3.月兎耳 Kalanchoe Tomentosa Chocolate Soldier





「おい、デカ女」


 シャギーが自室で読書をしていると、不意に声を掛けられた。

 顔を上げれば開かれた扉にもたれるようにして、一人の少年が冷たい視線を向けている。髪はシャギーより淡く白金に近いゴールドで、瞳の色はブルーともグリーンとも言えない青緑。


 シャギーに声を掛けた少年はひとつ歳上の兄、カランコエ・トメントーサ・チョコレート・ソルジャー。名前が長い。トメントーサは洗礼名で、チョコレートはソルジャー伯爵家の跡取りが代々受け継いでいるミドルネームである。


 兄妹の母親は、3年前に亡くなった。

 昔から病弱だった彼女はいつも寝台の上に居たが、それでも、子どもたちが顔を見せれば細い指を伸ばして髪をなで、慈しみ、どんなに苦しい時も微笑んでみせた。


 シャギーの記憶にある母は、今でも彼女の知る中で最も美しい女性だ。緑色の瞳に鮮やかなイエローゴールドの髪と白い肌。二度の出産が奇跡と言えるほどに小柄で華奢な姿は、野菊のように慎ましく清らかだった。


 妹のシャギーが母親の色彩をそのまま受け継いでいるのに対し、兄のカランコエは母と父の中間の色合いを持つ。光の加減で淡く揺らいで移ろぐ青緑の瞳は、とりわけ神秘的で美しい。シャギーは前世の知識で、グランディディエライトという宝石を思い出した。

 顔立ちや体つきは母親の造形がとても濃く出ており、9歳という幼い年齢ではほとんど少女のような面立ちをしている。そして年下のシャギーと変わらない小柄な体。

 可憐。それがシャギーから見た兄の姿だった。


 ただしそれは、見た目だけだ。


 兄は妹を憎んでいる。そしてその負の感情を相手にぶつけることをためらわなかった。シャギーの記憶では兄、カランコエに優しい言葉を掛けられたことは一度もない。母親が生きているうちは冷たい視線を向ける程度だったが、亡くなってからはシャギーと顔を合わせる度に嘲り罵るようになった。


 シャギーは理由も分からず向けられる悪意に戸惑い、深く傷ついた。しかし兄の天使のように美しく完璧な見た目は幼い妹にただならぬ畏怖を抱かせ、それに抗い反発する気力を失わせる。悪意をぶつけられるのは自分が悪いからなのではないのかと、その気持ちが拭えず、反論する言葉を一切封じてきた。


 前世の記憶を取り戻すまでは。


 18歳まで生きた記憶を持つシャギーにとって、どんなに美しかろうと、血がつながっていようと、カランコエはただの生意気なクソガキである。しかも、記憶をどんなに辿ってもここまで恨まれるような落ち度は見当たらない。兄の横暴に耐える道理はどこにもなかった。


「なんでしょう? 貧弱陰険クソ野郎」


 どうせ大した用事など無いだろう。相手をする時間を無駄にしたくないので視線を本に向け直すと、温情で返事をくれてやった。吐き捨てるように。


 その時、カランコエが受けた衝撃は形容しがたいものであった。一瞬、頭が白くなり言葉を失う。自分が何を言っても俯いて唇を噛みしめるだけだった妹。その妹が、今、何を言ったのか。自分に。今の言葉は本当に自分に向けられたのであろうか。思考がぐるぐると渦巻きまとまらない。


 思わずよろめいた背中が扉に当たり、少しだけ冷静さを取り戻してシャギーを見れば、相手はもう声を掛けてきた存在などなかったかのように平然としている。たとえ先程の言葉が聞き間違いだとしても、伺える横顔からははっきりと断絶が見て取れた。これまで妹に“無いもの”として扱われたことなどなかった。二人が対面する時、シャギーはいつも神経を張り詰めて兄の一挙手一投足を伺っていたのだから。


