開花の章

44.天国の白い鳥 Giant White Bird of Paradise

「君の淹れたお茶は美味しいね、アネモネ」


 王宮の庭園に作られた人造の溜池。その中心にある浮島で、第一王子リナンサス・グランディフロルスとその婚約者である公爵令嬢アネモネ・コロナリアは会談していた。

 浮島は細い橋だけで陸地と繋がっている場所で、周囲を池に囲まれているため人払いしてしまえば誰にも会話を聞かれる心配がない。橋の入り口を警備すれば刺客の侵入を許すことはなく、浮島に居る姿は目視は可能なため男女が二人だけで会っても不埒な疑惑を生むことがない。浮島にはガゼボがありテーブルと椅子が設けられているため、婚約者として交流を設ける際、二人はよくこの場所を選んでいた。


「ありがとうございます、殿下。──それで、結局ヴィーナス・フライトラップは解放されるんですの?」


 アネモネが尋ねると、穏やかに微笑んでいたリナンサスの表情が曇る。


「そうせざるを得ないというのが父上……国王陛下の考えだ」


 苦しそうな声にアネモネの目にも憂いが宿る。公爵令嬢の婚約者である第一王子はとても正義感が強く、道理に見合わぬことを厭う。

 寄付という名目のもとに教会から王宮の金庫へと流れる莫大な資金によって、イフェイオン王国は支援されている。その金は他国との戦争にも貧民の救済にも使われる。この国は確かに教会に助けられている。しかし、それと引き換えに教会の意に沿う政治を続けることは民にとって、国にとって、正しいと言えるのか、どうか。若く理想を持つリナンサス王子はその癒着を是とはしていないのだ。

 その苦しみを理解しているからアネモネも苦しい。国に定められた婚姻ではあるが、幼馴染として情もある。嫉妬や恋情に囚われなかったのは、ソルジャー伯爵令嬢の凛とした存在感を見て、自分を見つめ直すことができたからだ。憧れにも近い気持ちを抱くその伯爵令嬢もまた、今の状況に苦しんでいるに違いない。


「教会は強いですわね……。殿下、その内に聖女と結婚しろなんて言われますわよ」

「バカなことをと言い切れないのが辛いな。そうなったら君を連れて逃げようか」

「殿下も私も、国を捨てることなんてできませんでしょう?」

「そうだな……この国を捨てることもできないが、国のためにできることもまた少ない。歯痒いよ」


 堂々巡りの結論にため息を漏らす王子のためにアネモネはお茶を淹れなおした。しばしの沈黙に、鳥の囀りと、風が木の葉を揺らす微かなざわめき。


「かの教会がこの国にとって悪だとも言い切れませんから。苦いものを飲む時代もございましょう」


 リナンサスは丁寧に淹れられた茶の香りを味わって「これは苦くはないな」と小さく笑う。つられてアネモネも微笑み、重いばかりの空気をわずかに入れ替える作業に二人して従事した。


「ところで、学園で何件か報告された体調不良についてだが」

「それもまたヴィーナスがやけに調べたがっていたという件ですわね」

「ああ。勝手に動かれるのもまずいと思いレオを同行させていたが、釈放されたらそれもまた再開する可能性がある」

「王宮側でも動いているのでしょう?」

「いや……生徒たちの症状が軽い貧血程度なこともあってさして重要視されていないようだ。そこまで手が回っていない」

「聖女様の騎士団ごっこに付き合わされるレオノティスが一番可哀想ですわね」

「まったく」


 リナンサスが申し訳無さそうに眉を下げる。凛々しく涼し気な顔立ちの第一王子が見せた情けない表情に、アネモネは不謹慎と思いつつ小さく笑ってしまった。





「聖女様は、先読みの力に目覚められました」


 リナンサスとアネモネがヴィーナスについて話しているその裏で、国王と、謁見を取り付けたヒッポリテ大司教もまたヴィーナスについて語っていた。


「今回の嫌疑は先読みの力に目覚めた聖女様が、危険を察知して解毒剤を持ち込んだもので、毒を混入した件に彼女は関わっておりません」


 大司祭の表情は普段と同じように微笑んでいるように見える。相変わらず、分厚いまぶたに覆われてその目の奥を見ることはできない。国王ドゥリオ・グランディフロルスは相手に気付かれぬよう、密かにため息を漏らした。


