蕾の章

32.幽霊花・待宵草 Evening primrose

「ぶっ、無事でっ、よ"がっだあ"ぁぁーーー!」


 王都に戻ったシャギーを見て、アイリスは顔面をあらゆる水分で濡らしながら抱きついて来た。親友の肩に顔を埋めてえぐえぐと震える背中を、感謝と愛しさを込めてぽんぽんとあやす。


「ありがとう。お父様を救えたのはアイリスのお陰だよ」


 そう告げればアイリスは益々激しく泣いてしまって、シャギーは弱った。


 少しだけ弱って、少しだけ、貰い泣きした。


 やがてアイリスが落ち着いた頃。離れて見守っていたカランコエがシャギーのもとへと歩み寄って、ぽすんと妹の頭に手を置く。


「よく頑張った」


 兄の言葉に、再び鼻の奥がツンと痛む。


「本当に、色々ありがとうございました」


 ちょっとだけ鼻声になった妹の言葉にカランコエが口もとを綻ばせる。二ヶ月振りに兄の美貌の直撃を受け、衝撃でシャギーの涙は引っ込んだ。


「スパイクは?」


 カランコエに訊ねられてシャギーは微かに表情を曇らせる。


「学園には来ていないのですか?」


 王都に戻って数日。公爵家の前で別れたスパイクとは一度も会えていなかった。


「まだ復帰してないな」


 カランコエも少し心配そうに眉を寄せる。


「試験には出ると思うが……まあ、あいつの成績なら二ヶ月の休学ぐらいは問題無い」


 学園はもうすぐ試験で、それが終われば短い休暇を挟んで入学式。シャギーも今年入学するのでスパイクが復学していればそこで会える。わかっていても、心臓はザワザワと騒がしかった。


 実際のところ、シャギーはスパイクのことをいまだよくわかっていない。二ヶ月もの間すっと一緒にいて色んなところを見てきたつもりだった。それなりに深い話もした。心が通ったからこそのキスだったと思う。だがその一方で、同じだけの時間を通してわからないことも増えてしまった。


 ウィンターヘイゼル公爵家が求めているという“女神の欠片”と“獣の因子”。その存在を知った今、シャギーに浮かぶのはひとつの確信とひとつの疑惑。

 確信は、おそらく女神の欠片は乙女ゲーム“イフェイオンの聖女”の主人公(ヒロイン)ヴィーナス・フライトラップだろうということ。そして疑惑の方は。


 獣の因子は、スパイクなのではないかということ。





「わぁ……」


 なんて立派な、荘厳な建物だろう。


 巨大な石造りの門から、王国で一番白い石を集めてきたかのような眩い石畳みの路を真っ直ぐ進んだ先にその建物はそびえていた。


 王都にあるカルミア教の大聖堂。路の左右に広がる庭園には天使たちの彫像が並び、門の外周は青々と茂る木々で囲まれている。

 下町で生まれ母と二人貧しい生活を送ってきた少女は、自分達の暮らしていた荒屋が何件も収まってしまいそうな教会の入り口で立ち尽くす。高い高い天井には聖女が天使を伴い地上へと降り立つ様子が描かれていて、思わずその美しい絵画に見惚れてしまう。


「どうかしましたか?」


足をとめてしまった少女に優しい声が掛けられる。少女は声の主を振り返り、そして。


「え……?」


キラキラと輝いていた瞳からスウ、と色がさめていく。


(どういうことよ!?)


 声を掛けてきた修道士になんでもありませんと微笑みながら、少女、ヴィーナス・フライトラップは内心で激しく動揺していた。


 ヴィーナスの運命が大きく変わったのは、今から半年ほど前のこと。


 いつものように井戸で水汲みをしていて足を滑らせ転倒。地面に頭を打ち付けてしまい脳震盪を起こした。そして思い出した・・・・・のだ。自分が何者だったのかを──自分が、物語の主人公(ヒロイン)だったことを。


 教会に光魔法を見出して貰ってから、ずっとこの日を待ちわびていた。それなのに肝心のお楽しみが、ない。


(カランコエはどこに行ったのよ!)