 カランコエの頭にカッと血が上る。


「今、なんて言った? 誰に向かって口をきいてる……!」

「貧弱陰険クソ野郎、です。誰にってあなたに決まってるじゃないですか、他に誰もおりませんよ。耳も目も悪いんですか」

「兄に向かって……! 汚い言葉で!」

「先にそちらが言ったんですよ『デカ女』って。私はお兄様と違って耳がいいのでちゃんと聞いていましたよ。それとも自分が言ったことも忘れたんですか? 悪いのは耳と目だけじゃ無いんですね」

「オレとお前を同列に考えるな!」

「はぁ?お兄様に口ごたえするな!ってことですか? 敬って欲しいなら尊敬できる兄らしいところのひとつも見せてくださいよ」

「オレの方がお前よりも優れてるに決まってるだろう! 全てが! 生まれつき違うんだ!」


 わめきき出した兄を見て、シャギーはため息をついて本を閉じた。こうも騒がれては読書をすることもできない。

 とっとと退場させよう。シャギーはそう決めるとおもむろに立ち上がった。


 カランコエは真っ直ぐ向かってくる妹を見て、気圧されたように息を呑む。どうにか踏みとどまったが、間近で相対すると僅かではあるが妹のほうが背が高い上に、華奢な兄は腕力に自信がない。カランコエが小柄なのもあるが、シャギーは同年代の男女と比べても背が高い。今ではタテに長い方向で落ち着いたが、生まれたときはそれはそれはむっちりと大きな赤ん坊だったのだ。

 シャギーは、ずっと、大きく骨太な体を、母のような可憐さのない体を、いつも兄に蔑まれ恥じてきた。

 だが今はそんな気持ちはまったくない。


『ああ、さすが悪役令嬢……持ってる・・・・わ!この恵まれた高身長!』


 前世のシャギー、菊子は背が低かった。電車では周囲の人間に押しつぶされ、初見ではナメられがちで、ボトムもシャツも思った丈感では着られず、苦労してきたのだ。高身長、万々歳。誇るところしか無い。


 間近に立たれた無言の圧力に思わずのけぞったカランコエを、のそりと見下ろす。


「……っ! みっともない大女が!」


 わめく兄の足元を目掛けて魔法でつむじ風を起こす。足をすくわれたカランコエは無様に転ぶ──はずが、フワリと一瞬起きた微風はパシュンと軽い音を立てて消えてしまった。すぐさま水魔法でバケツ一杯ほどの水を発生させ、何事かと自分の足首あたりに目をやる少年に向かってぶちまける──はずだったが、発生した水は掌一杯ほどの僅かなもので、ふよふよと頼りなく兄の頭上に浮いていた。


『うっ! さすが〝噛ませ令嬢”……っ! 才能が残念!』


 ここ数日、シャギーが一心に読みふけっていたのは魔法の教本であった。


 この世界において、魔力とは精霊と通じる力である。


 古代、地上に精霊が生まれたことで世界のすべては始まった。生まれ出(いで)た精霊は大気を、水を、大地を、火を作った。やがて精霊の力が地上に満ちて、緑に溢れ、たくさんの大地と水の生物が生まれた。そして最後に人間が生まれたのだ。

 最後に生まれた人間は精霊を使役する力を持っていた。この地上にあるものはすべて精霊によって生かされている。ただ生きる為にあるそれを、人間はさらなる力を得る為に使役する権利と知恵を得た。それが、魔法である。


 魔法は、基本的に風・水・土・火の4つである。

 基本的に、というのは、ごく稀に、光魔法と呼ばれる5つ目の魔法を発現させる者が現れるからだ。光魔法とはつまり光の精霊を使役する魔法なのだと考えられているが、詳細はほとんど解明されていない。過去にも現在にも光魔法の発現者が少なすぎて、研究が進んでいないのだ。


