31.ファースト・キス Veronica Longifolia First kiss

「最初から護衛兵団に混じってたけど?」


 いつからあの場に居たのかとスパイクに問い正したところで、帰ってきた返事がそれだった。


「だってバレバレなんだもん君たち師弟。人のこと、こっそり置いていこうとしてさ」


 シャギー、フォールス師弟が鎧で素性を隠していたのと同じ方法で、スパイクは最初からあの場に潜んでいたらしい。

 脱力感この上ない。シャギーは「そう……」と呟いたままがっくりと肩を落とした。


「それより、教えてほしい魔術があるんだけど」


 項垂れるシャギーに居住まいを正してスパイクが向き直る。


 スパイクと言えば表向きは風属性しか発動しないことになっている。果たして彼の興味を惹くような術を使っただろうかとシャギーは首を傾(かし)げた。


「風魔法で?」


 訊ねれば、少年はふるりと首を振って否定する。


「──治癒の魔術」


 そして告げられた言葉に、シャギーはポカンと口を開けた。


「四属性が発動できるなら、使えるんでしょ?」


 驚きのあまり声が出せずにいるシャギーに、スパイクはとうとう、自分の口から彼の持つ“秘密”に触れた。


 その事実に気付いた時、シャギーの心に去来したのはおそらく、歓喜。あるいはそれに近いもの。じわりと心臓が熱くなって、それから、脈がとても速い。全身を駆けるように血が巡る。


 頬を濡らすのは──


「えっ!? 頬っぺたすごい血出てる!」


 スパイクが悲鳴を上げた。


 シャギーは頬に当てられたガーゼに触れて確認する。どうやら血行が促進され過ぎて、おさまっていた出血が復活したらしい。ちなみに涙は出ていない。


「びっくりしたから……」


 はしゃぐ心臓をなだめつつどうにかそう告げれば、スパイクがくしゃりと笑った。見たことの無いその笑顔に心臓がまた暴れる。


「ずっと隠してたけど、もう、いいや」


 スパイクが手を伸ばし、シャギーの頬に触れる。


「シャギーの傷を癒したい。ここも──」


 それから額、鼻、唇、首、と、無数に走る傷に触れていく。


「ここも、ここも、全部。俺に治させて」


 身体強化で絞り尽くした魔力が回復したら自分でできる、とは言えなかった。目の前の少年が、あまりに真摯な瞳をしていたから。そして何より──


 シャギーは自分の中から湧き出た気持ちに驚いていた。しかしそれは否定しようもない事実。


 ──何より、シャギー自身がスパイクに治してほしいと思ったということ。


「シャギーが……何があっても、どんな絆も、捨てようとしないからさ」


 俯いて呟くスパイクの表情が見えなくて、もどかしい。先程の顔はまた見せて貰えるのだろうか。シャギーはドキドキと身を乗り出して、背の高い彼の珍しく露わにされた旋毛を凝視した。早く顔を上げてほしい。でも柔らかく艶やかな癖毛を眺めるのも悪くはなくて、困った。


「俺も、そこに加えて欲しくなっちゃった」


 照れるように早口で言葉を締めてぱっと上げられた顔には、困ったように寄せられた眉と、細められた瞳と。なんだか切なくなるような、寄る方なく泣きたくなるような笑みが乗っていて。


 シャギーはすっかり途方に暮れて、言葉にするのを全部諦めた。全部諦めて、切なさを凝縮したような甘い眉間に、柔らかく唇を押し当てた。


「──ごめん」


 丸く見開かれたスパイクの瞳を覗き込んで、シャギーが気まずそうに囁く。


 その次の瞬間には、今度はシャギーが目を丸くしていた。後頭部に添えられているのは、指の長い骨っぽい手。見開かれた目に至近距離で映るのは、細められた琥珀と長いまつ毛。


 唇を塞いでいるのは。


「ン"ッ!?」


 驚愕のあまり上げたはずの叫びは、くぐもって音にならなかった。それどころか合わせられていた唇が角度を変えて、より深くなる。嬉しそうに細められる琥珀を見ていられなくてシャギーはバチンと目を閉じた。

 ふふ、と笑う息が鼻先を掠めて、口を合わせながら笑うとはなんて器用なのだと妙なところで冷静に感心してしまう。


 キスをしています!


 シャギーの脳内で文字が踊る。


 婚約者とキスをしています!


