第1話 その4
部屋の壁に広がる大型スクリーンを、ホイト・ヴァンデンバーグ米空軍大佐は忌々しい思いで見つめていた。
NATO第五
勿論、ヴァンデンバーグも被害を蒙るその一人である。司令官という立場ゆえに苛立ちを表立って表せない彼は、内心のムカつきを苦労して押し留め、冷静を装って任務を遂行していた。
「パゴット大尉」
「はぁい。なんすかー」
ヴァンデンバーグ大佐の呼びかけに、明るい声が答える。パゴットと呼ばれたイタリア空軍の大尉は、セミロングの濃い茶髪を揺らしながら彼のそばにやってきた。いかにも南イタリア出身らしい、褐色の肌が印象的な分析官の娘だ。
「例のセルビア軍機の動き。君はどう見る?」
「んー。ぶっちゃけ妙っすよね」
砕けた英語は規則に煩い人間なら顔をしかめるに違いないが、彼はそれほど拘らない。活発な議論を望み、そのためなら部下が下品な言葉を多用したところで歓迎する気質だ。
「数も多けりゃ内訳にも纏まりがない。編隊の間隔が広くて高度がやたら高いのも気になる。示威行動ならもっと密集して低く飛ぶ筈っすから」
ヴァンデンバーグは彼女の意見を聞きながら、横長のスクリーンを眺める。様々な所属の機体が乱舞するなか、彼の視線は一つの地域に注がれていた。そこには友軍を示す山型のシンボルが三つと、それに接近するクローバーのシンボルが四つ――『敵味方不明機』を意味する。
「まるで連中、一戦願っているみたいだ」
彼女の言いたいことは、ヴァンデンバーグにもよく理解できた。その火遊びに、セルビアは一体どんな意図を込めているのだろうか。手元の資料を眺めつつ、考えを巡らす。と、パゴット大尉が形の良い後頭部を彼の視線に割り込ませてきた。
「大佐、その写真は?」
「ん? ああ、
解像度十数センチを誇る光学偵察衛星は、セルビア空軍のシェニツァ空軍基地で離陸準備を進めるミラージュとフランカーの姿を鮮明に捉えていた。タイミングからに考えて、これらがスクリーンでシンボルとなっている四機と見て間違いないだろう。パゴット大尉は暫く写真を眺めていたが、ある部分で視線を止める。子猫のように丸い目が細められて三日月型になった。
「……大佐。その写真、お貸りしてもいいっすか」
「ん? ああ、それは構わんが……。何か気づいた事でも?」
問いに答えず、眉間に皺を寄せて手渡された写真を見つめる大尉。一分近く経って目を上げた時、その表情からは普段の楽天的な様子がすっかり消え失せ、額に深い憂慮が刻まれていた。
「大佐。卑見を以てするならですが……今回、マジでヤバイかもしれませんよ」
パゴット大尉の常にない様子がヴァンデンバーグにまで伝染し、知らず彼の表情も硬くなる。大尉は覚悟を決めるように一息付くと、例の写真をパソコンの前に置いた。
「見てください。このフランカー、アンテナの数が少ない。IRSTの位置もオフセットされてますし、テイルコーンの形状が鋭角的。あと機種左側の影、たぶん空中給油プローブだ」
パゴット大尉が淡々とした説明を終えた瞬間、ヴァンデンバーグの背筋に得体の知れない悪寒が走った。多くの派生型があるフランカーシリーズだが、今示された要素を全て持ち合わせる機体は、彼が知る限りひとつだけしかない。だが――有り得ない。有り得てはならない。「これ」がセルビアに存在することは、絶対にあってはならない。
そんな彼の戸惑いを余所に、パゴット少尉は事実という名の死刑宣告を突きつける。
「これ、Su-27SM2です。
隣で話を聞いていたベルギー空軍の中尉が、驚いた様子で振り返る。無理もない。立場上冷静に振る舞うべきヴァンデンバーグですら、大きな溜息が出るのを止められなかったのだから。