「教会の主張は理解しておるが……それを証明できなければ議会を説得できんのだ」


 カルミア教を国教と定めているイフェイオン王国では、議会の貴族たちのほとんどがカルミア教徒ではある。しかし、ソルジャー伯爵家や占い師アイリスの養親となっているサングイネア子爵家など、カルミア教会の意向に従順な教皇派からは距離を取り、公正な議会を望んでいる派閥も存在する。彼らの派閥は言ってみれば国王派と言えるのかもしれない。もっとも、現国王が即位する際にカルミア教会の後ろ盾があったこともあり、当の国王がカルミア教に強く出られない現状にあっては、国王派は立てるべき旗印を失い孤立している状態ではある。それでも無視して事を強引に進めれば、武に秀でたソルジャー家やサングイネア家の離反を招くことになるだろう。

 ヴィーナス・フライトラップの解放に難色を示す国王に、ヒッポリテが笑みを深くして一枚の紙を差し出す。


「聖女様が先読みした出来事を記して参りました」


 国王はそれを受け取り、目を通す。


「確かに、ここに記されていることが実際に起きれば聖女に先読みの力があることは証明できるが……」


 現在、国王派では占い師アイリスを保護しているため、聖女の先読み能力はそこまで固執する状況でもない。また、国王もヒッポリテ大司教も知らぬことだが、聖女ヴィーナス・フライトラップの先読みは彼女が思い出した前世のゲーム知識によるものなので、ストーリーが変わり始めた現実世界では外れている部分も多くある。

 ここへ来ても煮えきらない国王の返答に、ヒッポリテの頬がかすかに、苛立つようにひくりと揺れた。


「私は、この国の先行きを心配しているのですよ、陛下。救国の乙女となる聖女様を不当に捕らえたままでは民衆も納得しないでしょう」


 大司教の言葉に、国王が片方の眉を跳ね上げる。


「この国に広く根を張るカルミア教であれば、民を扇動することもたやすいであろうな……」


 呻くような、絞り出すような国王の呟きにヒッポリテはにんまりと笑みを深くした。


「滅相もない、そのような恐ろしいことを我々が企てるなどと。──民衆が自然と国に不審と反感を持つその気持は……止められませんが」


 これまで、数々カルミア教会の力を借りてきた。王位に就く際の後ろ盾を皮切りに、国を運営する資金、戦争の資金、対抗勢力の取り潰し、不祥事の揉み消し。教会の持つ潤沢な資金と従順な人材はまるで錬金術師の魔法の杖のように王が望むものを生み出してきたのだ。

 利用してきたと言えばそうだが、ドゥリオはただ悩みを打ち明けただけなのだ。そこに手が差し伸べられたなら、人はその手を跳ね除けることはできるのか。その結果として、見返りに少しずつ教会に様々な権利を与えてきた。それはいつしかこの国の全土に根を張り巡らせてイフェイオンすべてを飲み込むほどの巨木へと育った。もはや一国の王にできることは限られている。


「我々教会と天秤にかけられているものは随分と重いようですねえ」


 沈黙するドゥリオに、ヒッポリテはそう告げて立ち上がる。


「よいご判断をお待ちしておりますよ」


 最後にそう言い残し、大司教は退室していった。国王の許可もないのに。その振る舞いを国王ドゥリオは咎めない。力関係は明白だった。


 ヒッポリテが暗に示す、秤に乗るもう一方は言わずもがなソルジャー家だ。


 ソルジャー家は、イフェイオン建国に関わる唯一の家門だ。ツルバキア領主であったアルバ家とともに帝国から独立したビオラセア領主、それがソルジャー家である。そして、アルバ王朝が断絶した後にツルバキア領を継いで立ったグランディフロルス王朝よりも古い家門である。


 ツルバキア領は王都ユニフローラム、ビオラセア領はロルフ・フィードラーと名を変えたが、建国の際に実質の辺境伯に任じられた時からソルジャー家の立場は今日まで揺らいでいない。伯爵家を名乗りながら、グランディフロルス王家よりも深くイフェイオンの地について把握し、独自のネットワークを張り巡らせている。それがソルジャー伯爵家なのである。

 幸いにして、代々野心のないソルジャー家は王位の簒奪を目論むこともなく、有事の際にはその圧倒的な武力で国を救ってきた。本来贖人であるガーラントをサングイネア子爵家から妻に迎えた後は、カルミア教会に配慮し当主アクイレギアと息子カランコエが洗礼を受けている。だが、その穏健な家風とて王家がソルジャー家を裏切らないという前提があってのことだ。

 先代のソルジャー伯爵ベゴニアは現国王のドゥリオではなく、先代王弟のチレコドン・グランディフロルスを王に推していた。先だってロルフ・フィードラーがクレオメ王国からの侵攻を受けた際にも不穏な動きを見せたというベゴニア老が良い例だが、表向き恭順な現当主のアクイレギアとてドゥリオを見限れば離反を決意するだろう。

