33.竜爪槐 Sophora japonica var. pendula

 獣の生を受けたのに、きれいな、とてもきれいな光に恋をした。



 物心がついた頃には、自分はもう“異様の子”だった。

 自分の中の“乾き”が産声を上げたのは、父親に手を引かれ、北の領地にある精霊の森へ連れて行かれたとき。


 森の中は精霊たちの暖かな光に満たされていた。そしてその光に包まれたとき、身の内から強烈に湧き上がったのは憎しみに似た衝動だった。

 衝動のままに、獣は哭(な)いた。自分の体から黒い揺らぎが溢れ出して、そのモヤに触れた精霊は消えていった。


「獣の因子……」


 自分を見下ろす父親が漏らしたその言葉の意味はわからなかったけれど。

 自分の身の内に獣が棲んでいることだけは、よくわかった。


 “女神の欠片”と“獣の因子”。

 この国に伝わる存在がただのおとぎ話ではないことを、生まれ持った呪いによって知ってしまった。


 生まれたのがウィンターヘイゼル公爵家でなければ、ヒトのフリでもして、ひっそりと生きていけたのかもしれない。考えても仕方のないことだ。この一族の血だからこそ獣が宿ったのかもしれないし、あるいは獣を封じるための神の采配だったのかもしれない。

 狂った一族は神話に伝わる獣の血も女神の血も絶やしてはいけないと信じ込んでいる。精霊を殺す力を宿した息子に、父親はとにかく多くの子を為せと命じた。年端も行かぬ少年に娼婦を充てがうような真似までした。おぞましくて逃げ出せば「慣れろ」と言われ、椅子に縛られて強制的に行為を見せられた。

 家を出て生きていくために武術や魔法を習えば、良い心がけだと褒められて。


 ある日連れて行かれた場所で、人を殺すように言われた。


 敵だから問題はない、この地を護るために必要なことだと説き伏せられて。“実践”と称された人殺しに連れ出される度に、ああそうか、獣に生まれたからこんな生き方をさせられるのかと悟った。

 逃げ出すことも、自ら命を立つことも、檻の中では許されないけれど。子を為さず、何も為さず、この世界に何も残さず朽ちていけたら、この獣も死ぬのだろう。


 学園に入ってからは持ち込まれる見合いから逃げるために、多くの女性と付き合いがあるような素振りを見せた。良家の令嬢であれば醜聞のある三男との縁談など断られると踏んだのだが、ソルジャー伯爵家の令嬢に関わったのは失敗だった。


 令嬢というよりも鍛え上げられた武人のような、不思議な佇まいをした少女だった。恋愛ごとにはまるで慣れていない風なのに、それ以外のこととなれば驚くほどに達観していた。そして知れば知るほど、潔さや、人のために自分の身を投げ出せる強さに惹かれた。自分なんかが傷つけることが出来ないほどに強くて。

 だから、触れても許されるのではないかと淡い期待を抱いてしまったのだ。獣の生を受けたのに、きれいな、とてもきれいな光に、手を伸ばして。


 きっと傷をつけてから、己の指に醜く尖った爪が伸びていることを知る。


「婚約できないということは……公爵家は“女神の欠片”とスパイクの婚姻を望んでるってこと?」

「そうだね。あとは俺の意思」

「スパイクの意思……」


 スパイクが告げた言葉をなぞるように呟いて、シャギーが顔を伏せる。ローブを掴んでいた指先がするりとほどけた。

 それを寂しいと思ってしまう浅ましさにスパイクは内心で舌打ちをする。生まれた家が狂っていなければ、それとも自分が人として生まれていたなら、好きな人を幸せにすることが出来たのだろうか。幾度となく夢に見た願望が去来する。

 胸の痛みに、知らず奥歯を噛み締めた、その時。不意にスパイクの眉間に何かが触れた。


 驚いて顔を上げれば、シャギーが困ったような顔でくるくると眉間を撫でていた。


「スパイクのここ」

「んっ?」

「ズルくない?」

「ズルい?」

「うん。ここさあ『切ない』がめちゃくちゃ詰まってるんだよね。何でそんなに苦しそうなのか気になって何でもしてあげたくなっちゃうし、苦しいだけじゃなくて、好きだ、みたいな途方に暮れる感情も入ってて、この世の『切ない』が凝縮されいるというか、何かこう、何ていうか」

