35.サヨナラ Magnolia‘Sayonara’

 夜の森を駆け抜けたら、そこはもう隣国──という、カランコエルートのあのシーンは、何だったのか。


 シャギーとスパイクが森に入ってから、3日が経過していた。

 よくよく考えれば国境として機能するくらいなので、一般人が簡単には抜けられない巨大な森でないとおかしい。よって、ゲームで見た状況よりもこの現実が正しいのだということはわかる。わかるが。


「大丈夫?」


 声を掛けられて、しゃがみ込んで地図を眺めていたシャギーが顔を上げる。


「スパイク、ごめん」

「何が?」

「隣国に抜けるの、時間かかってて……」


 急な謝罪にきょとんとしたスパイクが、シャギーの言葉にふわりと頬を緩める。それは、これまでの取り繕った笑顔やどこか自嘲と悲哀の影を帯びたものではない。


「俺はこれまでの人生の中で一番楽しい3日を過ごしてる」


 スパイクはそう言って、項垂れるシャギーの隣に腰を下ろし、豊かに波打つ少女の金色の髪に指を差し込んだ。


「綺麗な髪」

「あ、ありがとう……唐突だね?」


 前世でも今世でも恋愛経験の少ないシャギーがしどろもどろに返すのを、スパイクはやはり見慣れない、朗らかな笑顔で眺めた。


「本気で家を捨てると決めてから、世界の色が変わって見えるんだ」


 サラサラと指先で髪を漉きながら、スパイクが呟く。


 ウィンターヘイゼルでの彼の暮らしを、シャギーは知らない。知らないけれど、これまで押し殺してきた表情や気配から、溢れ落ちるように見え隠れするそれらに、胸が痛んだ。


「──守ってあげる」スパイクの、新しい色の世界を。


 髪を漉く長い指をとらえて、シャギーはスパイクに囁いた。自分の言葉が、少しでもこの愛おしい男の子を暖めますようにと祈りながら、つかまえた指先にキスをする。


「貴婦人と騎士、逆じゃない……?」


 まるで騎士の誓いのようなシャギーの仕草にスパイクが照れて、残された手で顔を覆った。

 木々の隙間から、光の粒子がひらひらと舞い降りて踊る。

 幾筋もの精霊が柔らかく吹き抜けて髪を揺らし、また光を散らす。

 色とりどりに跳ねる光の森の中。束の間の、とろりと揺蕩うように流れる時間に、二人は目を見合わせて少し笑って、キスをした。


 それが、二人の最後の優しい記憶。





「スパイク、逃げて」



 それはゲームで見た、カランコエとヒロインの逃亡シーンの再現のようだった。あのシーンで、月を背負って現れた敵はカランコエの妹、シャギー・ソルジャー。そのシャギーは、現実にはカランコエの位置で、立ち塞がる相手と対峙している。


 シャギーが向き合っているのは、黄支子(きくちなし)色のマントを靡かせ白銀の甲冑を纏う騎士だ。物々しく武装した白銀の騎士は、やはり甲冑で武装した重曹騎兵の一団を引き連れて、国境へ続く街道でシャギーとスパイクを待ち構えていた。

 イフェイオンの有力貴族は、その家ごとに象徴とな色を持つ。例えば、シャギーの生まれたソルジャー伯爵家は深い青で団服も鮮やかなブルー。先だってアイリスを迎えたサングイネア子爵家は紫の軍旗を掲げ紫のマントを身につけて戦場に出る。そして、赤みがかった濃い黄色を基本色として使うのは。

 スパイクの生家、ウィンターヘイゼル公爵家だ。


「逃げないよ」


 シャギーの肩に後ろから手を添えて、スパイクが半歩前に出る。


「もともと俺の家の問題なんだから」


 そう言って、スパイクは真っ直ぐに、立ち塞がる馬上の騎士を見上げる。


「だからこそスパイクは先に……! だってこの人達の目的はスパイクを連れ戻すことでしょ?私が足止めする」

「シャギーに何かあったら俺がウィンターヘイゼルから逃げて生きる理由も無くなる」

「でも!」

「シャギーに手は出させない」


 スパイクはシャギーに向けて顔を傾けると少しだけ微笑んだ。


「そして俺も、黙って連れて行かれる気はありません──兄上」


 再び目線を馬上へと戻し、屹然と宣言する。


 兄上、と、スパイクから呼ばれた相手は、顔を覆う兜に手を掛けた。装甲を外したそこにあったのは、スパイクによく似た青年の面差し。ウィンターヘイゼル公爵の第一子、フィルバートだった。

 兄弟の印象が違って見えるのは色彩の差異ゆえだろうか。光の加減で揺らぎを見せる明るいブラウンという、いわゆるヘーゼルカラーの髪。そして、特徴的な瞳の色。スパイクの持つ朱色と金の混じり合う琥珀より明るい色。ウィンターヘイゼルの血に多く現れるという黄金色の瞳が、白皙の相貌を彩っていた。


