57. 地獄の釜の蓋 Ajuga decumbens
サングイネア子爵領は、広大な面積を持つソルジャー伯爵領の北東に飛び出たような、小さな領地である。どちらの領地も東側はイフェイオンの国境にあたり、メドゥセージという名のついた大河が北から南へと流れている。川を挟んだ対岸はもうオーニソガラム帝国の領土である。
メドゥセージ川は通称“蛇の寝床”と呼ばれているが、その由来について知る者は殆ど居ない。多くの人間はうねうねと蛇行して伸びる大河の様子を表したものだとして、殊更(ことさら)疑問にも思わないのだろう。
王国の東端であり帝国の西端とも言えるこの川について、護岸の管理はそれぞれの国に委ねられている。しかし、輸送や水門の設置など川そのものに関わる統治権は意外にも帝国ではなくイフェイオン側にある。建国時からの取決めによるものだが、今でも国王が代替わりするたびに帝国から統治権の移譲や売却についての打診があるという。
イフェイオンは地下水を含んだ山脈が多い。さらに毛細血管のように張り巡らされた河川によって地表水も潤沢に行き渡っており、つまりはもともと水の豊かな国である。したがって、水源としてはメドゥセージ川が必須ということもないのだが、輸送の面でも防衛の面でも、この大河が王国にもたらす恩恵は大きい。特に輸送面において、ロルフ・フィードラーの港から出入りする輸入品や輸出品の運搬には欠かせない水路となっている。
帝国からの圧力に屈することなく、王国がメデュセージ川を維持できている要因のひとつとして、ソルジャー家を筆頭とした軍事的な防衛力が高いことも挙げられる。しかし、何と言ってもカルミア教会の影響が大きいだろう。
カルミア教の総本山、レッドクラウン大聖堂のあるイフェイオン・ピンクスター。その“教会の街”を中心としたカルミア教会の自治領もまた東端をメデュセージ川と接する土地であり、この“蛇の寝床”の恩恵を大いに受ける地でもある。
河川の利権が帝国にあろうが王国にあろうが、教会自治領にとって大した差はない。が、王国に恩を売って得られる見返りが何がしかあるのだろう。ここ数年は帝国側にあるカルミア教会の政治的な働きかけによって、メデュセージ川の統治権をめぐる争いは起きていない。
「聖女様、船酔いなどはありませんか?」
サングイネア子爵領の船着場を出てメデュセージ川を北上する一艘の商船。その帆先には王家の紋章入りの旗が掲げられている。王家が直接統治をするこの河川において王室御用達を示すこの旗が掲げられた船は不可侵の存在なのだ。
その船上で旅の商人の出立ちをしたヴィオラセが、同じく旅装のヴィーナスに問いかける。問われたヴィーナスは薄らと笑みを浮かべる若き司教の顔を呆然と眺めた後、無言で頷いた。気分が悪いのは船酔いのせいではない。自分と同じような年頃の少女を殺したこと、そしてヴィーナスにそう命じながら平然としているヴィオラセの神経に対する不快感だ。
また今日も、人を殺した。
初めて法務官を殺したあの時から、何人も殺してきた。もちろんそれはヴィーナスの意思によるものではない。法務官を殺したのも戦場に立ったのもすべてヒッポリテ大司教に命じられてやったことだ。
そのヒッポリテはヴィオラセを通じた教皇の命令で殺した。そして今日、占い師の少女を殺したのもヴィオラセの指示だ。教会の意思に逆らうことは許されない。どうしようもないことなのだ。
ヴィーナスは心の中で何度も問い返す。どうしてこんなことになったのかと。
ヒロインはもっと汚れの無い清らかな場所で、聖女の力を振るって居れば良いはずだ。そうすれば勝手に華々しいストーリーは着いてくる。正義感が強く清廉な王子、心優しい美貌の修道士、心に寂しさを抱えた女たらしの公爵令息、寡黙で一途な最強騎士、サポート役を兼ねたヤンデレ魔法薬師。タイプの違う五人のイケメン達に言い寄られ、ときめきながら幸せな日々を送る、それがヒロインの在り方だ。
