51.私を忘れないで forget me not
原初の世界、それはただひとりの神によって創られた。
神は地の精霊を生み、水の精霊を降らせ、風の精霊を飛ばして、火の精霊に命を灯した。そうして精霊が満ち満ちた地上に、自身の子である人を生み出した。
精霊によって整えられた地上で人々が喜び暮らしていけるように、神は人に精霊を操る力を与えた。ところがやがて人は神を忘れ、自分が神であると錯覚し、悪心を持った。
神は人を愛おしく思う気持ちと、人を憎む気持ちの狭間で苦悩し、ついにその相反する心は引き裂かれ、2柱の神に分かれてしまった。
それが、人を慈しみ護る女神と、人の力を奪う荒ぶる獣。
荒ぶる獣は人が生きられぬよう地上の精霊を殺し尽くそうとした。それを見た女神は、自分の身を犠牲にして獣を石化し、地の果てに封じたのだ。
それが“精霊殺し”。
触れた精霊を消滅させる魔石は、邪神と成った獣の化石だ。
獣を封じた女神もまた、力を消耗し眠りについた。
そして人は、親と呼べる神を失ったのだ。
◆
《女神の欠片、そして獣の因子。あなたたちを待っていました》
そう言って、女神は語った。原初の世界の成り立ちについて。そして、失った自分の半身について。
ここは一体、どこなのだろう。白い空間を見渡してシャギーは考える。白い空間、すなわちここは前世で親友のヤマちゃんが言っていた「異世界転生のお約束である神との面接会場」というやつなのでは、と。その証拠に、元の場所に戻すよう懇願するシャギーに女神は言ったのだ。
「お願いです、今すぐ帰してください! 先生が処刑されちゃう!」
《心配することはありません。ここは時の概念が無い領域》
つまり、先程までいた時空とは切り離された場所だということだ。初対面の女神のことをどこまで信用して良いのかはわからないが、自力で帰る手段が見つからない以上、《心配ない》という女神の言葉を信じる他はない。
「女神の欠片って、聖女のことじゃないんですか? それに獣の因子って、そもそも何なんですか?」
女神が待っていたというなら、要件が済めば帰還できるはずだと対話を試みる。獣の因子というワードに、隣で直立していたスパイクが弾かれたようにシャギーを見た。
《女神の欠片も獣の因子も、人がそう呼んでいるだけのこと。ですが──そう名付けた頃の人々には、まだ私達の記憶が残っていたのかもしれませんね》
彫像のように整った女神の顔が、ほんの僅か、微笑むように揺らめく。だがその笑みはどこか寂しそうに見えた。
《女神の欠片とは、四つの精霊すべてに等しく祝福された存在。世界を愛する私の記憶の断片が魂に混じって生まれてきた者です》
そこで女神はシャギーを見る。
《あなたのように、私が呼ぶ声に呼応してこの世界に渡ってきた魂にも、私の記憶の断片があるはずなのです》
女神の記憶の断片。それは乙女ゲームのことなのだろうか? あのゲームのシナリオを書いた人物は、この世界の女神からの声に影響されてストーリーを生み出したのか。
考えるシャギーの思考を読んだかのように、女神が頷く。隣に立つスパイクは、何のことかわからないと言った表情でシャギーを見ていた。
《獣の因子は、私が封じた半身──荒ぶる獣の記憶の断片を持って生まれし者。四つの精霊を操る力を持ちながらすべての精霊を等しく拒絶する力を持つ存在です》
シャギーはスパイクを見た。女神の欠片も獣の因子も、地上で四元素と呼ばれる精霊を操る力を持つ存在。確かにその条件であればシャギーもスパイクも当てはまる。だが、生まれつき闇魔法を持って生まれたスパイクや光魔法を使えるヴィーナスの存在は。
《私や獣の断片が強く刻まれて生まれた器は私たちの記憶が作用し、無意識に四精霊を操る術式に組み込まれるのです。光も、闇も、もとは同じ存在。すべてを祝福すれば白に、すべてを吸収すれば黒に》
それは衝撃の事実だった。光魔法と闇魔法は四元素とは別の魔法だと考えられてきた。それが、もとは同じ、四つの精霊の用いた力だとは。
「つまり、先生と私が“疑似光魔法”と呼んでいた研究は、疑似ではなく正当な光魔法の研究だったと……?」
《その通りです。そしてあなたの想いの強さと祈りの強さがその理論の発動条件を満たした》
《あなたの器には、もともと光の術式の記憶が刻まれてはいなかった。けれどあなたはそれを研究と研鑽を積み上げることで到達した》
シャギーは膝をつく。先生が、私が、築き上げてきたものは間違っていなかった。この世界に生まれ変わって、自分がやってきたことは間違っていなかった。
一筋の涙を流すシャギーに、スパイクが寄り添って肩を抱きしめる。
《私を忘れないで》
女神が言う。
《私はミオソティス。忘れられた女神》
