第7話 その3
成績が落ちた。
小学校五年生の受けるテスト結果が悪かったからと言って、普通に考えればその後の人生にどう影響がある訳でもない。が、進路が普通とはかけ離れていた勇にとって、その事実は結構なインパクトを持っていた。
関係者の名誉のために言っておくが、誰かが自分を責めたわけではない。母は笑って「そういう事もあるわよ」と優しく頭を撫でてくれたし、父は「壁にぶち当たった時、それでも頑張れる男がカッコいいんだ」と力強く励ましてくれた。強いて言うなら自分だけが自分を責めていたのだろう。兎に角それから数日の間、勇は目に見えて不機嫌だった。
ある土曜日、両親が突然「帝国ホテルで飯を食おう!」と言い出したのは、だから彼らなりの励ましだったのだろう。しかし勇が帝国ホテルのビュッフェランチ一人分の値段を知ったのは随分後で、当時の自分には両親の奮発から気遣いの度合いを斟酌する余裕は無かった。それどころか彼らの笑顔をうっとおしくすら思ったものだ。
だから、というのは言い訳ではないが、とにかく勇は単純なその頭で思いつくなりの反抗を示し、自身の不満を知らしめようとした。ホテルを抜け出して丸の内に一人繰り出すという、なんとも解り易い反抗だ。
両親には悪いが、こちらのほうが余程結構な気晴らしになった。ちょうどその日は天気も良く、黙々と走る皇居ランナー達を眺めて気ままに散歩したものだ。そんな訳で、自分には珍しく気が大きくなっていたのだろう。大きなビルに挟まった人気の無い路地で一人の少女が蹲っているのを見つけたときも、臆せず声をかけることが出来た。
不安げな表情でこちらを見上げたのは、白い肌と金色の髪の外国人。子供心にも仕立ての良いとわかる薄桃色の厚いコートと、小さい割にやたらと細かい装飾の入った帽子を身に着け、そして瞳は、突き抜けるような空の色をしていた。
『どうしたの?』
勇が尋ねても、少女は答えずおびえた様子で首を傾げるだけ。だが見知らぬ相手に声をかけるという困難な一歩を踏み越え調子に乗っていた勇に怖いものは無い。彼女はきっと迷子だろう。異国の地で一人不安に苛まれていたはずだ。ならば、ここは断然自分がいたいけな少女を救い出すべきである。その胸中は使命の炎に燃え盛るばかりだった――とは言っても、子供にできる事と言ったら手を引いて警察官を探すことぐらいだったが。
道中、ともすれば俯きがちな少女を励ますため、勇は色々な話をした。勿論通じてなかっただろう。だが、こういうときに必要なのは正しさよりも勢いだ。そのうち少女も少しずつこちらへ笑顔を返すようになった。
致し方ないことではあるが、綺麗な外国人の女の子と二人きりと言う非現実的な環境に勇は浮かれてしまい、気が付けば当初の目的など二の次であたりの散歩に数時間を費やしていた。多分何度か警察官とすれ違った筈だ。まあ、女の子も随分打ち解け楽しそうに笑っては走り、文句を言うそぶりは無かったので結果オーライと思いたい。
そんなこんなで二人の冒険は皇居外苑まで達し、芝生が広がっているのを認めた途端そこに駆け込み尻を落ち着けた。すっかり仲良くなった二人はグダグダとふざけ合い、なにを喋ったのかは録に覚えていない。どれくらいそこにいたのかだってはっきりしない。
だから、一つだけ。勇の脳裏に鮮明な像を結んで蘇ったイメージは、何気ない一場面の中で、余程強烈な印象を持っていたのだろう。
それは、少女の瞳と同じよう透き通った青色の空。それを指す真っ白な指先。何より、冬の澄んだ大気を震わす、美しい声。
今ならわかる。彼女は、詩の一節を詠っていたのだ。空の純粋を詠う賛歌を。
……ああ、思い出した。なぜ忘れていたのか信じられないくらい、はっきりと。
自分はこの瞬間、進むべき道を。本当に目指すべき終着点を見つけ、決めた。彼女の詠う場所へ行こう。『太陽へと昇り、散り散りに広がる雲の歓喜に満ちた転回へと加わって、夢中にすら夢見ない数百の事を成し遂げる』ために、と。
『アリス』
――詩を終えた少女が、空に向けていた指を下ろし、少女自身に向けて言う。
『……
その指がこちらへと向き、問われるがままに『ユウ』と答える。不思議な少女との、それが唯一、会話らしい会話。感傷的な記憶はそこで途切れ、あとは冒険の終わりまでは断続的なイメージがあるだけだ。通りがかった警官らしき男。少女を見て急に慌て始め、無線で何事か話す様子。突然表れた黒服の集団。反射的に逃げ出し、気がつけばたどり着いたホテルの入り口。勇を見つけて安堵した表情を見せ、思いっきり抱きしめた後で思いっきり叱りつけた両親。二人の出会いの、勇が伝えられる全ては、そこで終わる。
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