 弟フォールス・バインドウィードを教会に引き渡し、愛娘シャギー・ソルジャーの毒殺疑惑がある聖女を解放する。それはおそらく、王家とソルジャー家の決別となる。


 だが、ドゥリオはその決断をせざるを得ないだろう。教会から得られる水は甘露だった。タダよりも怖いものはないと、今になって身にしみて感じていた。





 次は絶対、ヒロインに生まれたい。


 前世において、死ぬ直前に願った記憶を思い出してヴィーナス・フライトラップはため息を付く。願いは叶った。まさか自分が大好きだったゲームのヒロインに転生するなんて。だが今は。


「これは夢で、目が覚めたら病院のベッドの上だったり、しないかな」


 ヒロイン転生に盛り上がったのは、教会に駆け込んで魔力測定を受けさせてもらい、あれよあれよと王都の司教座聖堂にやってくるまでのことだった。そこにカランコエが居ないと知ったときに芽生えた違和感は次第に大きくなっていった。


「ヒロインは何もしなくても愛されて、みんなに助けてもらって、特別な才能に溢れていて、毎日が刺激的でキラキラしていて。そんな人生だからこそ、ヒロインなんじゃないの?」


 違和感は「うまくいかない」に起因した。光魔法は認められたが魔力は鍛錬によって伸ばしていくものらしく、ゲームのように万能ではない。大司教に頼まれて教会に来る人々に治癒を施してみたものの、その力は弱々しく、奇跡と呼ぶには頼りなかった。学園に通っても攻略対象者との距離は思うように縮められない。


 大司教に渡された聖女の宝珠を身につけると、光魔法の力が急に増幅した。こんな便利なものがあるなら早く出せばいいのにと心のなかで毒づいた。ゲームでも宝珠を奪おうとするシャギー・ソルジャーの描写があったのだから、ゲームの中のヴィーナスもこの宝珠を使っていたに違いない。礼拝に集まった人々の前で癒やしの光を披露すれば聖女様と讃えられた。ようやく、ゲームの世界らしくなってきたと安心した。

 その矢先に、シャギー・ソルジャーの殺害未遂容疑で拘束された。


 面会に訪れたヒッポリテ大司教はすぐに出してくれると言った。先読みの力に目覚めたと言ったら、それで疑惑は晴らせると。


 実際に毒を入れたのは自分だけど、ヒロインだから助けてもらえるのかもしれない。けれどゲームとはどんどん離れていく展開に苛立つ気持ちが抑えられない。もっとうまくできるはずなのに、何かのバグがあってうまく攻略できないに違いない。リセットしてやり直したい。「うまくいかない」にぶつかる度に、こんなはずじゃない、こんなのは違うと、違和感が大きくなる。これではまるで転生前に居た世界──“現実”のようだ、と。


「現実なんていらない……」


 思わず呟いたら涙がこぼれた。鼻の奥が痛くて、その痛みや流れ出る涙の温さがリアルで、これが現実なのだと突きつけてくる。下町で必死に働いていた記憶が、現実の人生であることを証明しようとする。嫌だ。これが現実なのだと認めてしまったら、ゲームのようにうまくいくためには引き換えにたくさんの苦労をして、危険なことにも飛び込んで、人を助けて、ゲームの裏側にあるヒロインの努力を引き受けなければならない。それでは転生前と変わらない。


 転生前。人のものは何でもよく見えた。大した才能もない人間が運や生まれでチヤホヤされて、可愛く綺麗に生まれた人間が得をして、天才に生まれたら勝ち組確定で。脇役しか与えられない自分のような人間は生まれながらに不幸なんだと、ハンデを負っているんだと、そう思っていた。だからヒロインに生まれていたらと、ずっとずっとそう思って生きてきた。


「毎日を積み重ねてヒロインに“成る”なんて、そんなの普通じゃん。ノーマルモードじゃん」


 悔しくて、コップを掴んで床に投げつける。木製のそれは水を撒き散らしてころころと転がり、扉の代わりに設置された鉄柵をすり抜けて廊下まで転がった。

 ゆったりとした足取りで牢の前に近寄った人物がそれを拾い上げる。


「大司教……」


 気まずさと恐怖で、ヴィーナスは俯いた。牢の前に居たのはヒッポリテ大司教だった。


「聖女たるもの、このような態度はいけませんねえ」


 ヒッポリテは木製のコップを手で包むようにして、ヴィーナスへと戻してくる。黙ったままそれを受け取ると、コップの中に赤い石が入っていた。見覚えがある。ネックレスについていたものとは違うが、聖女の宝珠だった。ネックレスは牢に入るとき押収されてしまったから、その代わりなのだということはわかった。だが、牢には魔法を封じるために結界が張られていると、ここに入れられるときに聞いている。魔力を増幅したとて何ができるだろう。


