56.ピンクスター Ipheion Pink Star
サングイネア家の屋敷は火が消えたような寂しさに覆われていた。アイリスは血の繋がらない家族ではあるが、その持ち前の明るさで家族の誰からも愛されていたのだ。
どうやってソルジャー領に帰り着いたのか、シャギーには記憶が判然としない。迎えに来たソルジャー騎士団の数人とともに帰ったのは確かなのだが、どこか夢でも見ているかのように思考は定まらなかった。
そんなシャギーの様子は傍目にも痛々しく、誰もが言葉を掛けられずにいた。人の手を借りようとはせず自分で馬に乗ったのだが、時々手綱から手が滑るのを隣を行くスパイクが何度か支えた。
シャギーが帰ってくるのを屋敷の外まで出て待っていたカランコエは、馬から降りた妹を無言で抱きしめた。されるがままそれを受け入れるシャギーはただいまとも言わず、兄に告げた。
「お兄様、先生はどこですか?」
「──シャギー、少し休め」
「いいえ」
シャギーはゆっくりと首を振って、兄の言葉を拒む。
「やらなくちゃいけないことがあるんです」
一刻も早く聖女を見つけ出し、その背後に居るカルミア教を告発する手段を探さなくてはならない。
遺跡の調査に出ているというフォールスを待つ間、シャギーは浴室で考えていた。アイリスが狙われたその理由について。
アイリスが受けた攻撃は聖女ヴィーナス・フライトラップの光魔法だ。最悪はサングイネアの中に手引きする人間が紛れていることだが、そうでなかったとしても戦場で見た聖女の攻撃魔法ならば屋敷の外からもアイリスを狙うことが可能だ。サングイネア騎士団による侵入者の捜索と追跡はすぐに行われたが、聖女もそれらしい人物も見つけることはできていない。
襲撃の夜、すでにベゴニア老がサングイネア領から引き上げた後だったのも悔やまれる。無事に領地まで送り届けた後もしばらくは子爵領に留まるように話をつけておくべきだった。
そして動機だ。
アイリスも手紙で書いていたように、カルミア教にとってアイリスの能力が邪魔だったのは間違いない。ただでさえ聖女ヴィーナスの先読みの能力がかすむ上に、サングイネア家から離反しなかったことでアイリスは明確に教会と反目する立場となった。
なぜもっと早く気が付くことができなかったのか。悔やんでも悔やみきれなかった。アイリスの様子に違和感を感じた時に、無理矢理にでも問い詰めればよかった。
自領に戻って以来、王都からの侵攻が無いのも不気味だった。戦場でソルジャー家の強さを目の当たりにし、再戦に及び腰になるのは理解はできる。だがアリストロキアまでは聖騎士団の追跡があったとわかっている。そこまで迫って来ていたのに追撃がないのはなぜなのか。
(違和感から目を背けるな)
シャギーは湯煙の向こうの壁を睨みつける。ひとつのことに捕らわれて、他をおろそかにした。自分の中にある違和感を見ないふりをしていた挙げ句、この事態を招いたのだ。
「……ッ!」
取り返しのつかない自分の過失に堪らなくなって、壁に拳を打ち付ける。思い返す度に悔しさとやるせなさに涙が溢れる。この感情を消す術など知らない。だがやるべきことはある。このまま安穏と領地に留まることはしない。聖女を、教会を、絶対に許さない。
浴室から上がって自室のドアを開けると、濡れ髪に布が被される。顔を上げればスパイクだった。通したのはカランコエだろうか。スパイクもシャギーと同様にシャツにパンツというラフな出立ちだった。
シャギーはベッドに腰掛けて、無言で髪を拭く。スパイクはシャギーを見ることなく窓際の椅子に腰を下ろし外を眺めていた。
「スパイクも、汗は流したの」
「ああ」
二人して互いを見ることなく、どうでも良いような会話を交わす。それでもきっとシャギーは救われている。一人、アイリスの喪失に耐えることから。
「ずっと……着いてきてくれてありがとう」
「俺が勝手にそうしたかっただけだから」
「うん。でも、一人だったらあの森は抜けられなかったから」
