26.現の証拠 Geranium thunbergii
3日目は大きな襲撃もなく終わった。軍道の終点である野営地から街道へと移動する山中で少々魔獣が出た程度だ。
その日の夜、野営地からほど近い森の中。シャギーとフォールスはパーティーを離れ「しるし」のある場所へと向かった。地図上で確認したポイントまで来ると一本の大樹があり、よくよく目を凝らせば根本近くにボンヤリと青く発光する「しるし」──ソルジャー家にのみ伝わる文様が浮かんでいた。
“水の根”は水魔法を使う人間のみが扱うことができる、ソルジャー家秘伝の伝達手法である。王国内に点在する“水の大樹”から伸びる根が国中に張り巡らされており、その根を通じて通信することが出来るシステムだ。
シャギーは大樹の根本まで来ると、発光する印にソルジャー家の家紋が入ったリングをぴたりと合わせた。
リングは母親から譲り受けたものだ。14歳になった時に渡されたのだが、母が中指にしていたというリングは薬指でもきつくて、シャギーは少しだけ微妙な気持ちになった。その内サイズ調整してもらおうと思う。
リングを通じて水の精霊が体の中に流れ込んできて、衝撃でシャギーの前髪がふわ、と揺れる。家紋の部分が回転する仕様になっていて、今は兄の血を記憶させたダイヤルに合わせてある。今頃、王都にいるカランコエの指輪が発光しているはずだ。
“水の根”の難点は、どこに居ても受信は可能だが、発信は印を刻んだ水の大樹からしか出来ないという点だろうか。
手紙くらいしか伝達手段のないこの世界においては格段に便利だが、前世にあったスマホと比べたらやや不便ではある。もっとも、あちらは電池が切れたらただの板となってしまうが、こちらは水の精霊さえ扱えたら充電する必要はない。
『3日も連絡を寄越さないとはどういうことだ!!』
少しの静寂の後、闇夜にカランコエの怒鳴り声が響き渡った。やめて、脳が揺れる。シャギーが体をのけぞらせ、傍らで周囲を警戒していたフォールスがギクリと肩をすくめた。師弟揃って連絡を忘れていたので監督役として同行しているフォールスはシャギー以上に肩身が狭いに違いない。
『どうせお前が黙ってると思って、父上にはお前が行くと話したからな』
カランコエが伝えてきた内容にシャギーは顔をこわばらせた。
「お父様は怒ってましたか……?」
『当たり前だろ。──いや、怒るというより心配してたな。迎えに行きかねなかったが、クローバー卿と叔父上が同行していることを伝えて思いとどまってもらった」
「申し訳ございません……」
この一件において兄には本当に頭が上がらない。
『婚約者
「そんなのは付いてきちゃった本人にやってもらいます」
『ほう、随分親しくなったんだな?』
カランコエの声に剣呑なものが混じる。兄は今でも二人の婚約に乗り気ではない。スパイクの女癖のことがあるからだ。
「契約にはある程度の信頼関係は必要なので。それ以上のことはありません」
シャギーが言うと、カランコエが小さくため息を吐いた。重ね重ね、心労をお掛けして申し訳ない。
『ともあれお前が無事ならいい。明日からは同じ時間にこちらから呼ぶから、周囲に指輪のことが気付かれないようにだけしておけ』
「はい。あの、お兄様」
『何だ』
「色々すみません、ありがとうございます」
『反省は今後に活かせ』
その後、地図で位置を確認したカランコエによって先行していたソルジャーの分隊を追い越してしまったことが判明した。もともと追いつく予定だったのだが思いの外こちらの足が早く、山道を迂回した時にすれ違ったのだろう。結局、合流せずに追い越して先を進むことに決めた。
アイリスの占によれば父に危険があるのは2月の終わりなのでまだ少しの猶予はあるが、早く到着するのに越したことはない。
今後の大まかな旅程を伝え、カランコエとの通信は終わった。
「怒ってましたね……カランコエ」
リングの光が消えたのを見て、フォールスがシャギーに話しかける。
「めちゃくちゃ怒ってましたね……」
シャギーが同意するとがっくりと肩を落とす。
「いい大人として本当に情けないです」
落ち込んだフォールスをなだめつつ、二人は野営地へと戻った。
野営地に戻るとクローバーとスパイクが焚き火の前で酒を飲んでいた。
「おう、話は終わったか?」
クローバーが酒でわずかに高揚した声で尋ねる。“水の根”のことはソルジャー家以外に決して口外できない。二人は話があると言って抜けてきていたのだ。
「終わらなかったので、明日また話します」
明日以降はカランコエの方から連絡が入ることを見越してフォールスが答える。叔父の配慮に感謝しつつ、シャギーも焚き火の前に腰を下ろす。
「お酒、飲めるんですか?」
「敬語」
いつも他愛もないことを話しかけてくるスパイクが無言なので、何となく居心地が悪くシャギーの方から話しかけるも、素っ気なく返されてしまった。
「お酒飲めるの?」
「それなりに」