「父上の命令ですか?」

「お前を連れ戻す理由が他にあるのか」


 愚問だとばかりに素っ気なく告げられる言葉にはまるで温度が感じられない。家を飛び出した弟への怒りもなければ、哀れみもない。ただ、命令だから来ただけだというのがよくよく伝わった。


「そんなら逃してくれませんかね。あなたにとっては、俺があの家に居ようが居まいが関係ないでしょう」


 スパイクが肩を竦めてため息を吐く。彼特有の飄々とした態度だが、シャギーにはその背中が緊張していることがわかった。気を許せる仲ではないようだ。そして兄フィルバートの表情には些かの変化も現れなかった。


「関係が無いこともないな。いずれ公爵家を継ぐ者としては、ウィンターヘイゼルの意思に背く人間を許すわけにはいかない」


 フィルバートの瞳がついと流れ、シャギーをとらえる。


「隣国へ逃れるならソルジャー家の領地からかと思ったが。こちらにも網を張っていて正解だったな」


 シャギーが微かに身構え、スパイクが唇を引き結ぶ。フィルバートはなおも淡々と言葉を紡いだ。


「家を巻き込むのを恐れたか……いい判断だ、ご令嬢。今戻るなら子どもの戯れで済ませられる」

「ソルジャー家は関係ない! 俺が自分の意思で出ていくのに」


 白々しい兄の言葉にスパイクが吐き捨てる。フィルバートは目線をシャギーから弟へと戻し、そして剣を抜いてシャギーへと突きつけた。


「愛しい女が生きているうちに目を覚ませ」


 スパイクが激昂して剣を抜く。瞬間、視界いっぱいに愛しい色の金糸が広がった。シャギーがスパイクの前へ出たと同時に、高く澄んだ金属の音がキィンと空気を震わせた。




「──毒ですか?」


 剣を振るったままの姿勢でスパイクを庇うように立つシャギーの体が僅かに傾く。


「シャギー!!」


 喉を裂くようにスパイクが叫んだ。フィルバートの後方、盾を構えた兵たちの中から放たれた針は真っ直ぐにスパイクを狙っていた。気付いたシャギーが飛び出して剣で打ち払ったが、続けざまに放たれた二本目を肩に受けてしまったのだ。

 身を躱すことは出来た。しかし、それでは背後のスパイクに当たってしまう。シャギーは敢えて受けたと言ってもいい。


「少し眠るだけだ。悪いものじゃない」


 体に異変を感じたシャギーは咄嗟に針に毒が塗られていたのかと思ったが、フィルバートは麻酔系の薬だと答えた。ここで弟を殺す理由は無い。スパイクを狙った以上、おそらくその答えに偽りは無いだろう。


 まあ即死じゃなければ毒でも大丈夫ですけどね。シャギーは必死で意識を保ちながら心の中で舌を出した。

 いつの間にかスパイクが両肩を抱えるようにして支えてくれている。そのマントの影に隠れるようにして、治癒の術式を編んで体内を巡らせた。感覚が薄れていた四肢に徐々に力が戻ってくるのを感じながら、スパイクを見上げる。その顔は青ざめて表情は苦しそうで、胸が痛む。


『大丈夫』


 そう伝えるようにしっかりと琥珀の瞳を覗けば、シャギーが治癒魔法を使えることを思い出したのか、苦痛に揺らいでいたスパイクの琥珀の中でぱちんと安堵の色が弾けて広がっていく。


「効いていないのか……?」


 支えられているとはいえ意識を保ったままのシャギーをフィルバートが訝しむ。


「ソルジャー家の人間は頑丈なんですよ」


 シャギーは軽く答えて笑った。まさか光属性持ち以外で治癒を使える人間が居るとは思わないだろう。


「なるほど」


 シャギーの言葉をそのまま信じてはいないだろうが、何かしらソルジャー家に伝わる解毒耐性のような伝があっても不思議では無いと判断したのだろう。フィルバートは顎に手を当て、首を傾けた。


「噂には聞いていたが、話以上だな。剣の腕に身のこなし、そして耐性の強さ──女神の欠片が現れなければ我が弟の伴侶に申し分ないが、実に惜しい」


 滴るような視線がシャギーへと向けられて、端正な口元にゾクリとするような酷薄な笑みが浮かぶ。


「君を殺すのは骨が折れそうだ」


 スパイクが切れた。

 フィルバートへ向けて放たれた殺気がぶわりと膨らむ。精霊を見ることができるシャギーの目に、それは漆黒の靄のように見えた。墨色の霧はゆらゆらと広がって、それに触れた精霊が消失していく。

 紅葉の森を思わせる琥珀の瞳は煌々と獣の光を帯びて燃えている。


(──これが、“獣の因子”)