夢中で駆けていたときは気にする余裕もなかったが、灯した光魔法で払いきれない魔獣をスパイクの闇魔法の盾で防いでいてくれたのだ。
「結局何もできなかったけど」
シャギーの言葉に自罰的な響きが混じる。それを察したかのようにスパイクが椅子から立ち上がった。おもむろにベッドに座るシャギーの前に来ると目線を合わせるように跪く。
「サングイネア嬢は、いつもシャギーの幸せを望んでた」
真っ直ぐ目を見てそう言われる。シャギーは唇を噛んだ。わかっている。アイリスを救えなかったと、自分を、シャギー・ソルジャーを追い詰めることこそ、彼女が最も望まないことだと。
「俺に送られてきたサングイネア嬢からの手紙。その最後はいつもシャギーの幸せを願う言葉で締めくくられてた」
スパイクは目を逸らさない。それはかつて本心で人と関わることを避けていた頃とは違う姿だ。シャギーと出会って、家を飛び出して、そして別れて。会えなかった日々の間に彼は変わった。きっと今のスパイクならばシャギーがどれだけ荒唐無稽な話をしても信じてくれると、そう確信できた。だから。
「スパイク」
名前を呼ぶ。揺らがない琥珀を覗き込む。聞いて欲しい、と思った。
「聞いて欲しい話があるの。とても信じられないような話なんだけど」
アイリスとの出会いから同じ世界での前世を持つ奇妙なつながりまで、二人の間にあった絆をすべて、聞いてほしかった。知っていてほしかった。いつか痛みとともに記憶が薄れてしまう前に、胸を穿つようなこの悲しみを、すべて。
「──ずっと、不思議だと思ってた」
シャギーとアイリスに前世と思われる記憶があること、その前世に見た物語によってこの世界を知っていたということ。シャギーの話をじっと黙って聞き終えたスパイクが、ぽつりとこぼす。
「会ったばかりの頃、シャギーがここじゃないどこかを見ているような気がしたり」
「そうかな?」
「まず初対面から嫌われていたし。俺がシャギーを裏切る未来を見てたって聞いて、納得した」
「確かにあの頃は、目の前の本人じゃなく物語の中のスパイクを見てた……ごめん」
謝るシャギーに、スパイクが小さく笑う。
「いや。あの後もシャギーが関わってくれなかったら、俺はきっとシャギーの知る物語の中のような人間になってたよ」
多分、あっちのスパイクも婚約破棄は優しさだったんだのだとシャギーは思う。ただ、ゲームの中のシャギー・ソルジャーがそれを知ることはなかった。スパイクが一人抱える闇を見ず、自身もまた抱えた孤独を見せなかった。
「女神と出会ったときも。俺は何が起きているのか全くわからずに居たのに、シャギーはどこか納得しているみたいだった」
「そういうこともあるって、聞いたことがあったの。──前世で」
二人はベッドに並んで座っていた。不意に、スパイクがシャギーに手を伸ばし、被ったままだった布を取り去る。金色の髪はもう乾いていた。シャギーはどこかぼんやりとスパイクの動きを追う。
正面から見つめ合って、窓から差し込む午後の陽がきらきらと埃の粒子を照らして、スパイクの琥珀とシャギーの翠玉(エメラルド)を透過する。
「前世からシャギーを思っていたっていうなら、サングイネア嬢には敵わないな」
スパイクの眉間に切なさが乗る。シャギーもまた同じ顔で見つめ返しながら、頷いた。誰よりも愛してくれたのだ。誰の手も借りず生きようとした悪役令嬢シャギー・ソルジャーも、今ここに居る、菊子の記憶を持つシャギーも。
「教会の罪を証明しよう、一緒に。俺も彼女に返したい恩があるんだ」
スパイクが言う。これまでその決意はシャギーただ一人のものだった。スパイクはそれに協力をしてくれていただけ。だけど今、自分の意志でシャギーとともに戦うと言ってくれた。
悲しみは癒えない。アイリスの敵を取ったとしても、心に安寧は訪れない。わかっているけれど、彼女に手向ける花があるのなら、それはこの世界で真実を明らかにすることだ。どんな正義も人の命を奪う言い訳になりはしない。
「ありがとう」
抱きしめるスパイクの腕に隠れて、シャギーは少しだけ泣いた。もう、しばらくは泣かないと決意しながら。
