42.貝の母 Fritillaria thunbergii

 魔法塔にてシャギー・ソルジャーの聴取に立ち会ったヴィオラセは、王都にある司教座聖堂オスボレッド大聖堂を訪れていた。

 教皇の座所であるレッド・クラウン大聖堂はもちろんカルミア教の総本山にふさわしい荘厳さを持つが、ここ王都にあるオスボレッド大聖堂も芸術性の高さ、規模ともに負けてはいない。王都という土地柄はイフェイオン王国における信仰の要でもある。そのオスボレッド大聖堂の司教となれば、教皇直下のヴィオラセよりも力を持つ。


「ヴィオラセ司教」


 祈りを捧げるために至聖所へ向かいかけたところでヴィオラセは声を掛けられた。列柱のアーケードが連なる回廊の中ほど。足を止めて振り向いた先には、この大聖堂の主が慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。


「ご無沙汰しております、ヒッポリテ大司教。礼拝を済ませてから挨拶に伺おうかと」


「それは、わざわざ」


 目上の者にする礼を取るヴィオラセに、大司教はゆっくりと歩み寄る。微笑んでいるように見える目は分厚い瞼に覆われていて、その奥の瞳は杳(よう)として知れない。若き補佐司教はふくよかな大司教がゆったりとした歩みで隣に来るのを待ち、二人並んで回廊を歩き始めた。


「それで、魔術師の弟子はどうでしたか?」


 シャギーとの面会が行われる件については、既にレッド・クラウンからオスボレッドへと書簡で伝えてある。ヴィオラセは今回のフォールス王宮魔術師の調査とは別件で王都へ向かっていた。フォールスが拘束され急遽、教皇の命を受けシャギー・ソルジャー聴取の立ち会いとなったのだ。


「年若いご令嬢とは思えない落ち着きでしたよ。師匠、まして叔父という身内の拘束に取り乱していることもなく。さすがソルジャーと言うべきか」


 大司教は首との境が曖昧な顎に手を当てて、ふむと唸る。


「我が教会でお預かりしている聖女様にも見習って頂きたいものですな」


「聖女様は聖女であるご自身にその価値がありますから。いかにソルジャー家のご令嬢とは言え教会から見れば令嬢本人に価値はありませんよ」


 よどみなく応えるヴィオラセを、ヒッポリテはちろりと伺う。


「それは、かつての評価でしょう。かの令嬢の魔法の才能については教皇様もご関心を示しているからこそ、わざわざ腹心のヴィオラセ司教を寄越したのでは?」


「──教会にとって信仰の対象となるのは光魔法だけです。それに変わりはございませんよ」


 ヴィオラセは薄らと微笑んで、そう断言した。

 聖女を保護していることで、今や教会内でのヒッポリテ大司教の力は教皇に並ぶほどになっている。王家の抱き込みも半ば成し遂げ、ここイフェイオンに限れば教皇を凌ぐと言っても過言では無いだろう。そうなれば狙うのは名実ともに頂点となる地位。

 カルミア教は他国にも多くの信徒や教会を持つためイフェイオン王国内での権力そのままに、すぐさま教皇の座を取って代わるとまではいかないが、当然、現教皇派は警戒をするだろう。例えば、聖女候補であるヴィーナスに瑕疵があるとして、その庇護者に責が問われることになればヒッポリテ大司教の力も削がれるだろう。その上で王国最強と言われる騎士団や豊かな領地ロルフ・フィードラーを持つソルジャー家を取り込めば──と、ヒッポリテはそれを警戒している。

 ソルジャー家に関しては故ソルジャー伯爵夫人ガーラントを贖人として教会に迎えることに失敗して以来、ヒッポリテは関係が良くない。教会の認定に従わなかったソルジャー家に反目する聖職者は多く、その声を抑え込めていないのだ。

 自分が取り込めないのなら教皇派に取られる前にソルジャー家を潰すしかない。そう考えるヒッポリテならば、教皇がヴィオラセを遣わせたことにも当然警戒をする。


──この、白キツネが。


 涼しい顔で聖女候補を讃えるヴィオラセに表面上は和かに微笑み返しながら、老神父は内心で毒吐いた。

 現段階で、状況はヒッポリテ大司教に大きく有利なままだ。光魔法を使えるヴィーナスは手中にあり、そして除籍されているとは言えソルジャー伯爵の弟フォールスの首にも手が掛かっている。罪人の家系としてなし崩し的にソルジャー伯爵家の立場を弱めていくことも可能になるだろう。