「気付かれぬように持っていなさい」


 そう言われて、慌てて石を握り込む。


「まだここを出てはいけません。今から信仰を持たぬ愚か者に聖女の御業を行うのです」

「ど、どんな……?」


 教会で教えられた光魔法には、癒やし以外のものもあった。純粋に光を見せるものもあれば、他者の精霊を活性化させ魔法を強化するもの、そして、教会にしか知られていない光魔法の力──。


「精霊の癲狂(てんきょう)を」


 ──過度に活性化させた精霊は人間を内側から食い破ることもあるという、その魔法。

 ヴィーナスは息を呑んだ。ヒッポリテの指示は、これから自分に人を殺せということだ。


「こ、この、牢の中では、魔法は使えないのでは……?」

「それは四元素魔法の原理で作られた結界です。光魔法ならば発動できるはず」


 大司教に目で促され、ヴィーナスは震えながら小さく、指先に魔法を込めた。


「発動しました……」


 ヴィーナスの指先に淡く白い光が灯るのを確認したヒッポリテ大司教が頷く。教会が光魔法についての文献を隠し持っていることは知っていたが、王城の秘密についても深く知っていることにヴィーナスはゾッとする。この国のあらゆる場所に、どれほどのカルミア教徒が潜り込んでいるのか。


「精霊エネルギーを感じなさい。それが形作る動き……人間がどこに居て、どのように動いているか、宝珠を持つ今ならば見なくともわかるはずです」


 ヴィーナスを支配するのは“恐怖”だ。本来は力を持たない感情だが、大司教に与えられた宝珠によって魔力が増幅されている状態のヴィーナスは目を閉じて必死に精霊のエネルギーを探った。


「この、塔の、一階の部屋に、一番強いエネルギーがあります……おそらく人間……い、いま、椅子に座って……」


 ヒッポリテは必死で言葉を紡ぐヴィーナスを見て満足げに口角を上げた。間もなく法務官がヴィーナスの聴取に訪れることになっている。地位のある貴族は魔力量が多い。ヴィーナスが探っている人物は面会の時間を待っている法務官に違いないだろう。


「周囲に人は居ますか?」

「居ます……見張りの騎士と同じくらいの……3人、4人……?」

「証人には良い数だ」


 ヒッポリテの言葉に、ヴィーナスが目を開く。これから自分が何をさせられるのか、次の指示を聞かずとも明白だった。それでも命令を聞きたかった。言われて仕方がなくやったのだという自分への確たる言い訳が欲しかった。


「さあ、聖女様。あなたの探った一番強いエネルギーを持つものが悪魔の下僕です。聖女の御業を」


 宝珠を握りしめ、ヴィーナスは魔力を放出した。大司教の言う事を聞いていれば、ヴィーナスは聖女の役割を与えられヒロインで居られる。この立場から落ちるわけにはいかない。名も知らぬ、顔も知らぬ人間ひとりの命は仕方がなかったのだと言い聞かせ、転落の恐怖に支配されて目を閉ざす。


 うずくまるように丸めたヴィーナスの背中から、白い羽のように光の魔力があふれる。


 吹き抜けになった塔の螺旋階段に、知らぬ誰かの断末魔が響くのを遠く聞いた。





 人ならざる力で、一人の法務官が突然死を迎えたという知らせは、即座に国王ドゥリオ・グランディフロルスに伝えられた。去り際のヒッポリテ大司教の笑みが脳裏に蘇る。これは、決断を渋るドゥリオへの脅しと催促だ。

 国王は一人、恐怖に頭を抱えた。ヴィーナスは魔力を封じられた牢の中にいる。教会は聖女カルミアの裁きだと主張するだろう。教会の犯行を証明するものは何も無い。光魔法とはただ癒やしと浄化の力だとしか知られていないのだ。


「聖女候補ヴィーナス・フライトラップ解放の手続きを進めよ」


 俯いたまま、顔を覆う指の隙間から呻くように王の声が告げた。







【植物メモ】


和名:ルリゴクラクチョウカ[瑠璃極楽鳥花]

英名:天国の白い鳥[Giant White Bird of Paradise]

学名:ストレリチア・ニコライ[Strelitzia nicolai]


ゴクラクチョウカ科/ゴクラクチョウカ属

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