Su-27SM2。昨年ソ連空軍に配備が始まったばかりの最新型フランカー。V・V・チホミーロフ機械工学科学調査研究所の開発した『イールビスE』PESAレーダーをはじめ、最先端の電子機器を搭載した強力な機体である。
いくら最近のロシアが多少丸くなったとは言え、虎の子を外様のセルビア人に与える筈がない。つまりこのフランカーは、塗装こそセルビア空軍だが、ロシア人が乗る、ソ連空軍機。
米ソ対立のさなかで、係争地域の本丸に堂々と最新鋭の戦闘機を投入するとなれば、その政治的影響は計り知れない。ヴァンデンバーグの脳裏を、いくつもの「何故」が通り過ぎる。情報が降りてきていないのはどういう事だ。ソ連は何を考えている。度胸試しのつもりか……。
「大佐。
懸念と不振に支配されかけた思考を、ドイツ人大尉の声が断ち切った。ヴァンデンバーグは検討事項を一旦頭の隅に追いやり、手渡されたコピー紙に目を落とす。
発 :
宛 : COAC5戦闘作戦部責任者
機密区分 : 最高
1.本協定世界時〇六〇〇より三十分間、秘匿空域を飛行する
2.同〇七〇〇、大セルビア民族党本部からシェニツァ空軍基地に文字通信が送付された事を確認。直後、同基地から戦闘機四機が発進。
3.音声通信と文字通信の内容は現在解読中。
付記.ソ連は党政治局レベルの重大な政治的意思決定を行った可能性有り。
ああ畜生。ヴァンデンバーグはその悪態を口走らないようするため多大な努力を要した。もう決まりだ。奴らは完全に「やる気」でおり、そして我々の休暇は今後数日に亘って消滅した。
「大佐、指示がほしいっす」
パゴット大尉の言葉を合図に、司令官たるヴァンデンバーグは、その職責が身に着ける事を強いた現実的思考にスイッチを入れる。もはや失われた安息の日々にかかずらう暇などない。
「ピック少佐。管区内の全飛行隊に警報を発令。ハモンド大尉、民間機を現場から可能な限り遠ざけろ。責任は私が持つ。スピード少尉、ルメイ少将に繋いでくれ。そう、第八空軍の。バレストル大尉、
COAC5が俄かに慌しくなり、パソコンのディスプレイすら心なしか輝度を増す。ひとしきり指示を出し終えたヴァンデンバーグは、大きく溜息をついた。
「まったく、なんで今日の当直が俺なんだ。明日は娘とドライブに行く約束をしていたのに……なぁパゴット大尉。頼むから娘への言い訳を考えておいてくれないか」
「ご協力したいのは山々ですが、私にゃ荷が重過ぎます……ところで大佐、一つ悪い報告が。今伝えるのと後回しにするの、どっちがいいっすかね」
「是非とも後回しにして欲しい所だが、そうもいかんだろう。報告してくれ」
「イエッサー。これ、迷子のトーネードに乗っているパイロットの経歴なんですけど」
パゴット大尉がオランダ製のプリンタからメールのコピーを取り出して渡す。文字の羅列に目を通し、その意味を確認し終えた大佐は――めまいに支配されて手を突いた。
いや、何かの間違いだ。そうに違いない。そうでなくてはいけない。よりにもよって「この少女」だと? 冗談にしても悪趣味すぎる。彼は必死の思いで足に力を入れ、歯を食いしばり、文章を何度も読み返し、単語の解釈を変え、見落としがないか目を皿にして探す。だが必死の努力もむなしく、遂に結論を先伸ばせる見込みがないと悟った彼は、がくりと椅子へ崩れ落ち、もはや彼にできることはただ一つの事をした。即ち、十字を切ってこう願うのだ。
「神様、お願いです、どうか良い再就職先を教えてください……」
「あ、私の分も確保してくださると有難いっす」
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