22.雪の下 StrawberrySaxifrage
王都の中心部にある王宮から石畳の主要道を北に進んだ先に、王宮に負けぬほどの豪奢な宮殿がある。イフェイオンは豊かな国だが、だからこそ中心部から馬車でわずかに1時間ほどの立地に周囲の邸宅が目に入らぬほどの広大な敷地を持ち、贅を凝らした城を築けるとなれば比類なき財力と地位を持つ者にしか許されることではない。
王家に次ぐ地位と王家を凌ぐ財。ウィンターヘイゼル公爵家の王都での邸宅である。
その日、わずかな伴を連れて宮殿を訪れたのはすらりと背が高い美貌の令嬢。金色に波打つ豊かな髪と白磁の肌、そしてエメラルドの瞳を持つシャギー・ソルジャー伯爵令嬢であった。
令嬢が公爵家の子息に取り次がれると二人は若いながらも名門にふさわしい堂々とした佇まいと優雅な所作で庭を散策する。
あらかじめ先触れの出された正式な訪問のため令息は恙無くソルジャー伯爵令嬢をもてなし、迎えられた令嬢もまたリードを相手に委ね。
そして、人の気配と目の届かぬ場所へ誘導された瞬間、ほんの少し肩の力を抜いた。
「──聞こうか」
余計な前置きもなくスパイク・ウィンターヘイゼルが切り出す。先触れの手紙に察するものがあったのだろう。人目を避けた場所へ案内してくれたのも、こうして時間を取らせないようはからってくれたことにも、シャギーは素直に感謝した。
まるでゲームで見た別れのシーンのようだと思った。
違うのは、二人に舞い落ちるものが色鮮やかな紅葉樹の葉ではなく冬空から落下する雪であること。そして公爵令息の隣に聖女が居ないことだろうか。雪は柔らかく身を濡らすほどではない。ただひらひらと間断なく落ちる。
そしてゲームの退場シーンと異なることが、もうひとつ。
「スパイク・ウィンターヘイゼル公爵令息、私との婚約を破棄してください」
婚約破棄を告げるのが、公爵令息ではなく悪役令嬢だということだ。
琥珀の目が驚きに開かれ目の前に立つ少女の姿を映す。金の髪を風に泳がせて、揺るぎなく見つめ返す若葉のような色彩。少年はひとつ息を吸って、それから言葉を。
◆
領地から戻った父アクイレギアがそのままとんぼ返りをすることになったのは、秋の深まる前のこと。
「心配ない、すぐに戻るよ」
三人揃った夕食の席でそう言って笑っていた。
父親が領地に戻った理由は、戦争だ。
この国の南端にあるソルジャー伯爵領ロルフ・フィードラーは、港町を中心とした温暖で豊かな土地である。しかし南は海に面しており、西と東を他国領に挟まれた侵攻を受けやすい危険な土地でもある。
カランコエやシャギーが産まれて以降に東の帝国からの大規模な侵攻は無い。しかし西側に接する小国やその連合国は領地の一部でも掠め取ろうと頻繁に攻め込んでくる。父親が彼曰くの「小競り合い」を鎮火するため領地へ赴くのを、兄妹は幼い頃から何度も見送ってきた。
ゆえに今回も問題は無いはずだった。何せ数え切れぬほどの侵攻を受けながら、麗しきイフェイオン・ブルースターは花びら一片ほどの面積も散らされずに退けている。正しく無敗。それがソルジャー家の有する騎士団と傭兵団なのだ。
ソルジャー家の持つ独自の通信網“水の根”を通じて父の安否を確認しては、帰りを待つ日々を過ごす内、季節は冬を迎えていた。
「サングイネア子爵家のアイリス様がお見えです」
その日、そわそわと父の便りを待っていた兄妹を訪れたのはいつになく緊張した面持ちのアイリスだった。
「占いで、ソルジャー伯爵に命の危険があると出ました」
兄と妹は息を飲む。シャギーは知らず手を握りしめていた。指先から血が冷えていくように感覚が薄くなる。アイリスが兄にも同席を求めた時点で予感していたが、実際に聞かされるとたまらない気持ちになる。
シャギーがアイリスに定期的に父の様子を占ってほしいと依頼していた理由。それは“イフェ聖”でのシャギー断罪にソルジャー家の介入が全く見られないからだった。
兄のカランコエはゲーム上ではソルジャー家の人間ではなくなっていた上にシャギーとの関係も悪かったようなので納得なのだが、あれ程シャギーを愛している父親が追放に同意したり除籍したり、処刑を傍観するなどあり得ない。