 後に聖女と呼ばれる……はずの少女は、内心で怒りを爆発させた。





 シャギーは一人になった自室で思考を巡らせる。


 あれはスパイクと初めて会ったばかりの頃。フォールスと二人、魔導研究所の資料室でスパイクの属性を調べた。その時スパイクが自身の発動属性を風のみだと偽っていることが発覚したのだが、シャギーとフォールスが首を捻ったのは『どうやって偽ったのか』ということだ。


「そもそも、能力を隠すなんてことは不可能なんです」


 腕組みをしたまま、しばらく顎先で指を遊ばせていたフォールスは長い沈黙の後そう言った。


「石版は受動的に働くのではなく、能動的に契約した精霊を探ります」


 フォールスから言われて、シャギーも自分の魔力測定を思い出す。確かに、体の中から魔力を吸い出されるような感覚があった。


 本来、贖人という存在を除けば体内には四元素すべての精霊が働いていて、体内を循環し、生命機能を維持している。だがそれを魔法として発動できる人間は限られる。シャギーやフォールスのように四属性すべてを外的に発動して扱える人間もいるが多くの人間にとっては魔法として行使できるだけの素質はない。

 また、魔法を発動する力があっても行使できるのは四元素の中で自分と相性の良い精霊の力だけという人間がほとんどだ。


 魔力測定の石版は手のひらからアクセスして外的に行使できる精霊の存在を指し示すものである。手のひらから発動した魔力を測定するものではない。


「となると、教会と公爵家が手を組んで測定結果を改ざんしたってことになりますよね」


 その時シャギーはそう結論づけ、それにフォールスも同意した。それ以外には考えられなかったからだ。


 だがその後。スパイクの話から獣の因子という存在を知り、そして精霊殺しという魔石の力を目の当たりにして。

 シャギーの中に浮かんだのは、獣の因子が精霊殺しと同じような能力を自在に扱えるのなら測定の時に体内の精霊を封じる事ができるのではないか、という考え。スパイクが獣の因子なのであれば魔力測定の結果にも納得できる。


 凍てついた森で、シャギーを狼の魔物から守った時に発動させた黒い風魔法。そして、戦場の天幕で初めて精霊殺しを見たときのひどく動揺した様子。考えれば考えるほどにその可能性・・・・・に辿り着いてしまう。


「話が、したいな……」


 その時。まるでその声に応えるかのように、夜を迎えた窓の外でゆらりと影が揺らめいた。


「スパイク!」


 窓の外の人影。それがまさしく今考えていた人物のものだとわかるや否や、シャギーは夢中でベランダに飛び出ていた。


「しーっっっ!」


 転がり出てきた少女に向かって、人差し指を唇に当てたスパイクが必死で沈黙を促す。夜更けも夜更けの時間に令嬢の部屋に忍ぶことがどんな騒ぎになるか。状況を察したシャギーも両手で口を覆ってコクコクと頷いて見せた。


 それでも。久しぶりに姿を見せた想い人が手を離せばまたふらりと捕まらなくなりそうな気がして、フードつきのマントの裾をそっと掴んでしまう。普段は強気なシャギーのいじらしくも見える仕草にスパイクが複雑な表情(かお)をした。


「ごめん」


 その謝罪は、予定もなくこんな時間に押しかけたことについてだろうか。自分を見ない琥珀が揺れるのを目にして、シャギーの胸中にも不穏な波が立つ。前世で苦労したのもあって他人への期待が薄く、割り切りが強い性格だと自負している。人に揺らされることは少なくなっていたはずなのに色恋というのは想像よりもずっと厄介だと実感した。


「自分の口から伝えておきたかった」


 不穏な気配は正解だったらしい。重々しい口調で告げるスパイクの顔色は悪く、少し削げたように見える頬からは憔悴が滲んでいる。


「ウィンターヘイゼルの探しものが出てきた」

「それって……」

「“女神の欠片”。光魔法を発現した少女が教会に保護されたらしい」


 ゲームの展開を知るシャギーは、学園入学時にはヴィーナスがこの世界に見出されることは予想していた。だが、ゲームの伯爵令嬢シャギー・ソルジャーと公爵令息スパイク・ウィンターヘイゼルは名ばかりの婚約者で。お互いに思い合ってはいなくて。だから思いが通じ合った、ゲームとは異なる今のこの世界においてヒロインの登場の意味は違うはずで。


 なのにどうしてスパイクは、こんなに苦しそうな顔をしているのだろう。


「シャギーと婚約することは、できない」


 愛しい黒髪からのぞく琥珀は、甘い色を失っていた。








【植物メモ】


和名:マツヨイグサ[待宵草]/ユウレイバナ[幽霊花]

英名:イブニング・プリムローズ[Evening primrose]

学名:オエノテラ・ストリクタ[Oenothera stricta]


アカバナ科/マツヨイグサ属

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