 例え、フォールスの処刑でソルジャー家が武力蜂起したとしても、王立騎士団は教会側に回るだろう。ヴィーナスに着けている護衛の報告によればウィンターヘイゼルの令息と接近している話もある。公爵家と王家、それに教会の聖騎士団を相手にするのはいかなソルジャー騎士団とは言えどうにもならないはずだ。


「私にこそ、二心はございませんよ。どうか教皇様が思い悩まれませんように、よくよくお伝えください」


 目の奥を見せぬまま、ヒッポリテ司教はそう伝えて来た時のようにゆったりと去って行く。その背中を、ヴィオラセは赤紫の瞳をすう、と細めて見送った。





 聖女のお菓子には、毒がある。


 ゲームのストーリーで悪役令嬢シャギー・ソルジャーを殺す毒は聖女暗殺を狙ったシャギーによってお菓子に入れられ、手違いで混入した本人が口にしてしまうという、哀れながら間の抜けた展開だ。もちろん、転生したシャギーはヴィーナスに毒を盛るような真似はしない。しないが。


「すごく見覚えのある、お菓子だわ……」


 シャギーの前に置かれた皿には、スコーンに似た素朴な焼き菓子。そしてその上にはツヤツヤと輝くベリーのジャムがたっぷりと乗せられていた。そのビジュアルに、シャギーは既視感を覚えて青ざめる。記憶に甦るのは、アイリスに見せてもらったドラセナルートのシャギー・ソルジャー死亡シーン。


「修道女さん達と一緒に作ったんです! カルミア教会に伝わる伝統的なビスケットなんですって」


 にこにこと笑う聖女ヴィーナスは乙女ゲームで見たそのままだ。


 なぜシャギーとヴィーナスがお茶会で同席することになったのか。始まりは、シャギーが数日前に受け取った、一通の招待状だった。

 差出人はバターカップ・ウィンターヘイゼル。かつて偶然シャギーが引ったくりから救った女性であり、スパイクの母親、そしてウィンターヘイゼル侯爵夫人である。夫人からの手紙はお茶会への招待状。そして二人でゆっくりと話したいというメッセージが添えられていた。


「お前と別れる際にスパイクは、ウィンターヘイゼルがウチに関わらないという密約を条件に出したと聞いたが?」


 招待状を見たカランコエが口をへの字に結んで腕を組む。不機嫌と苛立ちをむき出しにする兄をなだめつつ、シャギーもどうしたものかと考える。

 シャギーとスパイクの婚約話は、逃走した二人をスパイクの兄フィルバートが連れ戻しに来たあの日に完全に立ち消えた。

 ウィンターヘイゼル公爵家はもともと、“獣の因子”であるスパイクと王国最古の血筋ソルジャー家の令嬢を番わせることで“女神の欠片”を誕生させようと画策した。しかし下町で“女神の欠片”であるヴィーナスが発見されたことによって、シャギーと縁を切りスパイクとヴィーナスとを結びつけようと目論んだのだ。

 ゲームとして眺めていた頃はそんなウィンターヘイゼルの事情は当然知らず、心変わりして婚約破棄を叩きつけたスパイクを酷い男だと思っていた。しかし背景を知った今となっては、スパイクが婚約破棄を申し出たことは彼女──悪役令嬢シャギー・ソルジャーへの救済だったのではと思う。そうでなければシャギーは公爵家によって亡き者にされていた可能性もある。


 スパイクは、シャギーとソルジャー家に手を出さないことを条件にウィンターヘイゼルへと戻った。しかし、今、シャギーのもとに接触を試みる手紙が届いている。


「夫人の独断だと思うわ」


 シャギーは今も、スパイクからの愛情を疑ったことはない。シャギーとよりを戻そうとしないことこそがその証明になっているのだから、皮肉なことだ。多くの女性と浮き名を流すことで縁談を遠ざけ、一度は恋人となったシャギーとも離れ、スパイクはいつも人を守るために孤立する。