「……」

「いとしい」


 だからロルフフィードラーでここにキスされたのか。変わった所にキスするんだなと思って、唇にやり直してしまったことを反省する。


「また、キスしてくれるの?」

「いいの?」


 反省した上で思わずおかわりを要求したら、あっさり承諾されてしまって戸惑う。大丈夫だろうか、この子。気前がいいというか豪胆というか、色んなことに惜しみなさすぎて不安になる。そんなに何でもくれてやっていたら、いずれなくなってしまうのではないだろうか。

 例えば自分のように飢えて乾いた獣がこれ以上寄ってきたらどうするのだろう。


「──今はダメ」


 うっかり自分以外の男に惜しみないシャギーを想像したら思いのほか嫉妬心が湧いてしまい、誤魔化すように苦い返事を返してしまう。

 その答えにシャギーは唇を尖らせたが、すぐにそれを引っ込めると居住まいを正してスパイクを見上げた。


「スパイクは今のところ、その“女神の欠片”ちゃんが好きってわけじゃないんだよね?」

「え?」

「違うの?」

「い、や!違わないけど!」


 良かった、と安心したようにシャギーは笑った。


「じゃあ私が傷付く必要も無い」


 キッパリと言い切る笑顔に力が抜けて、なぜか泣きたくなる。


 あまり甘やかさないでほしい。自分がどんどんダメになっていくような気がする。これ以上甘えたら、この先どんなに傷付けても手放せなくなってしまう予感がする。それだけは。


「ごめんスパイク、ちょっと屈んで」


 自分は一体どんな顔をしていたのだろう。正確にはどんな眉間をしていたのか、だ。急に屈むように懇願してきたシャギーの目線は、目の上あたりを指している。


 触れたいけれど触れて傷付けるのが怖くて、ぐるぐると巡る心を知ってか知らずかあくまで眉間を狙ってくる少女に少しだけ拗ねて。

 スパイクは額を差し出す素振(そぶ)りで屈むと、そのまま少女の唇を奪った。


 慌てて閉じられた睫毛が震えている。背中を彷徨った指が幼子のように寄る辺無く布を握りしめる。何でこんなにきれいで可愛い子が自分のような獣を好きになってくれたんだろうか。いや、そうか。


 騙したからか、俺が。





「家出!? 」


「シャギー、声」


 人差し指を唇に当てるゼスチャーでスパイクにたしなめられ、シャギーは肩をすくめる。ごめん、と言いつつも驚いてしまったことは責められないだろうと思う。それ程の急展開。

 王都に戻った後、どうして学園を欠席していたのかと訊ねれば、なんと恋人はウィンターヘイゼルから逃亡していたという。


「婚約者の無事を見届けて戻ってみたら別の女の話だからさ……つい、衝動的に」


 まるで人ごとのように、スパイクの口調は軽いものになっている。この顔は知っている。シャギーは思う。貼り付けたような自嘲と温度のないお喋り。これは絶望した時の自衛。


 何不自由なく育った公爵令息だと決めつけていた時は気が付けなかった。

 人から傷付けられないために、自分から進んで傷を晒して笑う。そういう仕草は自分自身が前世で何度もやってきた。

 他の子が当たり前のような顔をして持っているものが自分には手が届かないとき。自分の家が「フツウ」とは違うと思い知らされたとき。


 わたしにはなんてことないのです!