考えられるのはゲーム開始の時点でソルジャー伯爵がシャギーの側に居ないこと。
父親が居ない状況であれば、ソルジャー家の次期当主となるシャギーがウィンターヘイゼル公爵家の後ろ盾を必要とし婚約していたことにも納得がいく。
アクイレギアが死亡するのは最悪の事態としても、政治のごたごたに巻き込まれたり大規模な戦争が起こり長期の遠征になるなど、何かしら父の身に危険が起こるのでは無いかと危惧していたのである。
「アイリス嬢、知らせてくれてありがとう。それで、時期はわかるかな?」
「はい。占いによれば2月の終わりと」
この世界は前世の世界と同じ、冬に1月が設定された太陽暦が使われている。4月から新年度が始まるのは日本のゲームだからか。そして今はもう1月。
「お兄様、すぐに王都のソルジャー騎士団を向かわせましょう! 私も行きます」
考える前に口に出していた。ゲームの筋書きに抗うためのこの6年間があったのだ。今、父親の危機を救わずこの先の運命に勝てるとは思えない。
「王都の兵はもちろんすぐに準備するが、お前を行かせるわけがないだろう!」
当然、兄のカランコエは反対する。シャギーは伯爵令嬢なのだ。戦場になど行かせられる訳がない。
「何でダメなんですか! お兄様は後継ぎですが私は違います」
「父上からは留守を任されてる。シャギー、お前の安全もだ」
「私は最強ソルジャー家の娘です。戦場で足手まといにはなりません! 私は強い、私は、お父様を守ります!」
「駄目だ」
決して首を縦に振らない兄にシャギーは唇を噛む。
カランコエとて何を置いても父親の命は救いたい。そして間近で見てきたシャギーの強さについてもよく理解している。妹が兵を率いて父の救出に向かうなら、それは何より確実な作戦だと思う。しかし自分が守るべき大切な妹を危険にさらす訳にはいかない。
「王宮にロルフ・フィードラーが陥落の危機だと伝えて、王立騎士団を動かして貰いましょう」
膠着状態に入った兄妹にアイリスが提案する。
「私も、シャギーが危険な場所へ行くのは反対です」
「アイリス!」
シャギーが、味方だと思ってたのに! と、ショックを顕にしてアイリスを見る。親友の視線を気不味く受け止めながらアイリスはごめん、と呟く。
「シャギーたん、私、親友を戦争になんて行かせたくないよ。女の子なんだよ? 大人に任せるしか無いよ。もうすぐ学校も始まるんだよ?」
「アイリス、私は運命を屈服させたい。私が行かなくちゃいけないの。これは悪役令嬢(わたし)サイドのストーリーなんだよ」
アイリスの懇願にも、シャギーは揺らがない。
ヒロインの為に犠牲になるストーリーなど糞食らえだと怒りが湧き立つ。たかがゲーム。しかし、その世界で実際に生きている人間にしてみれば筋書きも強制も、受け入れられるものではない。
「──王宮に要請は出せない。ロルフ・フィードラーがソルジャー家で抱えきれないとなれば付け入る隙を与えることになるからな。王都のソルジャー騎士団から増援を出して父に連絡を入れる。アイリス嬢、すまないがこの件は……」
「はい、他言はしません」
父を助けたい気持ちとソルジャー家を守らなければならない立場の間で、カランコエは拳を握りしめて声を振り絞る。
「お兄様、私は……」
「お前の同行は認めない」
「お兄様!」
思わずシャギーが立ち上がる。
「話は終わりだ」
カランコエもまたソファから立ち上がると、宥めるようにシャギーの肩にトン、と手を置いて、そのまま部屋を出てしまった。
残されたシャギーはそのまま立ちすくむ。いつの間にか傍に来ていたアイリスが気遣わしげに腕に触れる。
「シャギーたん……」
随分取り乱してしまったとシャギーは息を吐いた。顔を上げ、眉を下げて笑う。
「ごめん、アイリス」
それから、しっかりと友人の目を見て言った。
「引けない。許してね」
揺らがない覚悟にアイリスはくしゃりと顔を歪める。
「許さないよ」
無事に帰って来ないと、許さない。目に涙をためて呟くアイリスを、シャギーはぎゅうと抱きしめた。
◆
兵の一人として表立って従軍できないのならば、兄には黙って単身ロルフ・フィードラーへ向かうしかない。