こんな風に血に濡れた、後ろ暗い犯罪者のような生き方がヒロインに相応しいとは、ヴィーナスには到底思えなかった。それとも本来の“イフェ聖”のヴィーナスも、教会の指示を受け暗殺をしていたとでも言うのか。
暗い表情を俯かせたまま船べりに座り込むヴィーナスを見て、ヴィオラセがその傍に片膝をつく。丸められた背中にそっと手を添える。
「心を痛めることはありませんよ、聖女様。これは正しい行いなのです」
「何もしていない十代の女の子を殺すことが……?」
「ええ。」
ヴィーナスの問いに、ヴィオラセは迷うことなく是だと言う。
「あの者は聖女にのみ許された先読みの力を、占いなどと言う怪しげな術を用いて行使しました。人を惑わすのは悪魔の行い。あなたは聖女の奇跡を騙る悪魔の僕を罰しただけのことなのです」
ヴィオラセの言葉に納得できたわけではなかった。しかし、すがりたくなる言葉ではあった。自分は悪くないのだと言って欲しかった。
何よりヒッポリテを殺したときに、ヴィーナスとて分かってはいた。今後は王都のヒッポリテ大司教という権力者から、教皇の部下だというこの白髪の男の傀儡となるのだと。それ以外に生きる術などないのだと。なぜならヴィーナスはただ光魔法が使えるだけの、しがない平民上がりの小娘だからだ。
「これで、先読みの術者はあなただけです。レッドクラウン大聖堂にて、聖女の認定式を盛大に行いましょう。この世界に新たな聖女様が誕生したことを、知らしめるのです」
ヴィオラセの言葉にヴィーナスはゆっくりと顔を上げる。
「私は聖女……私は、主人公、なのね……?」
少女の問いに、白髪の聖職者は蕩けるような笑みで応える。
「もちろん。あなたこそこの世界の主役ですよ、聖女様」
──そう、あの時、赤紫目の補佐司教は言っていたのに。
「なんであんたがここにいるの……」
ヴィーナスは呟く。
夜だった。高く切り取られた窓に、月を背景にして佇むスラリとしたシルエット。逆光でその表情は見えないが、月明かりに縁取られて金色の髪がきらめいている。あいつだ、そうヴィーナスが認識した瞬間窓から夜風が吹き込んで、煽られた髪が生き物のように波打った。
ヴィーナスもよく知っている人物。だが、今ここに居ることを認められない、認めたくない人物。
カルミア教会自治区の中心地イフェイオン・ピンクスター。レッドクラウン大聖堂に隣接した教皇の後座所ロードデンドロン宮殿で、ヴィーナス・フライトラップは信じがたいものを見て呻いた。
そこは宮殿内に用意されたヴィーナスの寝室だった。ヴィオラセとともにピンクスターへと上がり、ひと月ほどが何事もなく過ぎようとしていた。サングイネア領を去ったあの日の、罪悪感に塗れた苦々しい記憶も薄れかけていたというのに。
「シャギー・ソルジャーッ……!」
喘ぐように喉から搾り出した令嬢の名前。その名を呼ばれた人物は、足場にしていた窓枠からひょいと飛び降りた。2メートルほどの高さを、階段を一段降りるかのような軽い動作で降りる。その様が侵入者の身体能力の異様さを物語っていた。ベッドの上を這うように後ずさったヴィーナスに向かって、一歩、また一歩とシャギーがその距離を詰める。
「ど、っ、やってここに入ったの……」
「見張のことなら、眠ってるよ。みんな」
シャギーはどうということもなく言う。眠っている、が言葉通りの意味なのか、永遠の眠りを指しているのかヴィーナスには知る術がない。ただ、目の前の少女の目は冷たく澄み切っていてそれが恐ろしかった。戦場で見たときも、周囲の人間に言われるがままに行動するヴィーナスとは違い、シャギー・ソルジャーは己の意思で剣を振い、魔法を行使していた。