 そんな息子のことをウィンターヘイゼル公爵夫人はどう考えているのだろう。シャギーと二人で話したいということは、もしかして息子を救えないのかという相談かもしれない。それに、フォールスが捕らえられている今となっては少しでも敵対戦力は減らしておきたい。ウィンターヘイゼルが味方についてくれるとは思わないが、教会と衝突した際に中立で居てくれるだけでも十分だ。


「お兄様、私、夫人に会ってきます」


 シャギーの返事にカランコエは目を吊り上げたが、反対することはなかった。妹の自由を奪って自分を安心させる道よりも、妹に後悔しない道を行かせることを優先する。それはきっと父も同様なのだ。3日後、シャギーは髪を結い、訪問着のワンピースを着て王都のウィンターヘイゼル公爵邸に夫人を訪ねた。


 庭園にあるガゼボへと通されウィンターヘイゼル公爵夫人と挨拶を交わしお茶が注がれたところで、夫人は侍女と護衛を会話の届かない位置まで下がらせた。シャギーからすれば籠の鳥だと思っていた夫人だが、思いのほか権限を持って振る舞える様子を見て驚く。


「私の実家ね、隣国で手広く商売をしていて、なかなかお金持ちなのよ」


 シャギーのかすかな驚きを見て取ったのか夫人がウインクをしながら伝えてくる。つまり夫人は個人の資金を使って自分の身辺の人間をある程度握っているということらしい。出会ったときは可憐なばかりの印象だったが、したたかな面も持ち合わせていると知れた。


「私のことはバティと呼んで頂戴。ウィンターヘイゼルの名はあまり口にしたくないでしょう? かといって私の名前はほら、長いから」

「ありがとうございます。お気持ちに甘えさせていただきます、バティ様。どうか私のこともシャギーとお呼びください」


 気さくに話してくれる夫人の表情を探りながらシャギーも会話に応じる。


「旦那様とフィルバート様は領地への視察で留守にしているの」

「そう、ですか……」


 長男のことを多人行儀に呼ぶのは、実子では無いのもあるが後妻である夫人とは10歳ほどしか離れていないこともあるのだろう。一見、何も知らないように微笑む夫人がどこまでウィンターヘイゼルの事情を知っているのか疑問に思う。あまり踏み込んで話すこともできずに様子を伺うシャギーに気付いたのか、夫人は安心させるように微笑むと、目を伏せる。


「旦那様は何も教えてくれないわ。だから推察することしかできないのだけど」


 夫人が視線を上げる。


「スパイクは、あの子は“ウィンターヘイゼルの探しもの”のひとつなのだと思うわ。だから旦那様はスパイクの子を作ることに躍起になっている」


 嫌悪に眉をひそめ唇を噛む表情は、息子を思う母親のそれだった。そのことにシャギーは少なからず安堵する。スパイクのことを思う人がこの家に居てくれる。ただ、息子の身を守り切るには公爵家は巨大すぎるのだろう。


「つい最近まで、私はあまりに呑気だったわ。この家がどんな家なのか何となくわかっていたのに息子の命さえ無事ならばそれでいいと思っていた。あの子はいつも私には笑っていたから、その裏で彼が感情を失くしていくのにも気が付かなかった」


 隣国に伝手があるのならスパイクを逃がすことはできないのかとは言わなかった。それはシャギー自身が実際に企てて失敗したことだ。ウィンターヘイゼルはスパイクを決して見逃さないだろう。


「あなたが嫁いでくれたら良い方向に行くんじゃないか、なんて、夢を見ていたのよ。息子はソルジャー家のご兄弟を、あなたたちを気に入っていたし、ソルジャー家が相手ならば簡単には手を出せないと」 

「でも、ウィンターヘイゼルが私に代えて聖女を欲していると知ったのですね」


 夫人は息を呑んで、そして頷いた。


「あの子がロルフ・フィードラーから戻った直後ね、旦那様がスパイクに話すのを聞いてしまったの。“女神の欠片”が見つかったと」


 それは夫人が、無事に帰還した息子の顔を確認しようと公爵の執務室へと赴いた時だった。夫の声が聞き慣れない単語を紡いだのを聞いて咄嗟に、ノックをしようと持ち上げた手をそのままにした。彼女は最初、その言葉が何を指すのかわからなかったという。だが、続く公爵の言葉によって衝撃を受けた。