通常の行軍であれば10日から2週間ほどかかる距離だが、身ひとつで馬を駆れば1週間に短縮できるだろう。王都で騎士団を見送った後でこっそりと発っても合流できる。
自分一人で父を救えるとは思わない。だが無事を願うだけで何もせずにいることなど出来なかった。
馬は10歳の誕生日に父から贈られた愛馬が居るが、途中の宿場で乗り換えつつ進むつもりだ。これまで装飾品に興味を抱かなかったために換金できる物は少ないが、与えられてきた財産はほとんど手付かずで残っている。旅の支度に使っても道中困らないだけの金額は用意できた。
戦場に行く。
ひっそりとその準備を進めながら、彼には伝えなければと思っていた。もう戻れない可能性も十分にあるのだから。
先日、シャギーと婚約を決めたばかりの相手。スパイク・ウィンターヘイゼル公爵令息は、真剣な目をして自分の前に立つ少女を見ていた。たった今、告げられた婚約破棄の言葉を反芻する。そして、ゆっくりと口を開いた。
「俺たち、まだ正式に婚約して無いんだけど……」
そうだった。
本人同士で話はついていたが、領地から戻らない父はもちろん公爵家にも話は上げていない。シャギーは首を傾けて、こりこりと頭を掻いた。
「えーと、この場合、婚約をする予定を破棄?」
「そう……かな? ちょっとややこしいけど」
「とにかく、婚約出来なくなってしまいまして。すみません」
シャギーは背筋を伸ばして頭を下げた。
ドレスを着ていても相変わらず武人みたいだなとその姿を眺めながら、スパイクは首の後ろに手を当てて考える。
「理由は聞いてもいい?」
思わずシャギーは言葉に詰まる。父親が命の危機にあることは、アイリスと兄、そしてソルジャー騎士団の分隊長しか知らないことだ。ソルジャー伯爵家の当主が居なくなれば得をする人間も少なくない。国内の有力貴族はもちろん、王家のことも信頼はしきれない。
「──ロルフ・フィードラーが、侵攻を受けてることと関係ある?」
言いながらスパイクが腰を折って、真正面から瞳を覗き込む。一瞬、シャギーのエメラルドが揺れたのも誤魔化せなかった。
それを見てスパイクが目を丸くする。
「まさか行くつもり?」
恐ろしく察しが良いなとシャギーは眉をしかめた。目の前には相変わらずこちらを見通すような琥珀がある。隠せる気がしなかった。
「カランは許さないでしょ、そんなの」
「兄には……言いません」
「正気?」
そこは「本気?」では。
シャギーは内心でぼやきつつも、しかしそれだけ非常識なことを言っているのかもしれないとも、わかっていた。
何かを考えるようにスパイクが顎に手を当てて目線を上に投げる。その少しの沈黙をシャギーは息を飲んで待った。この曲者の公爵令息を説き伏せ、どうにか兄には黙っておくように口止めをしなければならない。
「婚約……の、予定の破棄?もう婚約破棄でいいか。それはちょっと保留にしよっか」
しばらくの間の後、スパイクは軽い調子でそう言った。
「それよりも、俺を君の無謀な計画に同行させてよ」
そして、とんでもないことを言い出した。
「絶対、無理。イヤです」
シャギーは即座に断る。
「仕方ない、お兄さんに報告しよう」
「お願いしますそれだけは」
「じゃあ、よろしく」
にっこりと笑って、唖然とするシャギーの手を取り、強引に握手を交わす。
「何でそんなこと……」
「気に入ってるって言ったでしょ。君が強いのはカランから聞いてるけど、大事な
ふわりと公爵令息が笑う。
「まあ、道中の露払いくらいは出来るから」
絶え間なく空から落ちる雪が、いつの間にか庭を白く埋め始めている。琥珀を細めてシャギーを見下ろす少年の真意もまた、雪に埋もれて見えなくなる。
握ったままだった少女の手に冷たい唇をそっと当てて、スパイクが囁いた。
「お守りしますよ、勇敢な姫」
雪の下ひっそりと、小さな契約が為された。
【植物メモ】
和名:雪の下[ユキノシタ]
英名:ストロベリー・サキシフラガ[StrawberrySaxifrage]
学名:サキシフラガ・ストロニフェラ[Saxifraga stolonifera]
ユキノシタ科/ユキノシタ属
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