 そういう顔をして自分からナイフを突き刺して見せた。それは当然強がりで、当然しっかり傷付いて、血が流れて、痛かった。


「あっさり捕まったけどね。さすが巨大公爵家」


 血を流しながら笑うスパイクを、シャギーは笑ってあげることができない。


「一人でやろうとするから」

「シャギーやソルジャー家を巻き込むのは、それこそ一番やりたくないな」

「その気持ちわかっちゃうからつらい」

「そうでしょう」


 意地を張るなと連れ出せたら、それだけの力があれば、こんなに苦しませることもない。やるせなさにシャギーは唇を噛む。


 転生して、“持ってる側”に生まれたと思った。事実、悪役令嬢シャギー・ソルジャーは前世で菊子が持たなかった何もかもを持っていた。

 恵まれた財産、恵まれた容姿、恵まれた能力。だからゲームの中でシャギーが語る自己憐憫も、中途半端なままの能力も、人を寄せ付けない攻撃性もすべてが嫌いだった。


 だけどいざ、あんなに嫌いだった人間に生まれ変わってみたら、そんなに持っているわけでもなかった。


 愛する母の死から始まって、その原因が自分にあると思い込み、兄に蔑まれ自信を失い、その兄は憎しみや誤解が昇華される前に教会に奪われて、唯一愛してくれた父親を戦争で失い。貴族令嬢として生まれたならば魔術や剣術だって血反吐を吐くまで鍛錬しようとは思わなくて当然のことだ。そしてシャギーは鍛えなくとも戦えるほどの才能に恵まれていたわけでは無い。何も無くなった悪役令嬢は後ろ盾を得るために婚約した相手からも棄てられる──


 そこまで考えて、シャギーはゾッとした。


 自分の結末を知っていなければ。断罪回避のために魔術や剣術を鍛えていなければ、父のアクイレギアは死んでいた。アイリスというイレギュラーに出会えなかったら、兄のカランコエは精霊を封じられたまま教会へ入っていただろう。もちろんフォールスやクローバーとも会えず、スパイクと旅をして彼を知り、恋に落ちることもなかった。

 愛を知っていれば、その愛をわけ合うことは何も難しいことでは無い。だけど受け取ることも与えることも出来なかった。それはシャギーの罪ではない。


 今だって、こうしてすぐに無力感に追いつかれる。ウィンターヘイゼルほどの大貴族を敵に回す力は努力してきたシャギーにも、まだ無い。


「でも、諦められないからスパイクも付き合って」

「いや、付き合わせてるのはこっちでしょ。俺が・・、シャギーを巻き込みたくないっていう話をしてたと思うんだけど」

 「巻き込まれるのはしょうがなくない?」

「しょうがなくないよ、捨ててよこんな面倒くさい奴」

「無理でしょ。スパイクも無理だから思わず家出しちゃったし、それでも会いに来ちゃったし、うっかりキスまでしちゃったんじゃないの?」


「それに関しては返す言葉もない」


 スパイクがため息を吐いて、俯く。どうしようもない。


「ほんとに……ウィンターヘイゼルなんかに関わったら碌なこと無いから」

「私が成人したらこっそり婚姻結んじゃうのは? カルミア教会の目があるから離婚は認められないよ」

「そうだね。──ただその場合、最初の妻は必ず不幸になるだろうね」

「それは、つまり……」


「殺される。そうしないとを迎えられないから」


 思いもよらないところから死亡フラグが飛び出してシャギーはごくりと唾を飲んだ。さすが悪役令嬢、破滅へのルートだけはめちゃくちゃ持っている。要らないのに。

 俯いたスパイクのつむじを見つめながら改めてため息をつく。どうしようもない。


 その時、前触れもなくシャギーの部屋の扉が開いた。シャギーもスパイクも同時に息を飲んで身構える。開かれた扉の先に立っていたのはシャギーの兄、カランコエだった。


「すぐにここを出ろ、スパイク」

「お兄様、これはっ……!」


 夜更けに未婚の令嬢の部屋に、二人きり。シャギーが兄の怒りを宥めようと声を上げるのをカランコエは首を振って制した。


「お前達の状況については後でゆっくり聞くとして、スパイク。──ウィンターヘイゼル公爵家の騎士団がここへ向かってるそうだ」


 カランコエの言葉に二人は息を飲む。


「たまたまソルジャー家の諜報が掴んだ情報だ、公爵家からの先触れはない。王都のウィンターヘイゼルの城に騎士が集められ、こちらに向かっていると……。おそらく、お前がここに居ると踏んでの行動だろうが息子のお迎えにしては随分と物々しいな?」