 光魔法には四元素全ての力を増幅させる力があるためそれらの精霊との結びつきはわかっているが、光の精霊についてはその存在の有無も含め謎のままだ。

 その発現はいまや伝説と言われるほど珍しく、ここイフェイオン王国では数百年現れていない。その伝説の力を得て聖女となる少女こそが、ゲーム〝イフェ聖”の主人公、ヴィーナス・フライトラップであった。


 さて、その倒しやすさから一部のファンからは〝噛ませ令嬢” の名を賜っていた(らしい)シャギーだったが、腐っても悪役令嬢の盛りスペック。なんと風・水・土・火の四元素すべての魔法が使えたのである。ちなみに通常一人の人間が持つ魔法の属性はひとつ。制作会社による謎の大盤振る舞いだ。もっとも、そのハイスペックさに見合わぬ威力の低さによって〝噛ませ令嬢”だったわけだが。


(素質を持ってるだけでも上々。あとは威力を高めるだけよ)


 使えるものを鍛えずしてどうする。シャギーの中身の半分は鋼の根性を持つ菊子。努力にためらい無し。


「おい!!」


 黙り込んだまま自分を見下ろす妹に、カランコエが声を張り上げる。


(忘れてた。しかしうるさい……邪魔)


 シャギーは兄の存在を思い出すと、取り敢えず排除することにした。

魔法についてはこれから力を付けていくことにして、まずは有効な物理でと、少年の肩をどつく。小柄な兄はあっけなく尻もちをついた。


 まさか妹から反撃されるとは思ってもいなかったらしく、おとなしくなった兄を見下ろす。用もないので放置で問題ないが、今後のために一言だけ釘を刺しておこうと、しゃがみこんで正面から青緑の瞳を覗き込んだ。


「私は忙しいの、お兄様。邪魔したら次は燃やす。もしくは埋める」


 まだ火魔法も土魔法も試していない。覚えることも鍛えることも盛り沢山だ。シャギーはカランコエを締め出し派手な音を立てて扉を閉ざすと、いそいそ、ウキウキと読書に戻った。





「魔法の家庭教師を?」


 シャギーの父、アクイレギア・ビィリディフローラ・チョコレート・ソルジャーは菫青石の瞳を丸くして娘を見た。名前が長い。ビィリディフローラは洗礼名で、チョコレートはソルジャー伯爵家が代々……以下略。ソルジャー伯爵である。


 その日の晩、食事の席でシャギーは父親に魔法を習いたいと切り出した。昼間、兄に使用してみた感覚で教本のみでの独学で効率が悪いと感じたからだ。


「お前みたいな愚図にできるもんか!」


 昼間のこともありカッとなったカランコエが、父親の前で取り繕うことも忘れ声を荒げる。


「カランコエ、シャギーに謝りなさい」


 兄妹の父親アクイレギアが、兄のカランコエに厳しい目線を向ける。いつもは蕩けるように甘く兄妹を映しているウォーターサファイアの瞳は、凍らせると氷点下の冷たさを持つ。視線を受けた少年はビクリと体を強張らせた。青緑の瞳を妹シャギーに向け、口を開く。が、無様に転ばされた屈辱に気持ちの折り合いをつけることができなかったのであろう。