「『聖女を孕ませろ』と、旦那様は言ったわ」


 聞くに耐えない言葉だ。シャギーが大いに顔をしかめたのを見て、夫人が「ごめんなさい」と謝罪する。若い令嬢に聞かせるべき言葉ではなかったと気付いたのだろう。シャギーは夫人に、構わないと首を振った。何度聞いても気分が悪くなるが、既に知っていたことだ。


「シャギーさん、勝手なことを言っているのはわかっているわ。でも、ほんの少しだけでもあの子に会ってもらえないかしら」

「バティ様」

「あの子をこの家から逃がしてあげられるだけの力が、私にはないわ。だけどあの子が壊れていくのを見ていることもできない。ほんの少しの時間でも、あなたと会って話す時間が息子の心の守りになるのじゃないかと──」


 ウィンターヘイゼル公爵夫人が嘆願の言葉を続けようとしたとき、離れて控えていた侍女と護衛が動くのが見えた。何事かと様子を伺う夫人とシャギーのもとに侍女が駆け寄り伝令を伝えようとするが、その言葉が伝わる前に黒髪の青年が庭園に姿を表す。


「スパイク」


 夫人が喘ぐように息子の名を呼ぶ。名を呼ばれた青年は怒りを湛えた琥珀の目をぎゅっと細めた。そして、母親の前に立ちすくむかつて恋人だった少女を見る。

 ああ、変わらないとシャギーは思った。学園でヴィーナスを傍らに置いて顔を合わせたときにはあんなにも温度を感じない瞳だったのに。

 今、スパイクの眉間にはかつてシャギーが愛おしく思った「切ない」がたっぷりと込められていて、それを見るとどうしても手を差し伸べたくなってしまう。


「母が勝手をして、済まない」


 スパイクはあらゆる感情を一瞬で飲み込んで、シャギーに頭を下げた。声を掛けようとシャギーが口を開いた瞬間、無遠慮な甘ったるい声が割り込んできた。


「スパイク急にどうしたのぉ? 置いてくなんてひどくなぁい?」


 ふわり、肩までの桃色の髪を夢見るように揺らして、白い祭服に赤い宝玉のネックレスをした少女が現れる。


「ヴィーナス・フライトラップ……」


 唸るように小さく声をこぼしたシャギーを見て、ヴィーナスがぱちりと瞬く。


「ほんとに来てたんだシャギー・ソルジャー」


 ぽそりとこぼされた言葉の真意はシャギーにしかわからない。“イフェイオンの聖女”という乙女ゲームの展開を知る人間にしか、ウィンターヘイゼル公爵家でのお茶会で聖女と悪役令嬢シャギー・ソルジャーが顔を合わせる可能性など考えない。シャギー自身もすっかり忘れていた。

 そう、ゲームでは“婚約者のお茶会”にスパイクがヴィーナスを連れて来る展開だったため、婚約が成立しなかった現実では起こり得ないイベントだと決めつけていた。


「あなた達は招待していないわ」


 息子に対して勝手にシャギーを呼び出した負い目を抱えつつ、気を持ち直したウィンターヘイゼル公爵夫人が毅然と声を上げる。ヴィーナスはゆったりと微笑んだまま夫人を見て、それからスパイクへと向き直った。


「ねーえスパイク、私、こんなに悲しいこと言われちゃったら、教会に帰って泣いちゃうかもしれないなぁ」


 その言葉に、夫人はぐっと言葉をつまらせる。同時に、なぜスパイクがヴィーナスに無礼な振る舞いを許しているのかも想像できる一言だった。教会の後ろ盾をちらつかせればヴィーナスは無敵なのだ。今のところは。


「あらためてお伺いしますね、ウィンターヘイゼル公爵夫人」


 手に提げていたバスケットを持ち上げて、聖女が微笑む。中から覗く、見覚えのある焼き菓子を目にして、シャギーはごくりと息を呑んだ。


「教会でお菓子を焼いたので、持ってきたんです。私もお茶会に参加してもいいですか?」 


 聖女のお菓子には、毒があるのだ。

  

 




【植物メモ】


和名:バイモ[貝母]/アミガサユリ[編笠百合]

学名:フリチラリア・ツンベルギー[Fritilaria thunbergii]

生薬として用いられるが心筋を侵す副作用があるので注意が必要


ユリ科/バイモ属

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