「巻き込んでごめん。数日前に家出しかけたから多分逃亡を警戒されてる……。俺が無抵抗で出ていけばソルジャー家には何もしないはずだから、すぐに──」

「お前はそれでいいのか?」

「いいも何も」

「ロルフ・フィードラーまで行けば秘密裏に国境を越えることもできるが」


 逃げたいのなら協力する。そう伝えるカランコエにスパイクは激しく頭(かぶり)を振った。


「やめてくれ!ウィンターヘイゼルに弱みを握られたらソルジャー伯爵も君たち兄妹もどうなるかわからないんだから」

「弱み? 先に騎士団を動かしたのは向こうだろ。ソルジャー家は売られた喧嘩は買う。喧嘩のついでに、ひと一人が逃げる時間を稼がせて貰うくらいは容易い」

「お兄様……!」


 兄の言葉にシャギーが目を輝かせるがスパイクは決して頷かなかい。


「ありがとう、カランコエ。でも他家を巻き込むのは……もう巻き混んでるけど、これ以上は本当に死んだ方がマシなんだ」

「そうやっていつも自分だけで抱え込む。友人一人救えない俺の気持ちは」

「ごめん」


 カランコエとスパイクが交わす会話を聞きながらシャギーは思った。


『じゃあソルジャーを巻き込まなければいいのでは?』


 どうしようもないから、考える。

 つまり。


「スパイクは私と駆け落ちしてほしい。そしてソルジャー家はウィンターヘイゼルの騎士団と協力して私達を捜索すればいいんじゃないかな」

「──なるほど。だが俺達には二人の行方なんて見当もつかないからな。見当違いのところを捜索して混乱させてしまうかもしれないな」

「仕方ありませんね。私達の逃亡とソルジャー家は無関係ですから」

「何言ってるの君たち」


 兄妹の言わんとする所にスパイクが蒼白になる。


「チャンスは何回も無い。今逃げよう、スパイク」


 シャギーはそう言って、愛しい人の手をとった。





 かつて、ソルジャー家の精霊の森で魔法使いは少女に言った。


『いざとなったら私がシャギーを連れてどこまでも逃げますから』


 叔父のフォールスはシャギーのヒーローとなった。あの時に貰った言葉を守護にして、恐怖に負けずにいられた。だから今、スパイクが苦しんでいるのなら同じ魔法を渡してあげたい。シャギーは少年の解放を願った。


 その夜、王都では深い霧が発生していた。混乱した人々が入り乱れる路では馬を進めることもままならない。逃亡者には偶然の幸運とも言える自然現象だ。よほど大規模な水魔法が使われたのでなければ、だが。

 暗く細い路地をごく小さな風魔法で切り裂きながら、二人の影は誰に知られることもなく王都を抜けて森へと足を踏み入れる。


 ロルフ・フィードラーへ向かう道ではない。確かにソルジャー家の領地まで辿り着ければ逃亡はより確実にできる。しかしそちらはウィンターヘイゼルが真っ先に捜索するだろう。

 シャギーはゲームの知識からカランコエとヒロインが隣国へ逃亡したルートを知っている。


 “イフェイオンの聖女”では待ち構えていた悪役令嬢シャギー・ソルジャーが兄のカランコエに討たれた場所。境界の森を目指して、息を潜めて闇夜を進む。


「なんでこんな道知ってるの」


 怪訝そうに尋ねるスパイクにシャギーはギクリとする。相手も何かと秘密が多いが、シャギーはシャギーで秘密が多い。


「──生き残るために、色々と頑張ってたから……」


 誤魔化しながら、いずれは話そう、頭のおかしい子だと思われないくらい好きになってもらえたら、と誓った。








【植物メモ】


中国名:リュウノツメエンジュ[龍爪槐]

和 名:シダレエンジュ[枝垂れ槐]

学 名:[Sophora japonica var. pendula]


マメ科/クララ属

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