
『アロー五二、レーダーコンタクト。
「
答えると同時、機体を反転。地面は遥か遠く、景色がミニチュアのようだ。自動捕捉モードに設定していたレーダーがアロー五一をロック。ヘルメット搭載型ディスプレイ(HMD)がバイザーにターゲットボックスを表示させる。勇は「
二機はローフライセブンと呼ばれる回廊を目指す。スクランブル機のために用意されている特別ルートは、彼ら以外の飛行を許していない。尤も、今の勇はそれを贅沢だと思う程の余裕を持ち合わせていなかったが。
『アロー、
管制官の定型句が、今に限っては最高の皮肉に思える。ホント神様とか死ねばいい。
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