 謝罪を音にすることは叶わず、少年は椅子を蹴って立ち上がり、そのまま食堂を飛び出してしまった。


「カラン!」


 アクイレギアはその背を追うために咄嗟に席を立つ、が、シャギーとの話が途中であることを思い出し、僅かな逡巡の後、長く息を吐いて座り直した。


「シャギー、カランは……いつもああいうことをお前に?」


 先程、戸惑いなく妹を貶したカランコエと、それを聞き慣れた言葉と受け止めるシャギーの様子を見て、察するものがあったのだろう。父は娘に尋ねた。

 兄は妹に辛辣な言葉を掛ける様を、使用人の前ですら隠してきた。今日、シャギーが歯向かったりしなければ、おそらくこの先も父に知られることなく立ち回ったことだろう。


「お母様が亡くなってからは、ずっと」

「そんなに長い間!?」


 娘の答えに、父が目を見開く。

 そうして、しばらく言葉を失っていたアクイレギアだったが、やがて悔恨を滲ませた声を絞り出した。


「すまない、気付いてやれなかった……。ずっと苦しかっただろう」

「はい。ですが、もう平気です。無視します。あんまりうるさい時は言い返せばいいことですし」


 しれっと返した娘の顔を、驚きでまじまじと見てしまう。幼い少女の表情に無理をしている様子はない。もう一度、伯爵は深く深くため息をついた。


 自分の不甲斐無さ、カランコエとシャギーどちらも比べようも無いほど愛おしい気持ち。5歳からの3年間、実の兄から心無い言葉を投げられてきた妹の痛み。すぐには整理がつきそうも無かった。今なお恋しい妻、もうこの世には居ない唯一人の女性、二人の母であるガーラント・ソルジャーがここに居てくれたら、こんなに悲しいことは起きなかったのだろうか。


「多分お兄様は、お母様が生きている時から私のことが嫌いですよ」


 黙してしまった父の思考を読んだかのように、シャギーが口を開く。


「──お母様は、私を産んだせいで体を壊したんですか?」


 兄につらく当たられる理由について、いくら自身の行動を振り返っても思い当たるものがない。ならばおそらく”存在”そのものが、兄にとって許せないものなのだ。シャギーはそう考えた。


 ソルジャー伯爵が、娘の発言に撃ち抜かれたように目を丸くして固まる。

 父の表情から、シャギーはそれが肯定なのか否定なのか読み取ることは出来なかった。ただ、青い瞳は深く傷付いた色に染まっている。


 母親の死について、もしそれが自分を出産したことと関わりがあるとしても生まれてきた子には罪がない。シャギーはそう理解している。だから例えその事実を肯定されたとしても、そこから自己否定へと繋がることはきっと無い。だが、罪悪感に近いなにかと、兄の癇癪への理解は芽生えるだろう。そしてそれは、おそらく永遠に、心臓に根を張るのだろうという予感も。


 ひどく苦しそうな顔をしたアクイレギアの両手がゆっくりと伸ばされる。それはシャギーの髪へと到達して、いたわるように頭部を包み込んだ。


「そんな風に考えていたの?」


 苦しかったでしょう、そう言いながら伯爵はついに一粒涙を落とした。


「お前と……カランコエにも、きちんと話しておくべきだったのに、本当にすまない」


 自分よりも父のほうがよほど苦しそうだと、シャギーは思った。優しく髪を撫でる大きな手にそっと触れて、両手で包んで胸の前へと持ってくる。辛そうな父親を勇気づけるように、その手をしっかりと握りしめて、まっすぐに深い青を見つめた。


「聞きたいです、お父様」


 それは前世のことを思い出す前の、無力な幼い少女の為でもあった。兄に怯え、理由なく憎まれることの恐怖から、周囲のあらゆる愛情を試そうとしていた少女。確かに自分であり、だけど多くのものが欠けていた自分。


 アクイレギアは失くした妻と同じ色をした娘の瞳を見た。

 母親の色彩を写したような娘のシャギーと、母親の容貌に生き写しの息子、カランコエ。何にも変え難く愛おしい存在。

 妻が遺した、それぞれに自分の身を分け与えたかのような二人の兄妹が、憎み合うようなことになっていたなど許されることではなかった。


 意を決して、口を開く。


「ガーラント……お前たちの母親は、贖人だった」







【植物メモ】


和名:月兎耳[ツキトジ]

英名:パンダ・プラント[Panda plant]

学名:カランコエ・トメントーサ[Kalanchoe tomentosa]

   

●カランコエ・トメントーサ・チョコレート・ソルジャー

[Kalanchoe tomentosa Chocolate Soldier]

カランコエのカラーバリエーションでチョコレートブラウンに色づく。


ベンケイソウ科/リュウキュウベンケイ属

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