敬語をやめて再び話しかけてみたが、やはり会話は続かなかった。虫の居所が悪いなら仕方がない。見張りの順番を決めてシャギーはさっさと天幕へと入った。毎日、ひどく疲れる。
その背中を、スパイクがちらりと見送っていた。
翌日は整備されていない荒れた街道を進むことになった。
荒れているとはいえ街道なので、進んだ先には宿場がある。夕刻には外壁と呼ぶには粗末な木の柵に囲まれた小さな宿場町に到着した。
どうしても気が急いてしまうシャギーは仮眠用の大部屋で構わないと主張したのだが、他の三人から断固として反対されて個室に押し込められてしまった。部屋は古いがそれなりに清掃されていて、狭いながらもベッドがある。
出発からまだ4日目だというのにベッドで寝るのがやけに久々に思えて、我ながらなかなか順応性が高いのではとシャギーは密かに自分を褒めた。順応しすぎてどんどん普通の令嬢から遠ざかっている気がしたがそこは一旦置いておく。
やや埃っぽいカーテンを開けるとまさに夕焼けが終わるところだった。赤々とした光に変わって夜の闇が空のふちへと垂れてくる。
シャギーは開いたばかりのカーテンを再び閉めて団服を脱ぐと食堂へと降りた。家を出てからはその日を生きるためにすべきことが多くて、感慨に浸る暇はあまりない。
◆
食堂はすさまじく荒れていた。宿泊客以外にも開放しているからなのか酒が入るせいなのか、とにかく客の柄が悪い。
「会話するのも無理そう」
大音量の喧騒の中、千鳥足で突っ込んできた酔っ払いをかわしながら先にテーブルについていたスパイクの隣にすべり込む。
シャギーの言葉にあらためて周囲を見渡したスパイクが「そうだね」と苦笑する。そして不意に、鼻先が触れそうなほどに顔を寄せられた。
「この距離なら内緒話も聞こえる?」
至近距離で覗き込んだ琥珀が、弧を描くように細められている。
シャギーの心臓の血液輸送量が一気に二倍に引き上げられた。あまりの近さに文句を言おうと口を開いた瞬間、ガラスの割れるけたたましい音が食堂中に響き渡る。続いて、ボウリングのピンのように弾き飛ばされた数脚の椅子が連鎖的に破壊音を立てた。
酔っぱらい客同士の喧嘩。それも一対一ではなく、数人の乱闘。台風のように出現したそれは周囲のテーブルやら食器やら人間やらを巻き込んで、またたく間に膨れ上がっていく。
スパイクとシャギーが素早く席を立ち退避姿勢をとる。騒ぎの方へと顔を向けたシャギーの目に、乱闘に巻き込まれて弾かれるように床へと倒れ込む給仕係の女性が映った。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄って背中を支え、給仕が体を起こすのを手伝う。とにかく乱闘の輪から離れなければと肩を貸したところで、至近距離で「邪魔なんだよ!」という怒声が響いた。振り返ったシャギーの視界に飛び込んできたのは自分に向かって振り下ろされる酒瓶。咄嗟に片手でガードするが、その腕に衝撃は来なかった。
攻撃を受ける瞬間、シャギーは目を閉じない。そういう風に訓練してきた。
だから、シャギーは自分へと向かってきた酒瓶が飛び込んできた黒い影に振り下ろされ、砕け、キラキラと光りを反射しながら飛び散るのを、ガードした腕の向こうにはっきりと見た。
「スパイク!!」
甲高い叫び声を上げる給仕の女性を担ぎ、逆側の手でスパイクの体を支えて喧騒から引きずり出す。
給仕係は無事だったようで、布と水を頼むと厨房に駆けて行った。ゆっくりとスパイクを横にする。幸い意識はあるようで、見る見る真っ赤に染まる顔を覆うように手を伸ばした。
「見せて」
その手を遮ってシャツの袖で傷口周辺の血を拭う。額に、パックリと口のあいた皮膚が見えた。その瞬間シャギーは考えることを放棄していた。
ドクドクと赤い血を流す傷を掌で覆う。ゆっくりと、慎重に、掌に集めた魔力を放出していく。フォールスとシャギー、二人しか知らない、まだ不安定で頼りない魔法。
けれど研究室で使ったときよりも、そしてカランコエに殴られたスパイクに治療のフリをしてこっそり使ったときよりも、もっともっと強く精霊の脈動を感じる。
シャギーの目に、掌から広がる精霊の光が見える。その光の粒子は、白色。額にかざされた掌から溢れるその光はスパイクにも見えていた。
「女神の欠片……?」
信じられないと言うように唇からこぼれた呟きに、シャギーは首を振って否定を返す。
「でも、治癒を行えるのは光魔法だけだ」
スパイクが自分の額に手を伸ばす。そこにもう、傷は無かった。
「これが、現の証拠でしょ」
【植物メモ】
和名:現の証拠[ゲンノショウコ]
英名:ゲラニウム・ハーブ[Geranium Herb]
学名:ゲラニウム・ツンベルク[Geranium thunbergii]
フウロソウ科/フウロソウ属
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