 シャギーは黒い闇を纏うスパイクをどこか茫洋として眺めた。とても、恐ろしい。

 精霊を殺す闇。触れている自分の身体に魔力が感じられない。指先が痺れて、恐ろしくて、おぞましくて。


 そして、美しいと、思った。


 スパイク本人も暴走する自身の力を恐れているのがわかる。おそらく彼自身も闇魔法の威力や本質を理解できず、ここまでの力を振るえたこともないのだろう。


『魔法の強さに大切なのは、心です』


 かつて、シャギーの魔法の師はそう言っていた。


『強い感情は強い術を引き出す。例えば“怒り”なんかも強い力を持つ感情のひとつです』


 スパイクは今、制御できない怒りに魔力を振り回されている。すべてを傷つけて、滅ぼして、自分を灰にしてしまうほどの力を溢れさせて、泣いている。きっとこれが彼が一番恐れていて、おぞましいと思っていたものなのだ。


「スパイク……」


 呼びかけて、頬に触れる。怒りに発火する瞳がゆっくりとシャギーへと向けられる。そして、制御の効かない自分の闇が自分の一番愛おしい女の子の生命力を削っているのを目にした。


「好き」


 傷付く恋人に、シャギーは他に言葉を持たなかった。スパイクの泣きそうな顔が痛ましくて、苦しくて、愛しい。


「俺も……!」


 絞り出すように囁いて、シャギーを抱える腕に力が込められる。体内をめぐる精霊の力がぐんと弱まるのを感じて、それでも、力の入らない指で必死にしがみついていた。

 教えなくては。傷ついている愛しい人に、シャギーがかつて師匠のフォールスから聞いた、魔法のことを。


『屈辱や恐怖、絶望、後悔、欲望、そういう感情はあまり力を持たない。力は行き場なく内側にこもる』


 フォールスは幼いシャギーに、歌うように言葉を紡いでいた。


『怒りは前を向く力になるけれど、それは攻撃にとどまりその上の視点を持たない。プライドは崇高だけれど嘲笑を生む。勇気はプライドを上回り、そのさらに上に意欲がある。意欲という自己の枠を超えたところに受容があり、受容の先にある理性はそれよりも強い』


 あれは霧がたゆたう森の中だった。黒種草の青が師弟の周りで淡く揺れていて。言葉は呪文のように紡がれた。


『ねえシャギー、まだまだ幼いあなたに、最も強い力を持つ概念を教えてあげましょう』


 魔法使いの声は世界の秘密を打ち明けるように甘く、雨のようにさらさらとシャギーの身に降り注いだ、その概念は。


『──愛』


 それをスパイクに伝えて、怒りに勝る力で魔力をコントロールさせなければと、そう思うのに、喉も、舌も、指先もうまく動かせない。

 スパイクがフィルバートへ向かって腕を伸ばす。止めなくては。動けない、でも、止めなくては。焦るシャギーをあざ笑うように、黒い靄が馬上の兄の首を捕らえて絡みついた。


「かはっ」


 目に見えない何かに圧迫され、フィルバートが呼吸を求めて粗い息を吐く。





「戻ってやってもいい」


 苦しむ兄を冷酷に見据えながら、唐突にスパイクが言った。


「スパ……イク……!」


 何で? という顔で、シャギーがスパイクを見上げる。それを見下ろして、スパイクが絶望を貼り付けたまま笑った。


「俺と一緒に逃げても、俺はシャギーを傷つけるよ。だって俺は──」

「化け物が……!」


 馬上に伏すフィルバートが吐き捨てる。


「そう。バケモノだから」


 答えて、スパイクは憑かれたように笑い出した。


「戻ってやるし、ウィンターヘイゼルのために働いてやってもいい。だけどシャギーとソルジャー家には手を出さないと今ここで誓え」

「何を……!」

「それが約束できないのなら、死ね」


 スパイクが言い放つと絡みつく闇は一層濃くなった。フィルバートは苦しみ悶えながらも連れてきた兵たちを振り向く。そこに立って居るものはいなかった。

 シャギーが持ちこたえているのは膨大な魔力を持つ故で、他の人間には立ち込める黒い魔力に耐えられなかったのだ。

 それを見て命の危機を実感したのだろう。奥歯を噛んでフィルバートは弟の要求を飲んだ。ふと、シャギーを抱える腕の力が緩む。そのまま膝から崩れ落ちた。体内に精霊の力が戻り、呼吸ができるようになる。


「……ひどい」


 呟いた瞬間に、シャギーの両目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。


「ごめん」

「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい!」


 言い募るシャギーに、スパイクは手を伸ばすことができない。もう、触れることはできない。言い表せない痛みに心が切り裂かれる。


「ひどいよ、スパイク……」


 見上げる瞳は、頬は、流れ続ける涙に溺れている。


「好きだ」

 

 傷ついた大切な人にスパイクもまた、他に言葉を持たなかった。

 愛しい以外の感情は死んでしまった。







「サヨナラ」


 黒い霧が一筋、風に溶けて消えた。


 風はそのまま上昇して、樹上に咲きこぼれる白い花たちを揺らす。花びらが一片ひらりと、落ちた。










【植物メモ】


和名:モクレン[木蓮]/品種名:サヨナラ

学名:マグノリア・サヨナラ[Magnolia 'Sayonara']


モクレン科/モクレン属

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