忘却とは、その力を失うことだ。かつて女神ミオソティスは人々から忘れられ力の多くを失った。それからずっと、神に成り代わろうとした者によって女神の記憶は隠されてきたのだ。そしてその存在を人々から完全に隠すために、神との縁を持って生まれた者には、“聖女”という新たな称号を刻んだ。
しかし、おとぎ話として断片的に「女神の欠片」という言葉が残っていたことで、完全な消滅には至らなかった。
《私を忘れなければ、あなたは……あなたたちは、その力を使うことができる》
だからどうか、この世界を救って。
◆
視界を焼く純白の光に目が眩んだ瞬間、周囲に音が戻ってきた。シャギーとスパイクは寄り添ったまま顔を見合わせ、処刑台に向き直る。突如現れた眩い光球と黒い結界に、人々は処刑を忘れ呆然としていた。
シャギーは立ち上がり、全力で駆け出す。魔力がすっからかんになったはずの体に精霊のエネルギーが満ちていた。
立ち尽くす人々が正気を取り戻すよりも早く処刑台を目指した。そしてついに、魔法の射程範囲に到達する。大きく膨らんだ魔力がシャギーの背中から漏れ出ていく。風魔法の衝撃波をフォールスを拘束する柱へとぶつけた。そのまま速度を上げて、処刑台の真下まで。
「先生!」
落下してくるフォールスを抱きとめるために両腕を広げ──しかしシャギーが受け止める前に、その体はスパイクに抱えられていた。
「信じられない……弟子との感動の再開を邪魔するなんて……」
「シャギーが他の男と抱き合うとことか見たくないんで」
横抱きにされながら呆然と呟くフォールスに、スパイクが応える。
「先生! 先生……!」
そんな攻防をものともせずにシャギーはスパイクの腕ごと、目の前の師に縋り付く。痩せてしまった腕を伸ばしてその頭をフォールスが撫でた。
「ずいぶん無茶をしましたね、シャギー」
「ごめんなさい! ごめ、ごめんな、さいっっ!」
滂沱の涙を流して、シャギーは泣きじゃくった。シャギーが無茶をするときはフォールスがいつも見守ってくれていた。その守護を失った恐怖に暗闇に突き落とされたような気がした。目隠しをされたまま歩む暗く細い夜の道を、延べられたたくさんの手に引かれながらようやく、渡りきったのだ。そして再び手にすることができた目印となる灯火。どうしようもなく温かい、師のてのひら。
だが、感動に浸っている間はない。顔を上げたスパイクの目に、武器を構えて突っ込んでくる敵兵が映る。抱えたフォールスを背でかばうように体を反転した瞬間、馬で駆け込んできたアクイレギアが盾となって間に割り込んだ。キイィンと澄んだ金属音が響き渡る。
「早く馬に!」
敵兵の剣を弾き飛ばして言うアクイレギアの指示に三人は即座に従った。長期の拘束によって体力が落ちているフォールスの代わりに彼の後ろに乗ったスパイクが手綱を取る。最後にシャギーの騎乗を確認し、号令が発せられた。
「全軍、これより撤退戦に入る!」
指揮官が吠え、地鳴りのように応える声が響き渡って、戦場が揺れる。
掲げられた青の旗に呼応して、紫の旗も全軍に撤退の合図が発せられた。先頭を走り出したシャギーは片手で手綱を操りながら魔法を放つ。地面から岩のような氷がせり出してきて、周囲の兵を吹き飛ばし道を作る。切り開かれていく退路をソルジャーとサングイネアの騎士たちが合流して追走した。
「手筈通りこのままロルフ・フィードラーまで登る」
先頭に追いついてきたアクイレギアがシャギーに伝えてくる。落ちる、とは言わない。自分たちの城はもはやこの王都ではないのだ。そのまま父が発光していた水の根の指輪を起動する。
「こっちは撤退に入った。そっちはどう? カランコエ」
『問題ない。父上の軍が通過次第、街道は封鎖する』
指輪からは兄カランコエの声が聞こえる。スパイクの前で水の根を使った父に驚いて顔を向ければ父もその視線に気付いたようで、目を丸くしているスパイクに向けて言った。
「知ったからにはわかるよね? ウチから離反するときはキミ、殺すから」
「──ハイ!」
殺すと言われた当人は、何故か元気いっぱいに返事をしている。どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
雲間から柔らかな光が地上へと差して、駆け抜ける青の集団を抱きしめているようだった。
【植物メモ】
和名:ワスレナグサ[勿忘草/忘れな草]
英名:フォーゲット・ミー・ノット[Forget-me-not]
学名:ミオソティス・スコルピオイデス[Myosotis scorpioides]
ムラサキ科/ワスレナグサ属
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