 文字にしてみると意外と普通の事だったので、シャギーはその突然のファーストキスを受け入れた。ついでに、受け入れてしまえばそうかスパイクのことが好きだったのかと不意に腑に落ちて。嬉しくて、唇を合わせたままスラリと細い背をぎゅっと抱きしめた。熱い雫が頬を伝う。


「え……ちょっ、ごめん! すごい血が出てる!」


 再びの流血に、唇を離してスパイクが絶叫した。





 イフェイオン王国からの使者が無事にスピノサに入るのを見届けて、アクイレギアはクローバーと僅かな護衛のみを連れてロルフ・フィードラーへと戻って来た。

 交渉は王宮文官の領分であり、王都からの増援も間もなくスピノサへ入る。アクイレギアがスピノサに残らなくとも問題無い。


「休暇は終わりだ。王立騎士団の要請でまたスピノサへとんぼ帰りだぜ」


 アクイレギアをロルフ・フィードラーへ送り届けたクローバーがぼやく。親子揃って感謝と謝罪を重ねるシャギーとアクイレギアにヒラヒラと手を振って、クローバーは去っていった。

 アクイレギアが慌ただしく戻った理由は、もちろん伯爵領でベゴニアが引き起こした騒動が一番の理由である。


 ベゴニアの身柄は既に王都へと送られている。


 共謀して王位を狙ったと見られる王弟も召還されベゴニアと共に尋問を受けることになったのだが、王弟は召還時、なんと帝国の庇護下に居た。どうやらソルジャー家の先代当主と王弟は帝国の後ろ盾によってクーデターを起こすつもりだったらしい。


 かつて帝国からの独立を戦争で勝ち取ったイフェイオンが、帝国の支配下に入る。


 彼らが描いた国盗りの青写真は、血の上に打ち立てたイフェイオンという独立旗の在り方を根底から覆すものだったのだ。


「事の発端のクレオメの侵攻もおそらく帝国が裏で手を引いていたんだろうな。王都の戦力をロルフ・フィードラーへ引き付けるために」


 次第に明らかになる事件全容の報告を聞きながら、アクイレギアは副官に向けてため息をついた。


「苦労を掛けてしまって済まなかった」

「閣下の責任では無いでしょう」


 もとも、ロルフ・フィードラーが狙いではなく、ただ戦況を長引かせることが目的だった。そしてその計画の内部に居たのがよりによって父のベゴニア。実父の謀によって命を落とすところだったというのだから何ともやるせない気持ちだった。

 実際、シャギーが駆け付けてくれていなかったなら精霊殺しが用いられた国境での一戦でアクイレギアの命は水底へ沈んでいただろう。


「それにしても、シャギーお嬢様は強くなりましたね」


 奇しくも娘のことを考えたタイミングで、そう声が掛けられる。


「本当に。うちの子は一体何を目指して居るんだろうと思ってたけど……」


 守るべき相手からすっかり守られてしまったなと、頭をかく。


『あの子たちを幸せにしてあげてね』


 ガーラントの言葉が蘇って、自分は幸せにしてもらうばかりだなと切なくも幸福な笑みを零した。病床にあったガーラントでさえ、いつもアクイレギアを守ってくれていたのだ。その愛で、世界の全ての、悪意から。シャギーも、王都で留守を預かってくれているカランコエも、自分が思っていたよりも遥かに逞しく成長していて、父親としてしてやれることなど、もうあまりに少ないのかもしれない。


 それでも、いつでも手を差し伸べられる場所から見守り続けようと誓いを新たにする。


「帰ろうか」


 副官へと告げて、まずは愛しい娘に王都への帰還を告げるために執務室を後にした。


 先が見えないと思っていた戦争の終結によってシャギーの入学式までに戻れることとなったのは、この暗く重い一連の事態の中でも数少ない嬉しい出来事だ。

 この後、客間を覗いたアクイレギアが目にするのはウィンターヘイゼル公爵令息と抱き合う愛娘の姿で。


 何かと心労の多い伯爵の悲鳴が屋敷中に響き渡るのは、あと数秒後のことであった。







【植物メモ】


和名:西洋虎の尾[セイヨウトラノオ]

品種:ファースト・キス[First Kiss]

英名:ガーデン・スピードウェル[Garden speedwell]

学名:ベロニカ・ロンギフォリア[Veronica longifolia]

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