◆
「オスボレット大聖堂のヒッポリテ大司教が、アリストロキアで死んだらしい」
夕方。屋敷に戻ったフォールスとともに、カランコエがシャギーの部屋を訪れた。そこで聞かされたカルミア教の司教の死。
「アリストロキア……では、ソルジャー騎士団の追撃に出ていたのはその、ヒッポリテ大司教なんですか?」
シャギーの問いに、カランコエが頷く。アリストロキアで追撃が止まったことは知っていたが、その原因が大司教の死とは。
「オスボレット大聖堂の大司教は私の身柄引き渡しを要求していた人物です。王都の大司教ですから、今回の一連の出来事すべての背景に居たと言ってもいいでしょう」
フォールスが神妙に言う。彼だけではない、その場にいる全員が重苦しい気持ちになっていた。
「カルミア教も一枚岩ではない。王都を潰せば一旦は停戦状態に持ち込めると思っていたが」
カランコエが言う通り、裏ですべての糸を引いていたのがヒッポリテ大司教ならば動きやすかった。いずれ追求は教皇にまで及ぶとしても、目先の目標として王都の大司教を失脚させ力を削ぐのが攻めやすいところだったのだ。死人の罪は追求が難しい。その上。
「アリストロキアで既に死んでいたのなら、アイリス襲撃を指示したのは王都の大司教ではない……」
シャギーが呟く。
もうすでに、王都よりさらに奥深いところからカルミア教の手は伸びてきている。そこまで考えてふと、以前もその片鱗を感じたことを思い出す。
フォールス拘束中に王立研究室で行われた聴取。あの時、カルミア教会が立ち会いに出してきたのは総本山レッドクラウン大聖堂の補佐司教だった。
ヴィオラセという、まだ若い司教の姿を思い起こす。あの時もシャギーは微かな違和感を感じたはずなのだ。
(思い出せ)
あの日、抱いた違和感はどこにあったのか。交わした挨拶の最初から、映像を巻き戻すようにつぶさに再生していく。部屋に漂う埃の粒子が夕陽に赤く染まる。それはまるで火の精霊のようで──そして、シャギーは気がついた。
そこここに精霊が満ちるフォールスの研究室。赤紫の目が不意に揺らいだ瞬間。視線の先には特にヴィオラセの気を引くものはなかったはずだ。あの目が無意識に追ってしまったのはおそらく。
精霊の姿。
「最初から、ソルジャー家を狙っていたのは大司教じゃない……」
教皇側に居たのだ。アイリスの手紙を読むことができた、人間が。そしてその人物はいつの間にかサングイネア子爵家に、アイリスの周囲に入り込んでいた。
フォールスが拘束された後、カルミア教は決定的な証拠を何ひとつ提示できなかった。研究所でもカルミア教の監視があったとして、フォールスを尾けたのなら現場で拘束もできたはずだ。なのに、王都を離れたフォールスの動向をカルミア教は掴めていなかったのだ。
その後のシャギーの聴取でも、カルミア教は魔獣の遺骸に何の関心も見せなかった。贖人の秘密にフォールスの指がかかっている、そのことまでは知っていてもその研究がどこまで進んでいるのかは把握できていなかったのだ。
ならばなぜ、フォールスがガーラントの墓を暴いたことが知られたのか。それはきっと、アイリスの手紙だ。フォールスから託されたというインクを使って書かれた、スパイクへの報告と未来視。それを読んで、ヒッポリテ大司教に情報を流した人物が居たのだ。
「アイリスが狙われたのは、ソルジャー家を潰すためには彼女の存在が邪魔だったから……」
俯いていたシャギーが顔を上げる。
「レッドクラウン大聖堂に、行きます。アイリスを襲った聖女とその手引をした人間はイフェイオン・ピンクスターに居ます」
【植物メモ】
和名:ハナニラ・ピンクスター[花韮]
英名:スプリング・スターフラワー・ピンクスター[Spring star `Pink Star']
学名:イフェイオン・ピンクスター[Ipheion `Pink Star']
ユリ科/ハナニラ属
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