だからここに来たのも、彼女自身の意思なのだ。意思を持って、ヴィーナスを狙いに来た。
薄青く月に照らされた室内に、白く浮かび上がる女の顔。ほの暗い視界の中、質感のつるりとした目だけが、強い反射で浮き上がって見える。顔立ちの造形は美しいのに、爛々と光る目がそれをやけに禍々しいものへと見せていた。
「どうして私を狙うの……」
「さあ?」
ヴィーナスの問いに、シャギーが首を傾けて微かに笑う。
「悪役令嬢だから?」
その答えに、ヴィーナスは目を見開いた。シャギー・ソルジャーは今、この世界の人間には知り得ないはずの単語を口にした。それを知り得るのは──。
「ヒロインの前に立ちはだかるのは悪役令嬢の役目でしょう」
転生者だ。
「か、はっ……!」
咄嗟にヴィーナスは叫ぼうとしたが、その声は潰されていた。一瞬で距離を詰めたシャギーの片手に喉を掴まれたのだ。口からひゅうひゅうと情けなく息が漏れた。
「お前がアイリスを殺したの?」
耳元でシャギーが囁く。声が出せないヴィーナスから返事を聞くつもりもなく、それはただ反応を確かめるための問いかけだった。
そして恐慌状態にあるヴィーナスには、取り繕う余裕もない。ただ目を見開いてシャギーを凝縮する。それが答えだった。
シャギーの背中からぶわりと魔力が立ち上る。それを見てヴィーナスはようやく、自身も魔法を使うことを思い出した。
ヒッポリテから最後に渡された宝珠を握りしめて魔力を解放する。背中から羽のように白い光が伸びた。王都の処刑場で、シャギーが自分の光魔法になす術もなかった記憶が蘇る。それは震えるヴィーナスに微かな勇気をもたらした。
喉元の圧迫が消える。シャギー・ソルジャーの手がヴィーナスから離れたのだ。その反応にヴィーナスの口元に微かに笑みが浮かんだ。いける。いかに魔力量があろうが、剣の達人だろうが、やはり悪役令嬢には聖女の力を阻む手段は与えられないのだ。
狂え、精霊よ。
目の前のこの邪魔な女の体を喰い破り、私の目の前から消し去って。
「精霊の癲狂(てんきょう)」
呟いて、光魔法を放つ。
そして次の瞬間には既に、ヴィーナスは思い描いたものとは違う光景を見ていた。
「弱いね、主人公(ヒロイン)のくせに」
シャギー・ソルジャーを襲ったはずの光の触手が霧散して消えていく。繭のように悪役令嬢を囲んでいた光が晴れたその先。そこには、黒い魔力をまとった少女が立っていた。
「嘘、でしょ、 なによそれ……」
それはウィンターヘイゼル公爵令息スパイクが戦場で見せた黒い魔法。
シャギーがばさりと髪を振り払い顔を上げる。同時に、身を守るように纏わりついていた闇色の魔力が羽根のように広がった。
「いやあぁぁっ……」
ヴィーナスは今度こそ叫び声を上げた。しかし恐怖にひしゃげた声帯では助けを呼ぶ声ひとつ、まともに上げられない。黒い羽を広げた悪魔が獲物を追い詰めるように近づいてくる。ヴィーナスは必死で逃げようと床を這いずってドアに向かうが、突然重しをつけられたように動かなくなる。自分の下半身へと目をやれば床に縫い留められるように両足が凍りついていた。シャギー・ソルジャーによる水魔法の拘束。
「あ、ああ、あ……」
シャギーが腕を伸ばす。
闇魔法の攻撃は光魔法で拒めるはずだ。乱れる思考の中でヴィーナスは祈るように過去の記憶に縋った。しかし無慈悲にも、開かれたシャギーの手から放たれた魔法の色は白い光。やはりあの戦場で最後に見たものは見間違いでは無かったのだ。フォールス・バインドウィードを救出した時から、シャギー・ソルジャーにも光魔法、もしくはそれに近い魔法の力が宿っている。
シャギーの背から溢れる魔力が黒から純白へと変化する。ヴィーナスが気力を振り絞って放った光魔法が、シャギーから放出された白い光にぶつかって消失した。同時に、体から溢れていた魔力も尽きるのを感じる。必死に宝珠を握りしめるが、赤く輝いていた石は炭化したように黒ずんで何の効力も感じられなくなっていた。
「おか、おかしい、じゃん……! あく、悪役令嬢が、聖女の、ヒロインの魔法を使う、なんてっ……!」
ガタガタと歯の根を震わせヴィーナスが叫ぶ。
「あ、あんたも転生者なんでしょ!? どんなズルしたの? どんなチート使ったの、よぉっ」
「うるさいな」
光魔法すら使えなくなったヴィーナスの前にシャギーが屈んで、聖女の顔を覗き込む。ガラス玉のような緑の瞳には恐怖に歪んだ少女の顔が映っていた。
「主人公補正も転生チートも無かったから、根性入れて生きて来たんだよ」
静かに言う悪役令嬢には、ヒロインへの恨みも妬みも見えなかった。
「アイリスだってそう。自分で自分の在り方を決めて生きてたんだよ」
シャギーの言葉にヴィーナスはようやく、自分の命が脅かされている原因に思い至る。アイリス・サングイネア。ヴィオラセに言われるがまま手に掛けた占い師の少女。彼女の死への怒りが領地へと引っ込んでいた災厄を揺り起こし、ヴィーナスのもとへ呼び寄せてしまった。
「知らなかったんだもん……! あんたと占い師が友達だったとか? あたしは何も知らない」
「知らなければ許されると?」
「だってそうじゃない! あたしは聖女としてやれって言われたことやっただけだもん! ストーリーで決まってたことやっただけだもん! それが正しいに決まってるじゃん! だってここはっ……」
ここは、イフェイオンの聖女の世界なのだから。
「いい加減、目を覚ましなよ」
ヴィーナスの言い訳にシャギーが冷たく言吐き捨てる。
「ここは現実なんだから人を害すれば報いがある。間違いの結果は自分が負う」
言われていることは理解はできることだった。それくらい当たり前のこと。だが、納得するには心がついて行かない。
「なんでよ……あたし、ヒロインなんじゃないの?」
「最初はそうだったのかもね。──でも、お前は自分で降りたんだよ、ヒロインから」
ヴィーナスの両目からぼろぼろと涙が落ちる。怖くて、惨めで、あまりに理不尽だと思った。人を殺しておいて尚、自分は悪くないのだと主張したかった。
「教会は必ず潰す。お前のことも絶対に裁いてもらう」
シャギー・ソルジャーはそう言い放ち、立ち上がった。ヴィーナスはそれをただ見上げる。自分はどうなるのだろうか。今ここで殺されるのか、世間に人殺しとして晒され処刑されるのか。
だが未だ、教会の権力さえあれば助かると思う自分もいる。今ここを生き延びさえすれば、教会の庇護下にある聖女は守られるはずだと。
そう考えたとき、ヴィーナスを見下ろしていたシャギーが唐突に身構えた。
「ああ、なんと言うことでしょうね……」
その声はヴィーナスにとって天の救いとも言える声だった。静かに開かれた扉からコツリとひとつの靴音が室内へと踏み込む。ゆっくりとした動きに合わせて、月の光のような青白い髪がさらさらと肩を滑り落ちた。
「ヴィオラセ神父!」
ヴィーナスはすがるようにその名を呼び、シャギーは剣に手を掛ける。二人が目を向けた先に立つ、白髪の司教。
「お迎えに上がりましたよ、聖女様」
赤紫の眼が、三日月のように細められた。
【植物メモ】
和名:キランソウ[金瘡小草]
別名:ジゴクノカマノフタ[地獄の釜の蓋]
英名:バグルウィード[Bugleweed]
学名:アジュガ・デクムベンス[Ajuga decumbens]
シソ科/キランソウ属
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